2018/05/26

三位一体の祭日の集会祈願

5/27(日)は三位一体の祭日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。

まず、集会祈願の出典について。通常形式のミサ典書の編集者たちは、特別形式のミサ典書にある集会祈願ををもとに、新たな言葉を付け加えて編集し、以下で紹介する三位一体の祭日の集会祈願とした。

次にラテン語規範版の祈りを見ていこう。

ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Deus Pater, qui Verbum veritatis et Spiritum sanctificationis mittens in mundum, admirabile mysterium tuum hominibus declarasti,

da nobis, in confessione verae fidei, aeternae gloriam Trinitatis agnoscere, et Unitatem adorare in potentia maiestatis.
父なる神よ、あなたは真理の御言葉と聖化する霊を世に遣わし、あなたの驚くべき神秘を人にお示しになりました。

わたしたちがまことの信仰を告白において、永遠なる三位の栄光を認めることができ、威光の力において唯一性を礼拝できますように。
聖なる父よ、あなたは、みことばと聖霊を世につかわし、神のいのちの神秘を示してくださいました。

唯一の神を礼拝するわたしたちが、三位の栄光をたたえることができますように。


ラテン語規範版では一文であるが、構造上は神に対する二つの祈願で構成されている。前半のqui節は父なる神(Deus Pater)を修飾し、神に関する事実を述べる役割を果たしている。後半は前半を受けた祈願という構造である。

前半部分で語られる神に関する事実とは、み言葉であるイエスキリストの受肉、人を聖化する聖霊の派遣、そして三位一体の神秘が啓示されたということであり、そのまま信仰宣言となっている。「驚くべき神秘」(admirabile mysterium)という言葉に示されるように、唯一の神に三つの位格が存在するということは神の啓示がなければ人間が思い知ることができないものであり、それゆえすべての人が必ずしも同意しえない真理になっている。神の神秘の奥深さを聖パウロは書簡の中でこう述べている。

ああ、神の富と知恵と知識の深さよ。神の定めは悟り難く、その道は窮め難い。「いったい誰が主の思いを知っていたであろう。誰が主の相談相手であったであろうか。また誰がまず先に主に与え、その報いを受けるであろうか」。すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。とこしえに神に栄光がありますように。アーメン。
(フランシスコ会訳聖書『ローマ人への手紙』11章33-36)



後半の祈願の部分に進もう。ここでは前半で語られたことを受けて、次の二つのことが祈願されている。第一にまことの信仰告白によって、父なる神、子なるイエスキリスト、二者間の愛である聖霊という三位は永遠の存在であり、その栄光を認めること、そして第二に神の威光の力によって、これら三位は一体であり神性は唯一であることを礼拝すること、これら2点を祈願している。

三位一体は計り難い神秘でありつづけるが、それでも神の恵みによってそれらを信じ、それらがわたしたちとともにおられることを希望し、互いを愛することのうちにいきるのである。ミサの冒頭に述べられる祈りを含む聖パウロの書簡を引用しておこう。

兄弟たち、不完全なところを改めなさい。励ましあいなさい。思いを一つにしなさい。仲良く暮らしなさい。そうすれば、愛と平和の源である神が、あなた方とともにいてくださいます。聖なる口づけをもって、互いに挨拶を交わしなさい。全ての聖なる人々が、あなた方によろしくとのことです。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、みなさん一同とともにありますように。
(フランシスコ会訳聖書『コリント人への第二の手紙』13章11-13)



さて、最後に日本語公式訳をみてみよう。
原文をはしょっているが、比較的原文に忠実な翻訳を行っている印象である。ただやはり、残念な箇所は指摘せざるを得ない。それは後半部分で「唯一の神を礼拝するわたしたちが」の部分である。上述のようにラテン語規範版においては「唯一の神を礼拝すること」は人間の努力でなしえないため神に祈願しているのであるが、日本語公式訳ではそれらは神の力なしでできるかのようである

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2018/05/24

米国フィラデルフィア大司教による、聖体拝領をめぐるドイツ問題について(前編)

