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2019/02/16

【ラテン語】教皇聖ヨハネ23世の日本人へのメッセージ【肉声】

2019年2月17日はラジオ・バチカン放送の日本向け放送の開始60周年の記念日にあたる。
この放送の開始に当たって、当時の教皇聖ヨハネ23世が日本人に向けてラテン語で挨拶と祝福をラジオを通じて送ったのだが、
その貴重な音源がインターネットに公開されているので、シェアしたい。

リンク先の記事の中で、音源が公開されている。

実は教皇聖ヨハネ23世の肉声を聞いたのはこれが初めてだった。
第一印象は声に張りがあり、年齢(当時77歳)よりも若々しく感じた。
ぜひ聞いてほしい。

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2019/01/05

主の公現の祝日の集会祈願

1/6は主の公現の祝日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。

今日の祭日の集会祈願の起源は古く8世紀に遡り、聖グレゴリオ教皇の手によるものとという説もある。特別形式ミサ及び通常形式ミサともに同じ祈りを公現の祝日の集会祈願としている。


ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Deus, qui hodierna die Unigenitum tuum gentibus stella duce revelasti,

concede propitious, ut qui iam te ex fide cognovimus, usque ad contemplandam speciem tuae celsitudinis perducamur.
この日、星の導きによって、御独子を諸国の民に現された神よ、

すでに信仰によってあなたを知っている私たちが、あなたの栄光に輝く姿をじっと見つめることに至るまで導かれるよう、慈悲深くお取り計らいください。
すべての民の光である父よ、 あなたはこの日、星の導きいよって御ひとり子を諸国の民に示されました。

信仰の光によって歩むわたしたちを、あなたの顔を見る日まで導いてください。


ラテン語規範版の構造は動詞concedeの前後で二つに分けられ、前半は神への賛美、後半は祈願となっている。前半のqui節の主語はDeus、動詞はrevelasti(現された)、目的語はUnigenitum tuum(あなたの御独子)となっている。前半の内容は東方の三人の賢者が星に導かれ、イエスを捜しだし、イエスを拝んだという今日の福音朗読箇所と対応している。

後半はut節以下が祈願の内容となり、主語はqui節が修飾されている「わたしたち」である。ut節以下の内容は前半のqui節の内容と並行した構造となっていて興味深い。つまり、東方の三人の賢者はユダヤ人の王が生まれたということを信じて、星の導きに従い、律法学者の言葉を信じて、宮殿ではなく、馬小屋にいる幼子イエスを捜しだし、自分の目でみながらイエスを拝んだ。他方で、私たちはイエスを見たことはないが、聖霊によりイエスを神として既に信じ、最後には天の栄光に輝く神の顔を直視するまでに至れることをも信じて、神のあわれみに頼って祈願しているのである。

最後に日本語公式訳を見てみよう。
忠実に翻訳しないことででラテン語規範版の対比構造をまったく活かしきれていない翻訳になっている。とくに後半のqui節の部分の翻訳は、ラテン語規範版と全く違う意味になっている。

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2018/12/31

神の御母聖マリアの祭日の集会祈願

1/1は神の御母聖マリアの祭日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。

今日の祭日の集会祈願の起源は古く8世紀に遡る。今日の集会祈願は、特別形式ミサの典礼書に収録されている降誕祭後の八日目のミサの集会祈願を一部編集したものである。


ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Deus, qui salutis aeternae, beatae Mariae virginitate fecunda, humano generi praemia praestitisti,

tribue, quaesumus, ut ipsam pro nobis intercedere sentiamus, per quam meruimus Filium tuum auctorem vitae suscipere.
聖母マリアの実りをもたらす処女性を通して、人類に永遠の救いという報いをお与えになった神よ、

切に願います、わたしたちが命の主宰者たる御子をいただけるようになった、その御方自身がわたしたちたのために取り次いでくださっていることを感得できますようにお取り計らいください。
いのちの源である神よ、あなたはおとめマリアを御子の母として選び、救い主を人類に与えてくださいました。

聖母を通して御子キリストを迎えるわたしたちに、救いの喜びを味わわせてください。


ラテン語規範版の構造は動詞tribueの前後で二つに分けられ、前半は神への賛美、後半は祈願となっている。前半のqui節の主語はDeus、動詞はpraestitisti(お与えになった)、目的語はsalutis aeternae praemia(永遠の救いという報いを)となっている。後半の祈願の内容であるut節について、主語は明示されていないが、動詞sentiamus(感得できますように)が一人称複数形のため、わたしたちが主語となり、目的語ipsam(彼女自身を)は文脈上聖母マリアを指す。そしてこのipsamを先行詞としてper quamの従属節がくっついている。構造は複雑である文、含蓄のある祈願文になっている。

前半にあるvirgnitate fecunda(実りをもたらす処女性)という言葉に注目したい。多産・豊穣という概念と処女性という一見相反する言葉が一緒になっているが、アウグスティヌスが聖母の処女性の神秘を形容するためにこの言葉を使用して以来、この言葉は霊の実によって懐胎した処女マリアを賛美する有名な言葉となった。

