2018/06/12

カテドラルに聖体拝領台の柵を復活させたマカオの取組み

日本のカトリック教会では、「跪く」という姿勢を「欧米の習慣で、日本的でない」という理屈で排除しようとしている。そうした理屈は屁理屈にすぎないという、反証の一つとして、中国・マカオ教区の取り組みを紹介したい。

記事においては、マカオのカテドラルにおいても、第二バチカン公会議後の典礼改悪の中で、聖体拝領台の柵が取り払われた。しかし、聖体へのふさわしい敬意を表すことができやすいようにするため、その柵を復活させたという。マカオのカテドラルでは、立っても跪いても、口でも手でも聖体を拝領できるが、聖体拝領台となる柵を復活させると、多くの人が写真のように跪いて聖体を拝領するようになってきたという。跪くという姿勢はカトリック的な姿勢であり、信仰に必要な謙遜さを示す証左といえよう。

引用元はコチラ

マカオカテドラルの様子
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2018/06/07

イエスのみ心の祭日の集会祈願

6/8(金)はイエスのみ心の祭日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。

通常形式のミサの集会祈願は2つ用意されているが、ここでは特別形式ミサの集会祈願と同じ祈りをとりあげたい。それではラテン語規範版の祈りを見ていこう。

ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Deus, qui nobis in Corde Filii tui, nostris vulnerato peccatis, infinitos dilectionis thesauros misericorditer largiri dignaris,

concede, quaesumus, ut illi devotum pietatis nostrae praestantes obsequium, dignae quoque satisfactionis exhibeamus officium.
神よ、あなたはわたしたちの罪によって傷つけられた御子の御心のうちに、愛の無限の宝を慈悲深くもお与えくださいます。

切に願います。御子に対する私たちの神への愛の心からの奉献(従属)によって、私たちが適切な贖いの務め(義務)を果たすことができますよう、お許しください。
聖なる父よ、あなたは、人類の罪のために刺しつらぬかれたおん子のみ心のうちに、限りないいつくしみの泉を開いてくださいました。

わたしたちが、心からの奉献によって、キリストの愛にこたえることができますように。


ラテン語規範版では一文であるが、構造上は神に対する二つの祈願で構成されている。前半のqui節は神(Deus)を修飾し、神に関する事実を述べる役割を果たしている。後半は前半を受けた祈願という構造である。

前半部分で語られる神に関する事実とは2つあり、一つ目は私たちの罪のために神の御子イエスの心臓は刺し貫かれたということ、二つ目はその心臓のうちに、父なる神は尽きることのない愛の贈り物を私たちに慈悲深く今も与えてくださっているということである。私たちに罪に対する罰ではなく、犠牲的愛でもって報いられるがゆえに「慈悲深くも」(misericorditer)という言葉が用いられ、その愛が今も与えられているがゆえに「与えてくださいます」(largiri dignaris)と現在形が使用されているのだろう。

後半の祈願の部分に進もう。父なる神への祈願内容はut節に述べられている。その内容とは御子イエスに対して神への愛(pietatis)による供え物(obsequium)を捧げることで、私たちの罪を償う適切な贖いの義務を全うすることである。「obsequium」は「~に従うこと」「~を承認すること」という意味もある。つまり、御子イエスに対して心から同意し従うことがまず私たちがなすべきこととして述べられている。

次に「務め(義務)」(officium)という言葉が使用されていることに注意を向けたい。私たちは洗礼で原罪と自罪を赦されているが、洗礼後も罪の傾きが残るがゆえに罪を犯す。それだけではない。自分自身が犯さなくても、兄弟姉妹である人々が犯した罪に対しても贖いが必要である。その贖いの業とは、隣人愛に基づく行為があげられよう。

この集会祈願の内容をおさらいすると、まず御子イエスの死を通して、私たちの罪を贖う神の愛が先に示されたこと、この愛の結果、私たちは御子に対して神に対する敬神の心からの同意(従属)を示すことで応え、同時に贖いの業として隣人愛に基づく愛徳の業を実行する務めを果たすことができるようになるということが述べられている。内的な神への愛(pietas)と外的な隣人愛(caritas)は分けることができないとするキリスト教倫理の基本がここに示されている。この集会祈願の内容は次の聖書の箇所と呼応する。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪のために、贖いの供え物として、御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たちよ、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合わねばなりません。(フランシスコ会訳『ヨハネの第一の手紙』4章10-11)



さて、最後に日本語公式訳をみてみよう。

前半はよくできた翻訳であるといえるが、その分、後半の訳の不十分さが残念である。どこが不十分かというと、「心からの奉献」の対象が明示されていないこと(ラテン語規範版では「彼に(illi)」と明示)、「適切な贖いの務め」(dignae quoque satisfactionis officium)という具体性のある言葉が、「キリストの愛にこたえる」とより抽象的な言葉に翻訳されていしまっていることである。日本語公式訳の翻訳者が「贖い」や「務め(義務)」といった言葉が嫌いだったとだろうか?