米国フィラデルフィア大司教のチャールズ・チャプット大司教が「ドイツでおきていること」という題で書かれた記事が話題になっている。ドイツにおける聖体拝領の議論はドイツの司教たちが勝手に決めてよいものでなく、全教会に関することであり、それだけでなく、カトリック教会とは何かという神学的内容を含む重大な問題であることをロジカルに解き明かしている。急いで翻訳したので、訳の不十分な箇所はご容赦願いたい。

英語の原文はココ

ドイツでおきていること

フィラデルフィア大司教 チャールズ・チャプット

伝記『マルチン・ルターができる中で』の中で、ケンブリッジの学者リチャードレックスはルターの公的生涯の真に誕生したのは1517年でなく、1518年であるとする。ルターの95か条の論題は1518年1月にドイツで広く知られるようになった。同じ年の春にルターは告解のための手引きと、聖体拝領の際の心の適切な準備に関する説教を著わしている。特に説教ではカトリックの秘蹟神学について後年花咲くルターの攻撃の萌芽が見て取れる。トマス・カジェタン枢機卿がルターと会った時に既に感じた事実であり、1518年10月にアウグスブルグでルターのより論争を呼ぶ見解をルターが撤回するよう圧力をかけたのであった。

ルターは撤回せず、その後の話はよく知られている。

ルターの説教のちょうど500年後、聖体拝領はドイツにおいて再び議論の的となっている。今回の論争者は司教自身である。ミュンヘンのラインハルド・マルクス枢機卿と他のドイツ司教はカトリック信者と結婚したプロテスタントの配偶者が、特定の条件の下、つまり彼らが「聖体へのカトリック信仰を認める限りにおいて」、聖体拝領することを許そうとしている。ケルンのライナー・ウォルキ枢機卿と6人のドイツ人司教はこの動きに対して反対している。彼らはローマからの意見表明を求めたが、バチカンは仲裁することに消極的で、ドイツの司教たちに議論による合意に達するよう促すことで問題をドイツの司教に戻した。

ドイツ全国カトリック集会において、今月初め、この問題はヒートアップした。ドイツ大統領が、主要なテレビ局のキャスターたちと並び、公にマルクス枢機卿の側に立った。マルクス枢機卿は「誰かが空腹で信仰があるなら、かれらは聖体に近寄る手段を持たねばならない。それは私たちのパッション(共感)でなければならない。私はこれについて妥協する気はない」と論じ、ウォルキ枢機卿は同意せず、「(カトリックの)聖体におけるキリストの現存に『然り』と言う者は誰でも、当然に教皇制度、教会のヒエラルキー、聖人の崇敬等(これらは典型的にプロテスタントの信仰で否定されるものである)にも然りというであろう」と指摘した。ウォルキ枢機卿はさらに強調して「ドイツにおける私たちは普遍教会の一部、部分であり、ドイツだけの例外はない」と言った。

人間であるため、司教たちはしばしば相互に意見が食い違う。どんな司教会議でも内部の相違は珍しくなく、それらは、驚きなく、内部で処理される。しかし、二つの点でドイツの事情を別なものにしている。それは論争の世界的に目立っていることと議論が内包する教義内容である。誰が、いつ、なぜ、聖体を拝領するかという問題はドイツだけの問題ではない。もし、バチカン第二公会議が言う通り、聖体がキリスト教徒としての私たちの生活の源であり頂点であり、カトリックの一致の印であるならば、これらの問題に対する回答は全教会にとって意味のあるものになる。それらは私たち全員の関心事である。この観点にたち、私は、多くの司教の中の一人として率直に語るならば、考えそして議論するためのポイントを以下に示す。

1 もし聖体が真に教会の一致の印であり道具であるならば、もし私たちが聖体拝領の条件を変更する場合、事実上、教会とはなにものかという考えを再定義していないだろうか

2 意図的かどうかは別にして、ドイツの提案はこれを必然的に行うことになる。それはすべてのプロテスタント、又は全ての洗礼を受けた人に対する聖体を許すことの最初の段階である。なぜなら、結婚は究極的に、非カトリック者への聖体を許可する単独の理由にはならないからである。

