2018/04/21

復活節第4主日のミサの集会祈願

良き羊飼いの画像
4/22(日)は復活節第4主日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。なお、この主日は1964年以降、「世界召命祈願の日」とされ、司祭と修道者への召し出しを特に祈る日とされている。

まず、集会祈願の出典について。通常形式のミサ典書の編集者たちは、特別形式のミサ典書にある集会祈願を採用せず、『古ゲラシウス典礼書』収録の祈りをもとに、文言を変えた上で、以下で紹介する復活節第4主日のミサの集会祈願を新しく作成した。

次にラテン語規範版の祈りを見ていこう。

ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Omnipotens sempiterne Deus, deduc nos ad societatem caelestium gaudiorum,

ut eo perveniat humilitas gregis, quo processit fortitudo pastoris.
全能永遠の神よ、天の喜びの集いへとわたしたちを導いてください

それによって、卑しい群れが、力強い牧者が前進するところへ達することができますように。
全能永遠の神よ、よい牧者キリストは、わたしたちのためにいのちをささげてくださいました。

キリストの声に従うわたしたちがあなたの国にみちびかれ、聖人とともによろこびを分かつことができますように。


ラテン語規範版では一文であるが、構造上、ut節の前後で二つに分けることができる。そして、ut節は結果を導く節であるので、前半部分を前提とした内容となる。

この主日の福音朗読箇所は、A年、B年、C年のいずれもヨハネ福音書10章から選ばれており、共通するテーマは羊飼いと羊の群れの喩えである。この集会祈願も羊飼いと羊の群れを想起させる単語を使用している。あげると「deduc」(導く)、「gregis」(群れ)、「pastoris」(牧者)という具合である。

前半部分の祈願では、全能永遠の神に対して、私たちを三位一体の交わり、諸聖人の交わりへと導いてほしいと祈願している。つまり、われわれの努力でそういった天的喜びの交わりに達するという考えは否定され、全能永遠の神による導きのみが必要であるいう考えがこの祈願には込められている。

後半部分の内容は、前半部分の内容、つまり、全能永遠の神が私たちを天国へと導いてくださることを前提とする。すなわち、卑しい信者の群れは、神が私たちを導いてくださるから、力強い牧者であるイエスキリストに従い、その目指すところにたどりつくことができるようにとを祈願している。

では卑しい我らは徹底的に受け身で、洗礼を受けた後はただイエスキリストを信じていればよいのかといえば、当然そうではない。イエスに従うこととは、イエスのように、善行を行い、苦しみを耐え忍ぶことであると、聖書は教える。

あなた方が善いことを行い、しかも苦しみを受けて、耐え忍ぶなら、神のみ心にかないます。キリストもまた、あなた方のために苦しみを受け、あなた方がその足跡をたどるよう模範を残されました。あなた方が召されたのはこのためです。(中略)あなた方は、羊のように迷っていましたが、今は魂の牧者であり、監督者である方のもとに帰ってきたのです。
(ペトロの第一の手紙2章20-21,25)



さて、最後に日本語公式訳をみてみよう。
前半部分はラテン語規範版の原文をまったく無視した、創作である。後半部分も、最後の「聖人とともに喜びを分かつことができますように」を除けば、原文を無視している。ここまで原文を無視して作文したものを、「日本語訳」と呼んでよいものだろうか

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2018/04/13

復活節第3主日の集会祈願

2018年4月15日は「復活節第三主日」にあたるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。

まず集会祈願の出典について。通常形式のミサ典書の編集者たちは、特別形式のミサ典書にある集会祈願を採用せず、二つの古写本にある別々の祈り、具体的にいうと、『古ゲラシウス典礼書』収録の復活節に使用する信者のための祝福の祈りと、『レオ典礼書』収録の死者のための祈りをもとに、文言を変えた上で二つをつなぎ合わせ、以下で紹介する復活節第三主日のミサの集会祈願を新しく作成した。

ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Semper exsultet populus tuus, Deus, renovata animae iuventute,

ut, qui nunc laetatur in adoptionis se gloriam restitutum, resurrectionis diem spe certae gratulationis exspectet.
神よ、魂の新たにされた若さによって、あなたの民が絶えず喜ぶことができますように。

それによって、世継ぎとなった栄光のうちに再生したことを今喜ぶこの民が、確実な喜びの希望をもって、復活の日を待ち望むことができますように。
すべてを導かれる神よ、教会は新しい民を迎えて若返り、喜びに満たされています。

