2017/11/18

御公現後第6主日(年間第7主日)の集会祈願

明日(11/19)は特別形式ミサに与れる大切な日。伝統的な暦では、聖霊降臨後第24主日以降は御公現後の主日の典礼文を使用する。年によって聖霊降臨の祝日が移動するため、聖霊降臨後にある主日の数が変わるが、今年は26主日までなので、明日(11/19)は「御公現後第6主日」の典礼文を使用し、来週(11/26)は「典礼暦最後の主日」の典礼文を使用する。

御公現後第6主日の集会祈願は、通常形式ミサの「年間第7主日」の集会祈願と同じである。

(ラテン語 規範版)
Praesta, quaesmus omnipotens Deus,
ut, semper rationabilia meditantes,
quae tibi sunt placita,
et dictis exsequamur et factis.


(拙訳)
全能の神よ、切に願います。
私たちが理性的に考えをたえずめぐらし、
あなたが良いと思われるものを
ことばと行いの両方で果たすことができますように。


訳が難しいのは2行目の「rationabilia meditantes」の箇所。品詞分解すると、
rationabilis 形容詞rationablilisの複数・中性・対格 「合理的な、理性的な」
meditantes 動詞mediorの現在分詞 男性・複数・主格 「黙想する、考察する」

拙訳では、理性を使って、自分の周りに起こる出来事に対して、それが神様との関係でどのような意味を持つのかを思いめぐらす(反芻する)イメージで捉えた。

さて、日本語公式訳を見てみよう。

(日本語公式訳)
全能永遠の神よ、
わたしたちが、いつも聖霊の光を求め、
ことばと行いをもってみ旨を果たすことが
できるように導いてください。


神様への呼びかけが原文無視なことを除くと、忠実に翻訳されている印象を受ける。
ラテン語規範版の2行目部分を、「いつも聖霊の光を求め」と思い切った意訳しているが、原文にある意味からかけ離れているとまでは言えないと思う。

なお、Fr.Zのサイトによると、英語公式訳では、「always pondering spiritual things」(絶えず霊的なことを考え)となっているが、フランス語のミサ典礼に使用されるラテン語の辞書には、形容詞「rationabilis」の意味として「spirituel(霊的な)」があてられているため、訳としておかしいことはないとのこと。

「semper rationabilia meditantes」の翻訳を考えていると、自分は聖母マリアのことを思い出す。私は以下に引用した聖書箇所に見られる、聖母マリアのとった態度こそ、この集会祈願を理解するためのキーになると思う。

そして、彼らは急いで行き、マリアとヨセフ、そして飼い葉桶に寝ている乳飲み子を捜し当てた。それを見た羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを、人々に知らせた。羊飼いたちが語ったことを聞いた人々はみな不思議に思った。しかし、マリアはこれらのことをことごとく心に届め、思いを巡らしていた。
(ルカによる福音書 2.16-19)

それから、イエスは両親とともにナザレに下って行き、二人に仕えてお暮しになった。母はこれらのことをことごとく心に留めていた。イエスは知恵も増し、背丈も伸び、ますます神と人に愛された。
(ルカによる福音書 2.51-52)

(聖書はフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』より引用)
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2017/11/04

年間第31主日の集会祈願

今週も特別形式ミサがないため、通常形式ミサに与るために日本語のミサ典書を読んでいる。
2017年の11月最初の日曜日は年間第31主日にあたるのだが、ラテン語規範版にある集会祈願がどう翻訳されているかを確認すると、残念ながら、今週もひどい

年間第31主日の集会祈願は、伝統ミサの「聖霊降臨後第12主日」のコレクタとほぼ同じ。相違点は冒頭部分で、「Omnipotens et misericors Deus(全能のあわれみ深い神よ)」から、「Omnipotens sempiterne Deus(全能永遠の神よ)」と変更されている。Fr.Zのブログ記事によれば、この祈りも6世紀のミサの祈りを記した写本にまでさかのぼることができるという。

ラテン語規範版)
Omnipotens sempiterne Deus,
de cuius munere venit,
ut tibi a fidelibus tuis digne et laudabiliter serviatur,
tribue, quaesumus, nobis,
ut ad promissiones tuas sine offensione curramus
.


(拙訳)
全能永遠なる神よ、
あなたの賜物によって、
あなたはあなたの信者によって、ふさわしく賛美をもって仕えられます。
切にお願いします。願わくはわたしたちが
躓くことなくあなたの約束に向かって駆けていけますように。


さて日本語公式訳を見てみよう。

(日本語 公式訳)
すべてを一つに集めてくださる父よ、
信じる人々があなたにふさわしい礼拝をささげることができるのは
あなたの恵みのよるものです。
今ここに集まっているわたしたちが、約束された国に向かって
ともに歩むことができますように。

いつものとおり、冒頭から原文無視
二行目、三行目、四行目はまだ原文を意識した意訳となっているので、少し期待を持たせてくれたが、五行目の「ともに歩むことができますように」でまた転んでしまった

原文のラテン語「curramus(私たちが駆けていけるように)」に、全く逆の意味を持つ「歩く」を何故あてる?
また「sine offensione(躓くことなく)」を翻訳していないことも問題である。

神の国に向かう信者のさまを「歩く」と表現すること自体を問題視しているのではない。ここで指摘したいのは、ラテン語原文にある「curramus」の翻訳を真逆の意味を持つ「ともに歩むことができますように」という訳語を使用していること、そしてラテン語原文にある「curramus」と言う表現から想起される競技者のイメージで、神の国に向かう信者のさまを捉えることは聖書的であり、それゆえ有益であるという点、この2点である。

