2018/02/24

四旬節第二主日の集会祈願(通常形式)

2/25(日)は四旬節第二主日に当たるので、その日の集会祈願(通常形式)を取り上げたいと思う。
なお、この通常形式の集会祈願は第2ヴァチカン公会議後に創作された祈りで、特別形式の集会祈願とは別物である。

(ラテン語規範版)
Deus, qui nobis dilectum Filium tuum audire praecepisti
verbo tuo interius nos pascere digneris,
ut, spiritali purificato intuitu,
gloriae tuae laetemur aspectu.


(拙訳)
神よ、あなたの最愛の御子に聴けと私たちにあなたは命じられました。
あなたの御言葉でわたしたちを内面においてどうか養って下さい。
浄められた霊的な目によって、
あなたの栄光を私たちが喜んで見ることができますように。


一行目は当日の福音朗読箇所にある御変容の場面を想起させる。二行目は先週の日曜日の福音朗読箇所(「人は・・神の口から出る一つ一つの言葉で生きる(新共同訳 マタイ4章4)」)が思い起こされる。神の言葉を聴くとは聖書と聖伝が伝える内容を知るということであるが、それに養われるためには、それらの内容が行動原理になる必要がある。前者に留まれば、ただの聖書オタクでおわる。四旬節に限ったことではないが、聖書と聖伝が伝えるものを自分の生き方の原理とできるよう祈りたい

三行目以下「ut」節は、前半の「あなたの御言葉で養われる」ことの目的をを示している。その目的とは、神の栄光を見るという喜びをえることである。神の栄光を見ることは究極的には天国で神の御顔を見ることで完成されるものであるが、地上においてもその栄光の業を見ることは可能である。ただ、そのためには私たちのレンズが曇っていては見られない。だからレンズをきれいにしておくことが必要である。

当日の福音朗読箇所を見れば、主の変容は「高い山」にイエスが弟子たちを連れ出し、そこで起きたことが記されている。地上のものことを見るとき、この山から見るという観点、つまり神の視座において見ることができる状態というのが、「spiritali purificato intuitu」ということなのだろう。であれば、私たちもイエスに「高い山」に連れて行ってもらえるよう祈る必要があるといえよう。

さて最後に日本語公式訳を見てみよう。

(日本語公式訳)
聖なる父、あなたは、「愛する子を聞け」とお命じになりました。
み言葉によって私たちを養ってください。
信仰の目が清められて
あなたの顔を仰ぎ見ることができますように。


先週(四旬節第一主日)と比べると、原文に基づいて翻訳されている印象を受ける。ただ、4行目の「あなたの顔を仰ぎ見る」という訳は、原文にある「gloriae tuae laetemur aspectu」を意訳しているのだが、「laetemur」(~を喜べますように)が十分に翻訳されていないところが残念なところ。至福直観というカトリックの専門用語があるが、神の御顔をみるということは「至福」ではないのかと突っ込みを入れたくなる。
スポンサーサイト
2018/02/17

四旬節第一主日の集会祈願(通常形式)

2/18(日)は四旬節第一主日に当たるので、その集会祈願を取り上げたいと思う。
なお、この集会祈願は特別形式ミサの集会祈願とは別物であるが、8世紀に編纂されたという『ゲラシウス・ミサ典礼書(Gelasianum Vets)』に収録されている祈りで、8世紀から11世紀に遡る他の4つの写本では四旬節第一主日の集会祈願として収録されているという。

(ラテン語公式訳)
Concede nobis, omnipotens Deus,
ut, per annua quadragesimalis exercitia sacramenti,
et ad intellegendum Christi proficiamus arcanum,
et effectus eius digna conversatione sectemur.


(拙訳)
私たちにお許しください、全能の神よ。
四十日の聖務を年ごとに果たすことを通じて、
キリストの神秘を知るまでに私たちが成長し、
キリストの神秘の事績を、ふさわしい行いで真似るよう努めることができますように。

今回の翻訳はラテン語一つ一つは難解でないものの、拙訳では意味の通じる翻訳とはなっていない。
そこでLauren Pristasの解説書によりながら、説明してきたい。

原文の二行目の「sacramenti(名詞sacramentumの属格)」だが、これは「秘蹟」という狭い意味ではなく、より広く「神がその行為主とみなせる象徴・しるし」と考えた方がよいようだ。例えば、十字架の印、信仰宣言、主の祈りも「sacramentum」に含まれる。またsacramentumは、ギリシャ語のmysterionの翻訳語ではあるものの、ラテン語本来の意味は「誓約、宣誓、誓い」であることから、「神の隠された御業のしるし」と「人間の同意、神への義務」という両方の意味があるという。この祈願文ではまず、四旬節は神の恩寵の期間だが、その中で私たちは神の御業を示す象徴を実践(exercitia)することが必要であるとされている。