あなたの子どもとなる恵みを受けたわたしたちが、感謝のうちに救いの完成を待ち望むことができますように。


ラテン語規範版では1文であるが、構造上、ut節の前後で2つに分けることができる。ここでのut節は、主文を受けた結果を導く節である。つまり、前半の祈願の内容が前提の上で、ut節以下の内容を祈願するという構造になっている。

前半部分では、動詞「exsultet」を使用することで、動的な印象を与えている。復活徹夜祭に歌われる復活賛歌も「exsultet」で始まるので、それを思い出す人も多いだろう。

Exsultet iam angelica turba cælorum: exsultent divina mysteria: et pro tanti Regis victoria tuba insonet salutaris.
神の使いよ、天につどい、声高らかに、喜び歌え、偉大な王の勝利を祝って、角笛を吹きならし、救いのわざをほめたたえよ



この喜びは、「魂の新たにされた若さ」(renovata ieuventute animae)によってもたらされた。キリストの死と復活に結びついた洗礼によって、私たちは罪と共に死にそしてキリストと共に生まれかわったということを信じるキリスト信者ならば、この「魂の新たにされた若さ」という表現の意味するところも理解できるだろう。

ut節以降の後半部分に目を向けよう。前半の内容、つまり、キリスト信者が絶えず喜ぶことができますようにという祈願が前提となっている。ut節直後の、qui節によって、主語に当たる「populus tuus」(あなたの民))は、神の養子という光栄ある状態に再生されたことを今喜んでいるとある。いま神と和解が実現しているがゆえに、確実な喜びを希望しながら(spe certae gratulationis)、世の終わりを待ち望むことができますようにと神に祈ることができるのである。

最後に、神の養子となった神の民はどのようにこの世を生きていくべきかを説いた聖書の一節を紹介したい。この集会祈願と合わせて読むと良いと思う。

人をそれぞれの行いによって、分け隔てなくお裁きになる方を父と呼んでいるからには、あなた方はこの世にとどまっている間、畏れ敬いの心をもって生活しなさい。
(ペトロの第一の手紙1章17)



さて、最後日本語公式訳を見てみよう。
相変わらずひどい翻訳である。前半部分は原文の前半を翻訳していない、創作である。後半は少しは原文を意識して翻訳しているが、原文にある含蓄ある言葉がことごとく無視されている一方で、「diem resurrectionis(復活の日)」とはっきり書いていることを、「救いの完成」という言葉に置き換えて内容を不明瞭にもしている。

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2018/04/06

復活節第2主日の集会祈願

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4/8(日)は復活節第2主日に当たるので、その日のミサの集会祈願を取り上げたいと思う。
なお、復活節第二主日は2000年に聖ヨハネパウロ2世教皇により、「神のいつくしみの主日」とされている。

まずラテン語規範版の集会祈願の出典を説明する。この祈りは、8世紀初頭に遡ることができる写本『ゴートミサ典礼書(Missale Gothicum)』収録されている、復活の主日八日間中の土曜日のミサの集会祈願である。通常形式のミサ典書編集者は、特別形式のミサ典書に収録されている集会祈願を採用せず、この祈りを復活節第二主日の集会祈願とした。

では、ラテン語規範版の祈りに移ろう。下表にまとめてみた。


ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Deus misericordiae sempiternae, qui in ipso paschalis festi recursu fidem sacratae tibi plebis accendis,


auge gratiam quam dedisti,



ut digna omnes intellegentia comprehendant, quo lavacro abluti, quo Spiritu regenerati, quo sanguine sunt redempti.
永遠のあわれみ深い神よ、あなたは復活祭が戻るごとに、あなたの聖なる民の信仰を焚きつけられます。

あなたがお与えになった恵みを増してください。

どんな注ぎによって清くされ、どんな霊によって再生され、どんな血によって贖われたのかを皆がふさわしい理解によって悟ることができますように。
あわれみ深い神よ、あなたは、キリストのとうとい血によってわたしたちをあがない、水と聖霊によって新しいいのちを与えてくださいます。

年ごとに主の復活を祝うわたしたちが洗礼の恵みを深くさとり、信仰に生きることができますように。


ラテン語規範版の祈りは1文であるが、構造に着目すると3つに分解できる。つまり、神への呼びかけの部分、祈りの主文、主文を受けた結果を導くut節の3つである。

まず第一の部分を見てみたい。この祈りにおいて、神は「永遠のあわれみ深い神(Deus misericordiae sempiternae)」であり、わたしたち信者は神のあわれみにより「あなたの聖なる民(sacratae tibi plebis)」である。そして、毎年の復活祭において、このあわれみ深い神はわたしたちの信仰に「火をつけてくださる(accendis)」。ここにおける信仰とは、復活節と言う文脈でいえば、イエスキリストは神の子、メシアであるという信仰をさす。