後編へ続く

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2018/05/19

聖霊降臨の祭日の集会祈願

5/20(日)は聖霊降臨の祭日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。

まず、集会祈願の出典について。通常形式のミサ典書の編集者たちは、特別形式のミサ典書にある集会祈願を採用せず、『古ゲラシウス典礼書』など古写本に、聖霊降臨の前晩のミサ又は聖霊降臨の祭日の八日間の祈りとして収録されていたものを、文言を変えず、以下で紹介する聖霊降臨の祭日の集会祈願とした。

次にラテン語規範版の祈りを見ていこう。

ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Deus, qui sacramento festivitatis hodiernae universam Ecclesiam tuam in omni gente et natione sanctificas, in totam mundi latitudinem Spiritus Sancti dona defunde,


et, quod inter ipsa evangelicae praedicationis exordia operata est divina dignatio, nunc quoque per credentium corda perfunde.
本日の祭日の神秘によって、諸国民のうちにおいて、あなたの教会すべてを聖別される神よ、聖霊の賜を世界の隅々に注いでください。

そして、福音宣教の最初に聖なる慈悲深さがもたらしたものを、いま信者の心にも満たしてください。
すべての人の父である神よ、きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。聖霊を世界にあまねく注いでください。

教会の誕生に当たって、おこなわれた宣教の働きが、いまも信じる民を通して続けられ、豊かな実りをもたらしますように。


ラテン語規範版では一文であるが、構造上は神に対する二つの祈願で構成されている。前半のqui節は神(Deus)を修飾し、神に関する事実を述べる役割を果たしている。

前半部分では、神は諸国の民の中で、ご自身の教会を聖霊降臨の祭日の神秘によって聖別されていると述べている。第一の祈願にある全世界の隅々(in totam mundi latitudinem)は、、文脈上は神が聖別された教会(universam Ecclesiam tuam)と同義と理解した方がよさそうである。第一の祈願は、教会に聖霊の賜が注がれることを、教会を聖別される神に祈願している。聖霊の賜が実を結ぶためには、私たちが絶えず聖霊に聴き従う態度を持つ必要があることは言うまでもない。

神が教会を聖別する(sanctificas)ということの意味について、少し長くなるが、フランシスコ会訳聖書「ヨハネによる福音書(17章17節)」の注を引用したい。

「聖なるものとする」は、聖なる神が、人間や物を世俗の用から区別して自分専用のものとすることで、「聖別する」とも言う。旧約時代の祭司は、神への奉仕のために油を注がれて聖別された(出28・41、レビ8章参照)。エレミヤは預言者として選ばれたとき、神によって聖別された(エレ1・5)。新約では、使徒たちは福音の真理を伝えるために聖別される。彼らは外面的な注油によらず、真理の霊である聖霊によって聖別される(16・13参照)。



後半は第二の祈願である。そこでは神に対して、いまも信者の心に何かを満たしてほしいと祈願する。この信者(credentium)は、第一の祈願の教会(ecclesiam)と同義と理解した方がよさそうである。信者、すなわち教会の心に満たしてほしいものとは、福音宣教の最初の時(つまり、聖霊降臨がおきた朝)、神のあわれみの業によって引き起こされたものである。つまり、真理の霊が使徒たちの上に臨んだように、いまの信者の上にも真理の霊が臨むことを祈願している。真理の霊である聖霊が臨むことは神のあわれみの業であるので、「聖なる慈悲深さがもたらしたもの」(quod opera est divina dignatio)とへりくだった表現が使用されているのだろう。

Veni, Sancte Spiritus, reple tuorumcorda fidelium: et tui amoris in eis ignem accende.
聖霊来たり給え、信者の心に満ち給え。主の愛の火をわれらに燃えしめ給え。
(聖霊の導きを願う祈り)



さて、最後に日本語公式訳をみてみよう。

まず前半部分はラテン語規範版を無視した創作であり、翻訳ではない。しかも内容はラテン語規範文と全く異なる価値観である。つまり、ラテン語規範文では、神は諸国民の中から人々を選ぶ(=聖別する)とされているものが、日本語公式訳では神は全人類を一つにするとしており、日本語公式訳には何か世俗的な博愛主義の香りを感じざるをえない。