原文の3行目と4行目は神への二つの祈願が内容となっている。第一の祈願は、キリストの神秘(arcanum Christi)を知るまでに成長すること(proficiamus)(3行目)であり、第二の祈願は、キリストの神秘の事績(eius effectu)をふさわしい行動(digna conversatione)で真似るよう努める(sectemur)こと(4行目)である。キーになるのはこの祈願文におけるキリストの神秘とは何かということ。Pristasによれば、四旬節第一主日の福音朗読書にあるイエスの荒れ野での40日間の断食と誘惑との闘いがもつ神秘をさすという。

ここでキリストの神秘(arcanum Chirsti)が、キリストの荒れ野での40日間の断食がもつ神秘であるという前提で、このことを自分なりに深く考えていきたい。神の一人御イエスは聖なる人であり、自分のために罪を犯すことはなかった。そして断食が罪に対する改悛の業であるならば、当然のこと、自分自身のために断食をする必要性は本来ないはず。ではキリストはなぜ40日間の断食を行ったのか?私はこれは私たちの罪の償い、そしてそのための悪魔との闘いのためだと考える。キリストによる人類の罪の贖いは十字架上での死で完成されるのであるが、そこに至るまでキリストは真の人間として敢えて、人間が真似をしうる方法で人類全体の罪を償い解放する業を残された。そうしたものの一つに、40日間の断食もあるのではなないかと考える。

現在では四旬節における守るべき大斎・小斎は灰の水曜日と聖金曜日だけとなっているが、ほんの数十年前まで、四旬節の期間は日曜日以外すべて守るべき大斎・小斎であった。外で働きながら暮らす私にとっては40日間の断食は実践が困難であるが、上記の法定の断食に加えて、土曜日を大斎・小斎にするなど少しでも実践できるよう神に祈りたい。

さて、最後に日本語公式訳を見ておこう。

(日本語公式訳)
全能の神よ、
年ごと行われる四旬節の典礼を通して、
私たちに、キリストの死と復活の神秘を
深く悟らせてください。


含蓄のある原文を、よくもここまでひどい翻訳をしたなぁという印象。

2行目の問題点は、「exercita(実行すること)」を翻訳していないため、神の働きに対する信者である私たちからのアクションが曖昧になっている点。

3行目と4行目は原文の3行目だけに対応した意訳だが、原文の4行目が全く翻訳されていない。原文でキリストの神秘を理解すること、そして理解したうえでその事績をまねようと努めることを祈願しているのに、日本語では「深く悟ること」だけを願う祈りになっている。日本のカトリック信者は、キリスト神学や掟には詳しいが、キリストの業を真似しようとする努力はしなくてもよいということなのだろうか?
2018/02/13

灰の水曜日の集会祈願(通常形式)

2/14(水)は灰の水曜日にあたる。通常形式での集会祈願を見てみよう。
なお、この集会祈願は、特別形式ミサにおける灰の祝福式の最後の祈願文と同じである。

(ラテン語公式訳)
Concede nobis, Domine,
praesidia militia christianae sanctis inchoare ieiuniis,
ut, contra spiritales nequitias pugnaturi,
continentiae muniamur auxiliis.


(拙訳)
主よ、私たちにお許しください。
キリスト教徒の戦いの守りを、聖なる断食によって始めることを。
私たちが戦おうとする邪霊たちに対して、
私たちが節制の助けで固められますように。

この集会祈願は、灰の水曜日と四旬節の性格を明確に語っている。
四旬節とは、キリスト教徒にとって、霊的戦いの期間である(2行目)。
そして祈りの前半で、主に対して、灰の水曜日に行う断食が聖なるものとなることをお願いしている(2行目)。
私たちが四旬節を通じて戦おうとしている相手は、邪霊である(3行目)。
祈りの後半では、邪霊との防衛戦において、節制の援軍が私たちを守る(固める)という目的が語られている(四行目)。

最後に日本語公式訳を見てみよう。

(日本語公式訳)
人々の回心をお望みになる神よ、
四旬節の初めに当たり、
福音を信じてキリストの弟子となった私たちに、
悪霊に対して戦う力をお与えください。


原文が何か分からないほどひどい翻訳、いや創作である。
そして創作されたこの祈りは、原文を知ってしまうと、失笑してしまうほど中身が薄っぺらい
2018/02/03

年間第5主日の集会祈願(通常形式)

明日(2/4)は通常形式のミサに与るので、その日のミサ、つまり「年間第5主日」の集会祈願について取り上げて見たいと思う。
なお、この集会祈願は、特別形式ミサの「御公現後の第5主日」の集会祈願と同じである。

(ラテン語規範版)
Familiam tuam, quaesumus,Dominie,
continua pietate custodi,
ut,quae in sola spe gratiae caelestis innititur,
tua semper protectione muniatur.