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2018/06/05

教皇フランシスコはドイツ司教団の指針公布を拒絶【プロテスタント配偶者への聖体拝領】

依然として騒ぎを起こしたままになっている、ドイツ司教団によるプロテスタント配偶者への聖体拝領の問題について、イタリアの新聞「L'Espresso」が衝撃的な記事を6月4日付けで発表した。スクープなのでガセネタの可能性も否定できないが、興味深いので紹介したい。

引用記事はコチラ

5月25日付けで教理省長官ラダリア被選枢機卿の名前で以下の内容の手紙が、マルクス枢機卿(ドイツ司教協議会議長で、プロテスタント配偶者への聖体拝領を許す指針の唱道者)宛てに送られた。この手紙はプロテスタント配偶者への聖体拝領を許す指針に反対しているウオルキー枢機卿ら5名にも写しが送られた。原文はドイツ語である。

冒頭、、ラダリア被選枢機卿は教皇フランシスコの間で複数回打ち合わせがもたれた上で、手紙で指摘する内容は教皇から明示の承認が得られていることを述べている。手紙ではドイツ司教団のこれまでのエキュメニズム推進への努力を認めつつ、プロテスタント配偶者への聖体拝領を許すドイツ司教団の指針について、教皇は「公布の準備ができていない」という結論に至ったと書かれている。その理由は次の3つ。

1 異宗婚のプロテスタントへの聖体拝領を許すという問題は教会の信仰にかかわり、全教会にとって重要性をもつため

2 この問題はプロテスタント以外のキリスト教諸団体との宗教間対話に少ないない影響を与えるので

3 教会法844条に抵触しているため。

以下は私の感想。
この手紙が本物だとして、これを受け取っておきながら、プロテスタント配偶者への聖体拝領の指針を推し進めようとしているマルクス枢機卿ら聖職者は教皇の指示を軽視するとんでもない悪者にしか見えない。しかし、そこまで確信犯的な悪者なのか、任免権を有するローマ教皇の意向を無視してまで行おうとする彼らの利益は何か?教会税の制度のおかげで、豊かなドイツのカトリック教会とドイツ政府との間で何か密約があるのではないか(またはドイツ政府の意向を忖度しているのか?)とにかく、ドイツのカトリック教会がウオルキー枢機卿ら誠実な聖職者のもと、正常化することを切に願っている。

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2018/06/02

ケルン大司教ウオルキー枢機卿を支持しよう!

5/31(木)はキリストの聖体の祭日に当たり、ドイツのケルンでは恒例の聖体行列がおこなわれた。儀式の中で、ケルン大司教のウオルキー枢機卿は聖体に関する伝統的な信仰を力強く擁護したと、英語雑誌「カトリック・ヘラルド」が報じている。

Youtubeにはドイツ語による大司教の説教が掲載されているのだが、ドイツ語が分からないので、「カトリック・ヘラルド」に引用された英語訳を紹介する。(引用元はコチラ



(プロテスタントの配偶者への聖体拝領の問題について)
「ここ数週間、聖体に関して多くの議論がなされた。『それが何だ?ばかばかしい』という人もいれば、『パンチアンドジュディーショー(注、イギリスの伝統的な人形劇で、ドタバタ喜劇)だ』という人もいる。だが私は言う。これは死と命の問題である。(中略)根本的な問題である!だから戦う必要があり、正しい道を探す必要がある。それは他でもない、主の道をである。」

「(聖体拝領を希望する人は)カトリックの教義、例えば、死者への祈り、聖人崇敬、『秘蹟としての教会』といったカトリックの教義に対して『然り、アーメン』と言うことができるのかをよく考慮すべきである。というのは、聖体拝領をする人は誰でもキリストと一体となるからである。結果、その人はイエスの体の一員、教皇と司教が代表し構成する、具体的な教会の一員となる。」