また後半部分はラテン語規範文同様に二つの祈願の構造をもっているが、こちらも意味はラテン語規範版と異なる。日本語公式訳では、聖霊を神が与えてくれれば、いまの信者は初期キリスト教会の熱心さで宣教活動に邁進でき、結果、豊かな実りがもたらされるという内容になっている。そこには、宣教するいまの信者が宣教するに値する存在なのかという自己に立ち返る謙遜さはないように感じる。情熱が空回りしないことを心配してしまうような祈りになっている。

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2018/05/09

主の昇天の祭日の集会祈願

主の昇天180510

2018年の5/10は主の昇天の祭日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。なお、日本では特別な許可の下、通常形式ミサにおいては復活節第7主日に主の昇天の祭日のミサを祝う。

以下で紹介する集会祈願は特別形式ミサのものである。というのは、通常形式のミサ典書第二版までは特別形式ミサの集会祈願ではなく、独自に編集した集会祈願が採用されていたが、同ミサ典書第三版において、特別形式ミサの集会祈願も通常形式で使用することができるようになったからである。また通常形式のミサ典書第三版に対応する日本語公式訳は存在していないため、日本語公式訳の紹介はしない。

早速祈りを見ていこう。

ラテン語規範版 拙訳
Concede, quaesumus, omnipotens Deus:

ut, qui hodierna die Unigenitum tuum Redemptorem nostrum ad caelos ascendisse credimus; ipsi quoque mente in caelestibus habitemus.
全能の神よ、切に願います。

あなたの御独子、わたしたちの贖い主がこの日昇天したことを信じるわたしたち自身も、心をもって、天の国に住処をもつことをお許しください。


ラテン語規範版では一文であるが、構造上、ut節の前後で二つに分けることができる。この祈りでは、ut節は主節の動詞「~をお許しください」(concede)に直接係る従属節である。この文の構造を念頭に入れた上で、内容に入ってい行きたい。

前半部分では、神を「全能の神」(omnipotens Deusm)と呼びかける。この呼びかけがされる時は、わたしたちの努力でなしえないことを、神の力に信頼した内容の祈願が続くことが多い。その祈願の内容が後半部分となっている。

後半部分の主語は「わたしたち」である。「ut」のすぐ後にある「qui」節は私たち自身に関するもので、ここで「わたしたち」は以下の3つのことを信じているとされている。すなわち、イエスキリストは神の御独子であること、イエスキリストはわたしたちの贖い主であること、イエスキリストは天に上ったことの3つである。これは主の昇天の祭日に当たって、信じるべきことが簡潔に表されているといえよう。

では、上記3つのことを信じるキリスト信者が願うことは何かというと、喜びと希望の心をもって、天国に住処を持つことができるようにになることである。キリストの昇天は悲しみの別れではなく、喜びと希望の別れである。喜びとはわたしたちが神との一致がはかれるよう、キリストが天の門を開けてくださったからである。希望とはまたキリストが再臨することも知ったからである。

ガリラヤの人たちよ、なぜ、天を仰いで立っているのか。あなた方を離れて天に上げられたあのイエスは、天に昇るのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。(使徒1.11)






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2018/05/08

「プロテスタントは聖体を拝領できない」はもう古い?

日本がゴールデンウィークのあいだ、またもやドイツ司教団と教皇フランシスコがカトリック教会に深刻な問題を引き起こしている。東京大司教区と関係の深いケルン大司教区のライナー・ウオルキー枢機卿もこの件に深くかかわっておられるので、教皇や司牧者が聖霊の声に聴き従うことを祈る必要性があることを痛感。

まず時系列に経緯を紹介。
なお、経緯はアメリカのカトリック系メディア「National Cathlic Register」の記事によるもの。

2018年2月22日
カトリック信者と結婚をしたプロテスタント信者に対して、一定の条件の下、聖体拝領を許す指針案を三分の二以上の賛成でドイツ司教団が可決。この案で示された一定の条件というのは、司祭又は司牧の責任を負う者と一緒に「真剣な良心の究明」を行い、「カトリック教会の信仰を認め」、「深刻な霊的痛みに終止符をうつこと」を希望し、「聖体に対する飢えを満たしたいという望み」をもつ場合とされている。ドイツ司教団によれば、このドラフトの指針は非カトリック信者の聖体拝領を規定した教会法の規定(844 § 4)に反しないもので、適用される事例はごく少数だとのこと。
(参考にした記事はコチラ