次に第二の部分に移ろう。ここで、神に対して、いただいた恵みを増し加えてほしいと願っている。しかし、ここではいかなる恵みかはまだ具体的になっていない。それは第三の部分をみることで明らかになる。

第三の部分は、第二の部分の祈願、つまり神が恵みを増し加えられたことを前提にした結果を導いている。増し加えられた恵みによって、私たちは洗礼、聖霊の働き、イエスキリストの十字架上での死の意義を正しく理解できるますようにと願っている。つまり、この祈りにおいて神に乞う恵みとは、イエスキリストの十字架上での死と復活の神秘や聖霊の働きを悟る恵みを意味しているのである。水、血、霊の三者はイエスがメシアであることを証明するが、それらは同時に一致していると聖書は説く。

イエスがメシアであると信じる人はみな、神から生まれた者です。(中略)このイエス・キリストは水と血とによって来られた方です。水によるだけでなく、水と血によって来られたのです。霊がこのことを証しする方です。霊は真理だからです。証しするものが三つあります。すなわち、霊と水と血です。この三者は一致しています。
(ヨハネ第一の手紙5章1,6-8)



この日の福音朗読において、イエスの復活を否定する聖トマスに対して、イエスが「わたしを見ないで信じる人は幸いである」と宣言されたが、この集会祈願ではその幸いなる人となるために信仰の恵みをこいねがうものとなっている。

最後に日本語公式訳を見てみよう。
相変わらず問題のある翻訳である。公式訳の前半部分は原文を完全に無視したもので、翻訳ではなく創作である。日本語公式訳の後半部分は、ラテン語規範版の文の構造を無視した乱暴な翻訳になっているため、「洗礼の恵みをさとり、信仰に生きる」ようになるために、何を神に願うのかが明確でない翻訳になっている。
2018/03/31

復活徹夜祭の集会祈願

3/31(土)の夜は復活徹夜祭にあたるので、復活徹夜祭ミサの集会祈願(通常形式)について記事にしたい。
なお、通常形式の集会祈願は特別形式のそれを編集して新しく作ったものである。

(ラテン語規範版)
Deus, qui hanc sacratissimam noctem gloria dominicae resurrectionis illustras, excita in Ecclesia tua adoptionis spiritum, ut, corpore et mente renovati puram tibi exhibeamus servitutem.


(拙訳)
神よ、この最も聖なる夜を主の復活の栄光によってあなたは照らされました。あなたの教会のうちに世継ぎの霊を奮え立たせてください。からだと心でもって新たにされた私たちが、あなたに清く仕えることを示せますように。


祈りは3つに分けられる。すなわち、「Desu~illustras」の神への呼びかけ、「excita~spiritum」の祈りの主文、そして「ut」節以降の主文に対応する結果節の3つである。

まず「Deus」を修飾する「qui」節の内容がこの特別なミサにふさわしい内容となっていることに気づく。最上級の形容詞を伴った「sacratissimam noctem」(最も聖なる夜)という表現は、主の降誕前晩のミサの集会祈願と主の復活前晩のミサの集会祈願にしか現れない。また動詞「illustras」(照らした)は、ミサ前に行われる「光の祭儀」を想起させる表現である。

次に祈りの主文だが、この箇所が実は特別形式ミサの集会祈願の祈りを編集した箇所になる。比較のため、特別形式の集会祈願の該当箇所を以下に引用する。

(特別形式ミサの集会祈願)(抜粋)
Conserva in nova familiae tuae progenie adoptionis spiritum quem dedisti.
(拙訳)
あなたの家族の新しい子らのうちに、あなたが与えた世継ぎとなる霊を保たせてください。


特別形式ミサの集会祈願では、この日に洗礼を受けた人を念頭にしている一方で、通常形式ミサの集会祈願では、より広くキリスト信者全体を念頭に入れている。そのため祈りの主文で使用されている動詞(命令形)も「Conserva」(保たせてください)から「Excita」(奮い立たせてください)に変更されている。この祈りの文言変更は儀式全体における集会祈願と洗礼式の位置の違いのためだと考える。つまり、特別形式ミサにおいては、洗礼式が終わった後、ミサが始まり集会祈願が読まれるのに対し、通常形式ミサでは先に集会祈願をが読まれ、福音朗読の後に洗礼式があるためであろう。

最後にut節以降は、神の養子とする霊がわたしたちの中で奮い立たせられた結果、霊肉ともに私たちは刷新され、罪をもたらす律法のもとにある奴隷ではなくなり、「父よ」と親密さを伴った、罪から解放された清い礼拝が可能となることを述べている。