(ドイツ司教団の提案がドイツ国内のことだけしか考えていないことに対して)
「もういちど繰り返す。ドイツにいる私たちは、『幸福の島』に住んでいるのではない、私たちは国民教会ではない。私たちは普遍教会の一部であり、ドイツの全司教区は教皇を頂点とする全世界の一部である」



どれも「然り、アーメン」ではないか?ケルン大司教区と関係の深い東京大司教が、聖体の祭日(日本では6月3日)のミサで、ケルン大司教と連帯して何らかのコメントが出されるといいなぁと思う。

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2018/05/31

キリストの聖体の祭日の集会祈願

5/31(木)はキリストの聖体の祭日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。なお、日本では特別な許可の下、聖霊降臨後第二主日にこの祭日を祝うこととなっている。

通常形式のミサの集会祈願は特別形式ミサの集会祈願と同じであり、聖トマス・アキナスが編集したものと言われている。それではラテン語規範版の祈りを見ていこう。

ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Deus, qui nobis sub sacramento mirabili passionis tuae memoriam reliquisti,

tribue, quaesumus, ita nos Corporis et Sanguinis tui sacra mysteria venerari, ut redemptionis tuae fructum in nobis iugiter sentiamus.
神よ、あなたは驚くべき秘蹟(神秘)の下、あなたの受難の記念を私たちに残されました。

切に願います。あなたの贖いの実りをわたしたちのうちにたえず感じることができるよう、わたしたちがあなたの御体と御血の尊い神秘を尊ぶことをお許しください。
恵み豊かな父よ、おん子キリストは、その死を記念するとうとい秘跡を教会に残してくださいました。

主の体を受け、救いの力にあずかるわたしたちが、主の死を告げ知らせることができますように。


ラテン語規範版では一文であるが、構造上は神に対する二つの祈願で構成されている。前半のqui節は神(Deus)を修飾し、神に関する事実を述べる役割を果たしている。後半は前半を受けた祈願という構造である。一般にミサの集会祈願は父なる神に対する祈願という形であるが、この集会祈願をについては、子なる神に対する祈願となっている。

前半部分で語られる神に関する事実とは、聖体の秘蹟において、主イエス・キリストの受難の記念を神が残されたということである。記念(memoriam)とは、ただ過去の出来事の記念に留まらず、それが再現されていることを意味する。主イエス・キリストの受難、それは十字架上での死で頂点に達するのだが、それが再現されることは、まさに驚くべき神秘(sacramento mirabili)という形容がふさわしい。

後半の祈願の部分に進もう。まず子なる神に対する祈願が述べられ、次にut節以降は祈願の内容がもたらす結果、またはその目的という構造になっている。祈願の内容は私たちがパンとぶどう酒の形の下、イエス・キリストが真に実在するという尊い神秘(sacra mysteria)を尊ぶことができるようになるということである。これは神からの信仰なくしてはできないことであるので、子なる神に祈願するのである。

そして、私たちが聖体におられるイエスキリストを礼拝できるようになると、私たちは贖いの実(redemptionis fructum)を自分たちのうちに知覚できるようになる、つまり、自らは救われているという実感をえるようになる。このように、集会祈願は祈りを結んでいる。

さて、最後に日本語公式訳をみてみよう。

問題だらけの翻訳であるが、致命的な問題は誰に向かって祈っているかが違う点である。つまり、ラテン語規範版では子なる神に対してであるのに対し、日本語公式訳は父なる神である。祈る相手を変えてしまっているため、日本語公式訳はラテン語規範版を離れた創作を行っている。とくに後半部分がそうである。

日本語公式訳では「主の死を告げ知らせること」が祈願内容となっているが、そのために自分がふさわしい状態かを振り返る必要なことを聖パウロが教えてくれている。祈願するならば、主の死を告げ知らせる目的のために、神との親しい交わりを断つ大罪の状態でないことを祈願すべきでなかろうか?

したがって、ふさわしくない状態で「主のパン」を食べたり、「主の杯」を飲む人がいれば、主の体と血に対して罪を犯した者となるのです。一人ひとり自分がふさわしいものであることを確かめてから、パンを食べ、杯から飲みなさい。
(フランシスコ会訳『コリントの人々への第一の手紙』11章27-28)




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