日本語の公式訳の集会祈願を読むと、私がイメージするのは、横一列に手を取り合って行進している様子。
そう、デモ行進の情景である。
神の国に至るキリスト信者のイメージをデモ行進の情景として捉えるのなら、原文を無視して「ともに歩む」という言葉を使用し、平和に行進しているのだから、躓かないでしょうと「sine offensione」を省いてしまうのも理解できなくはない。

他方でラテン語規範版の集会祈願を読むと、私がイメージするのは、マラソン競技の情景である。聖パウロが競争の喩えをもって、私たち信者がどう生きるべきかを説いていることを思い出す人も多いのではないだろうか。私もそんな一人である。それゆえ、私は神の国向かって「走る」というイメージは聖書的であると思う。そして、走っている中で外の障害物(困難)にも、内の障害物(傲慢、偏見)にも躓かずに走っていけることを切に祈ることが大切であると思う。

競技場でみな走ることは走っても、賞を得るのはただ一人だということをあなた方はしらないのですか。だから、あなた方も賞を手に入れられるように走りなさい。(コリントの人々への第一の手紙9.24)

兄弟のみなさん、わたしは自分がそれをすでにしっかり捕らえているとは思っていません。ただ一つのこと、すなわち、後ろのことを忘れて前のことに全身を傾け、目標を目指して、ひたすら努め、キリスト・イエスに結ばせることによって、神が、わたしたちを上へ招き、与えてくださる賞を得ようとしているのです。
(フィリピの人々への手紙3.13-14)


(聖書はフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』より引用)

最後に、Fr.Zの考察から興味深いものを紹介。彼はラテン語規範版の2行目にある「munere(munusの単数・奪格)」の多義性に注目する。つまり、この集会祈願では「munere」と奪格で用いられているため、「贈り物」「賜物」の意味でとらえるのが正しいものの、「munus」は「職務、義務、すべきこと」という別の意味をもっている。特に「職務」という意味で、教会の「tria munera(三つの職務。つまり教えること、治めること、聖化すること)」という用例もあることから、ただ「賜物」と訳するのでなく、あえて「祭司的賜物」と意訳してはどうかと提案している。
2017/10/28

年間第30主日の集会祈願

明日(2017年10月29日)の主日ミサは年間第30主日。
特別形式ミサがないので、通常形式のミサに与るために日本語のミサ典書を読んでいて、いつものごとく(?)集会祈願で躓いた

年間第30主日(A年)の福音書は、「最も重要な掟」とは何かをイエスが明らかにされる箇所となっている。
当日のミサの集会祈願は内容的に同じテーマとなっている。

(ラテン語規範版)
Omnipotens sempiterne Deus,
da nobis fidei spei et caritatis augmentum,
et ut mereamur assequi quod promittis,
fac nos amare quod praecipis.


Fr.Zのブログの記事によると、この祈願文は伝統ミサの「聖霊降臨後第13主日」ミサのコレクタと同じで、6世紀のミサの祈りを記した写本にまでさかのぼることができるという。

(拙訳)
全能永遠の神よ、
あなたが約束されたものを私たちが受けるに値するように、
私たちの信仰、希望、愛を増し、
あなたが命じられたものを私たちが愛せるようにしてください。


さて、私が躓いた日本語のミサ典書の集会祈願。
いつも通りにラテン語原文を無視した翻訳となっているが、今回はかなりひどい

(日本語 公式訳)
恵み豊かな神よ、
わたしたちの信仰、希望、愛を強めてください。
すべてに越えてあなたを愛し、
約束された永遠のいのちを受けることができますように。


冒頭から神様を呼びかける言葉が全然違う。
二行目はよいとして、三行目・四行目も原文無視。
ほとんど創作の祈りである。

原文無視も許せないが、今回一番ひどいのは、「fac nos amare quod praecipis」(あなたが命じられたものを私たちが愛せるようにしてください)を翻訳できていない点である。
( 「assequi quod promittis」(あなたが約束されたものを得る)の翻訳も、「約束されたもの」の内容を永遠の命に限っている点もひどい翻訳と言えるが、今回は割愛)

つまり、福音書でイエスが最も重要な掟とは神と隣人とを愛することであると説かれている主日なのに、主がわたしたちに守るべき掟として命じたことは無視。また命じられた内容について、神への愛に言及しているが(三行目)、隣人愛は無視されている。

ともあれ、このひどい集会祈願の翻訳に出くわしたことで、かえって以下のことを学べたのは有益であった。
これも神の恩寵なのだろう。

①神は人間に守るべき掟を与えていること(つまり、やってもやらなくてもよい道徳ではない)
②その掟の内容は、神への愛と隣人愛で、片方だけあればよいというものではない

(追伸)
名古屋教区の典礼委員会も年間第30主日の集会祈願の翻訳について疑問を持っている様子である。
このような動きが生まれていることは望ましいと思う。
http://ndlc.jp/collect_30.html
2016/10/30

列福式まであと100日

ユスト高山右近の列福式まであと100日。
右近の「長い忍耐がいる殉教」(列福申請書の表現)を思い起こしたい。
2016/10/20

高山右近列福式の聖歌が決まる

列福式の聖歌が決まったとのこと。
ソースは列福式公式ゆるきゃら「う~こんどの」のfacebookページより。
聖歌隊参加者への聖歌郵送に合わせて、一般にも公開されたようだ。

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ラテン語聖歌、カトリック聖歌集の歌、典礼聖歌、外国語の聖歌。
選ばれた聖歌をみると、そのまま日本の教会の歴史をなぞるようだ。
列福者は今の時代の人のものではなく、あらゆる時代の人のものだ。
またラテン語嫌いが聖職者に多い日本の教会の事情を斟酌すると、
今回の選曲は合格点を出せると思うが、どうだろうか?

う~こんどの、関係者に感謝!