時が満ちると、神は御子をお遣わしになり、女から生まれさせ、律法の下に生まれさせたのです。それは、律法の下にある人々を贖いだすためであり、また、わたしたちが神の子としての身分を受けるためです。あなた方が子であることは、神が私たちの心に、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を送ってくださったことによって明らかです。
(ガラテヤの教会への手紙4章4-6)


最後に日本語公式訳を見てみよう。

(日本語公式訳)
この神聖な夜を主イエスの復活の光で照らしてくださる神、あなたの家族に加えられる人々が神の子どもとされる霊を受け、新しい人となってあなたに仕えることができますように。


大変問題の多い翻訳となっている。まず原文にある3つの構造と対応した訳となっていないため、祈りの主文とその結果もたらされることが翻訳では明確になっておらず、ut節の内容が祈りの主文となっているような印象を受ける。

次に形容詞を丁寧に翻訳していないため、ラテン語規範版と比べると起伏に乏しい平板な訳になっている。例えば、「sacratissimum noctem」を「神聖な夜」と訳している箇所や、「puram tibi exhibiamus servitutem」を「あなたに仕えることができますように」と訳している箇所である。

一番の問題点は、祈りの真ん中にある「あなたの家族に加えられる人々が神の子どもとされる霊を受け」の箇所。これは原文と全く違う。むしろ、特別形式の集会祈願の翻訳に近い印象を受ける。通常形式ミサの編集者たちの意図を無視して翻訳をする必要性があったのだろうか?

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2018/03/24

枝の主日の集会祈願

3/25は枝の主日にあたるので、その日の集会祈願について記事にしたいと思う。
なお、枝の主日の集会祈願は、通常形式も特別形式も全く同じものを使用する。この祈りは8世紀以来、枝の主日の集会祈願として使用されている。

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(ラテン語規範版)
Omnipotens sempiterne Deus, qui humano generi, ad imitandum humilitatis exemplum, Salvatorum nostrum carnem sumere, et crucem subire fecisti, concede propitius, ut et patientiae ipsius habere documenta et resurrectionis consortio mereamur.


(拙訳)
全能永遠の神よ、あなたは人類に、真似るべき謙遜の模範を示す目的で、私たちの救い主に肉を取らせ、十字架に従わせられました。あわれみ深くお聞き入れてください、彼(救い主)の忍耐の模範にならうことで、復活に与れるよう値しますように


「Omnipotens sempiterne Deus」にかかるqui節は複雑な構文になっているが、イエス・キリストの受肉とその受難、十字架上での死は、全能の神がわたしたちが倣うべき謙遜の模範を人類に示すためであったという聖書の一節を受けたものとなっている。少し長くなるが以下に引用する。

キリストは神の身でありながら、神としてのあり方に固執しようとはせず、かえって自分をむなしくして、僕の身となり、人間と同じようになられました。その姿はまさしく人間であり、死に至るまで、十字架の死に至るまで、へりくだって従う者となられました。(中略)ですから、わたしの愛する人たち、これまでいつもそうであったように、わたしがともにいる時だけでなく、ともにいない今はなおさらのこと、従う者であってください。畏れおののきながら、自分の救いを力を尽くして達成しなさい(フィリピの人々への手紙2章6-8, 12)

祈りの後半ut節で、倣うべき謙遜の模範を知ったわたしたちが神に願う内容が導かれている。ut節のなかに、「et~et・・・」構文がある。文法的には「~と・・・の両方」という意味になるが、この文脈では並列関係として翻訳するのではなく、拙訳で示したように、「patientiae ipsius habere documenta」の結果、「(habere) resurrectionis consortio」となるという風に翻訳するほうがよいのだそうだ。すでに二千年前にイエスキリストの忍耐(受難)の模範は示されたのだから、それが願う内容ではなく、忍耐の模範に従うこと、つまり犠牲的愛に倣うことで、わたしたちがイエスキリストの復活に与るに値するよう、あわれみ深く神が聞き入れてくださることを願うのである。

最後に日本語公式訳を見てみよう。

(日本語公式訳)
全能永遠の神よ、あなたは人類にへりくだりを教えるために、救い主が人となり十字架をになうようにお定めになりました。 わたしたちが主とともに苦しみを耐えることによって、復活の喜びをともにすることができますように。


日本語訳で気になった個所は後半。「主と共に苦しみを耐える」と翻訳された箇所は原文にある「documenta(模範、教訓)」を訳していないので原文と違う意味になっている。また「復活の喜びをともにする」と翻訳された箇所は原文から遊離した翻訳となっている。

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