(参考)教会法(844 § 4)(私訳)
死の危険がある場合、または他のさし迫った重大な必要がある場合、カトリック教会と完全な交わりがなく、自身の共同体の教役者に近づくことができず、自発的にこれらの秘蹟(注、聖体、ゆるし、病者の塗油)を求める他のキリスト信者に対し、彼らがこれら秘蹟に関するカトリックの信仰を表明し、適切な用意がされていることを条件に、教区司教又は司教協議会の判断に従い、カトリックの教役者はこれらの秘蹟を合法的に授けることができる。



2018年4月4日
上記の指針案はカトリックの教義に反するとして、ケルン大司教のライナー・ウオルキー枢機卿(1956年生)を含む7名のドイツ司教がバチカンの裁定を求めて上訴。これに対して、上記指針案の賛成派でドイツ司教団議長のマルクス枢機卿(1953年生)はドイツの司教に書簡を送り、指針は教義にも教会法にも抵触しておらず、指針案は「教皇フランシスコのエキュメニズムにおける次の一歩をすすめる取組」の結果であると表明。
(参考にした記事はコチラ

(参考 バチカンの裁定を求めた7人の司教)
ケルンのライナー・ウオルキー枢機卿
バンベルグのLudwig Schick大司教(1949年生)
パッサウのStefan Oster司教(1965年生)
 ※現在ドイツ司教団でもっとも若い司教
レーゲンスブルグのRudolf Voderholzer司教(1959年生)
ゲルリッツのWolfgang Ipolt司教(1954年生)
アウグスブルグのKonrad Zdarsa司教(1944年生)
アイヒシュッテットのGregor Maria Hanke司教(1954年生)



それでバチカンから、ドイツ司教団の話を聴く機会が設定され、ローマで5月3日に打ち合わせがもたれたが、
2018年5月3日
バチカンは裁定せず、ドイツ司教団に判断を差し戻し。「全会一致できるまで」指針を再考することを求める。なお、当日の打ち合わせには教皇フランシスコは出席しなかったが、その意向が伝えられたという。
(参考にした記事はコチラ

ドイツ司教団で解決できないものをバチカンが裁定しないなら、バチカンの役割放棄と言わざるを得ない。プロテスタントの配偶者に聖体拝領させたい司祭たちは、ドイツ司教団の決定が決まっていないことをいいことに、自分たちのしたいことを「緊急避難」と称してやり始めることは容易に想定できる。そして、今度はカトリック信者と結婚をしていないプロテスタントから「なぜカトリック信者と結婚をしているか、していないかで差別するのだ」という声にこたえて、それらのプロテスタントにも改宗なしで聖体の拝領を許すようになるだろう。

私はエキュメニズムの道具に、カトリック信者が大切にしている聖体を使ってほしくない。なぜプロテスタント信者がカトリック教会で聖体を拝領できないかは既に明確である。聖体に対する考えを巡って、カトリックから分かれてプロテスタント教会ができたにもかかわらず、宗派を変えずにカトリックの信仰の中心である聖体を当然の権利のように要求するプロテスタントの甘えと、その甘えにすり寄る弛緩派聖職者の存在に深い悲しみを覚える。

他方で、ドイツ司教団の中でも反対の声をあげている7人の司教様の存在、バチカンの裁定差し戻しはおかしいと声をあげられたオランダ・ユトレヒトのウィレム・ジャコブス・エイック枢機卿(1953年生)のような勇気のある人たちの存在に大いに励まされるのである。

(参考)エイック枢機卿 バチカンの差し戻しに反対意見を表明(2018年5月5日)
http://www.ncregister.com/blog/edward-pentin/cardinal-eijk-pope-needed-to-give-clarity-to-german-bishops-on-intercommuni