後半の祈願文ではper quam節において、神が聖母になさった恵み、つまり神イエスを宿し、神イエスを育て神の母となったマリアを賛美しながら、イエスの遺言により、全人類の母ともなったマリアが私たちのためのとりなしのために祈っておられることを、私たちが経験できるように祈っている。

最後に日本語公式訳を見てみよう。
忠実に翻訳しないことででラテン語規範版にある含蓄のある言葉が翻訳できていない。まず前半部分において、virignitate fecundaを翻訳していない、またsalutis aternae praemia(永遠の救いという報い)を「救い主」と誤訳しているので、ラテン語規範版と意味が変わってしまっている。後半の翻訳はもっとひどく、代願者聖母マリアの働きを感得させてくださいというラテン語規範版の祈願と全く違うことを祈願している。翻訳者がマリア信心を嫌って、あえて誤訳したのではないかと勘繰りたくなる。聖母マリアをたたえる祝日の祈りをこんなレベルの翻訳で50年以上放置しているとは情けない!

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2018/12/30

聖家族の祝日の集会祈願

12/30(日)は聖家族の祝日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。

聖家族の祝日の歴史は古いが、ミサにおいて全世界で祝うようになったのは1921年からである。聖家族の祝日は公現祭後の8日間中の主日に定められていたが、1970年の典礼改革により降誕祭後の8日間中の主日に祝うことに変更され、新たに集会祈願が創作された。今日ふりかえる集会祈願はこの新しい集会祈願である。


ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Deus, qui praeclara nobis sanctae Familiae dignatus es exempla praebere,

concede propitius, ut, domesticis virtutibus caritatisquae vinculis illam sectantes, in laetitia domus tuae praemiis fruamur aeternis.
聖家族の素晴らしい模範を寛大にも私たちに与えてくださる神よ、

私たちが家庭生活の徳と愛徳のきずなにおいて聖家族に従うことで、あなたの家の喜びのうちに永遠の報いを享受できますよう、慈悲深くとりはからいください。
恵み豊かな父よ、あなたは聖家族を模範として与えてくださいました。

わたしたちが聖家族にならい、愛のきずなに結ばれて、あなたの家の永遠の喜びにあずかることができますように。


ラテン語規範版の構造はシンプルで、前半は神への賛美、concede以下は祈願となっている。

前半では聖家族の素晴らしい模範(praeclara exemla)を与えて下ることで神を賛美している。どのような意味で素晴らしい模範なのかは後半のut節で述べられている。つまり、家庭生活の徳(domesticis virtutibus)及び愛徳のきずな(caritatis vinculis)の模範として素晴らしいので、私たちは聖家族を真似る(illam sectantes)。そうすることで天国に至るようになることを、素晴らしい模範を与え下さる神に切に祈願するのである。

聖家族の模範によって、聖とされた家庭生活を踏まえ、第二バチカン公会議は家族を家庭教会と呼んでいる。それは「信仰とは無縁で敵意さえ持つ現代社会にあって、信者の家族は生き生きとした輝く信仰の家庭としてきわめて重要なもの」(『カトリック教会のカテキズム』1656)であるからだ。

今日の福音個所(ルカ2.41-52)を読むと、成長した子供の言動に驚かされる親の姿が描かれていて興味深い。親の目線で見ると、マリアやヨセフがイエスを叱らずにそのまま受け入れたことに驚かされる。忍耐と愛のうちに出来事を心にとめるマリアに倣えるようになりたいものだ。

最後に日本語公式訳を見てみよう。
忠実に翻訳しないことででラテン語規範版にある含蓄のある言葉を翻訳していないのが第一印象。とくにdomesticis virtutis(家庭生活の徳)を省き、さらにcaritas vinclis(神への愛に根差したきずな)を、ただ「愛のきずな」と翻訳している点がひどいと思う。なぜならば、聖家族の示す模範の具体性が訳文では見えなくなり、神への愛という観点がぼけてしまっているからである。

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2018/12/26

ズールスドルフ神父、来日!

カトリックのブログで世界的に有名なFr.Zこと、ズールスドルフ神父が1月に来日。
1月20日にはウナ・ヴォーチェ・ジャパンのために歌ミサを捧げてくださることになった。
クリスマスプレゼントというより他はない。

私にとってズールスドルフ神父は憧れの人だ。
伝統ミサのこともズールスドルフ神父のブログを通じて初めて知り、
ラテン語規範版の集会祈願の解説記事を見て、日本語訳のおかしさも知ることができた。

いま私が真似て、日本語でラテン語規範版の集会祈願の紹介を行っているのは、あこがれの人、
ズールスドルフ神父に少しでも近づきたいからでもある。

そんな憧れの人に私が初めて会ったのは2017年10月のローマであった。
ユーモアの感覚がある人で、一目会った時からその魅力に引き込まれる。
そんな方だったことを思い出す。

日本の伝統ミサを取り巻く状況を話した後、神父は「日本にいくから、連絡先を教えてくれ」とおっしゃった。
「ぜひいらしてください」と返事をしたが、本当に実現するとはとても思わなかった。
だから、ズールスドルフ神父と再会できる1月20日が今からとても楽しみだ♪