(拙訳)
主よ、切に願います。あなたの家族を
絶えざる御あわれみによって見守りください。
天の御恵みを唯一の希望により頼むこの家族を、
いつもあなたのご保護で守られますように。


平易な祈りのように見えるが、当日の聖書朗読と合わせ読むと深みが見えてくる。

第一朗読で私たちはヨブの嘆きを聞く。ヨブは人生そのものに悲観し、何の希望もないと神に叫んでいる。大切なことは不平を言ったり、内にこもることでなく、神に向かって叫ぶことであると思う。なぜなら、それは神への祈りとなるからだ。ヨブ記において、ヨブの癒しは友人との対話でも、自身の内省によってでもなく、神から与えらえたことを思い出すとよいだろう。

祈りの意味について、福音朗読は一つの洞察を与えてくれる。マルコ福音書冒頭でのイエスのガリラヤでの宣教の様子が語られた箇所であるが、興味深いことがある。イエスは多くの人を癒し、悪魔を追い出されたが、病人や悪魔つきをイエスが自分で見つけて癒されたのでなく、誰かが癒しのためにイエスに頼んで初めて、癒しがおきたということだ。この福音朗読を読むと、神は全能であるが、そのためには私たちが祈ること、そして神は祈りをききとげられるという希望が必要であるということを教えているように見える。

第二朗読で、パウロはキリスト者となってもそこに苦労や労苦があることを隠さない。しかし、ヨブとの違いはその苦しみは福音のためであれば、福音の恵みに与ることができると述べていることである。

聖書朗読と集会祈願を合わせ読めば、こうまとめることができるかもしれない。
人生は労苦の連続であるが、それを癒すのも、それに意味を与えるのも神のみである。神のお恵みへの唯一の希望をむねに、私たちは絶えず神に守ってくださいと祈りつつと、福音を伝えるために働き続けよう、と。

Fr.Zのブログでは、この集会祈願に用いられている動詞「custodi」、「innititur」、「muniatur」がいずれも軍事に関する動詞であることに注目し、神への希望を盾として武装したキリスト信者が、家長であり、王であるキリストのもと、福音のために戦うというイメージでこの祈りを解釈している。これも面白い視点だと思う。

最後に日本語公式訳を見てみよう。

(日本語 公式訳)
信じる者の力である神よ、
尽きることのないいつくしみのうちに
わたしたちを守ってください。
あなたの恵みを唯一の希望とするこの家族が
いつもあなたの力によって強められますように。


一見すると、原文を無視した翻訳をしていないように見えるが、気になるのは「わたしたち」と「この家族」と翻訳している箇所が気になる。というのは、原文で神が守る対象は一貫して「familiam tuam(あなたの家族を)」であるからだ。

キリスト教で信者が家族と言えるのは、長子たるキリストにつながり、私たちが神の養子となれたからである。この日本語公式訳では、「tuam(あなたの)」をしっかりと翻訳していないため、神とのつながりにおける家族という概念は希薄化し、何か「人類みな兄弟」という博愛主義的な「家族」像しか見えてこない。私はこれは問題ある訳だと思う。
2017/12/24

ご降誕前日のミサ(特別形式ミサ)

今年最後の特別形式ミサが本日(12/24)あり、参列する予定なので、今日の典礼「ご降誕の前日」のミサの集会祈願を取り上げたいと思う。

(特別形式のミサ 集会祈願)
Deus, qui nos redemptionis nostrae annua expectatione laetificas:
praesta; ut Unigenitum tuum, quem Redemptorem laeti suscipimus,
venientem quoque Iudicem securi videamus, Dominum nostrum
Iesum Christum Filium tuum.


(拙訳)
神よ、私たちの贖いを毎年期待することで、
あなたは私たちを喜ばせてくださいます。
贖い主として喜びで迎える、あなたの御独子、
わたしたちの主、イエス・キリスト、
あなたの子を、裁き主として来られるのも、
私たちが恐れなく見ることができますように。


ut節の中で、目的語が前半の「Unigenitum tuum」と、後半の「Dominum nostrum・・・Filium tuum」と分離しているため、意味が捉えにくいが、それを除くと比較的平易な祈りとなっている。この祈りは8世紀の写本まで遡れるもので、その大部分が「ご降誕の前日」のミサの集会祈願としてであるという。

待降節のメッセージが、二つのイエス・キリスト、つまり、贖い主、救い主であるイエス・キリストの受肉と、世の終わりに裁き主、王であるイエス・キリストの再臨、を待ち望むことであるが、それがこの集会祈願には明確に示されている。また「贖い主として喜びで迎える」(Redemtorem laeti suscipimus)と、「iudicem securi videamus」(裁き主として恐れなく迎える)の対比も示唆的である。

この特別形式ミサの集会祈願は、一部編集されたうえで、通常形式ミサの「ご降誕の前晩」のミサの集会祈願として使用されている。

(通常形式のミサ 集会祈願)
Deus, qui nos redemptionis nostrae annua expectatione laetificas:
praesta; ut Unigenitum tuum, quem laeti suscipimus Redemptorem,
venientem quoque Iudicem securi videre mereamur.


(拙訳)
神よ、私たちの贖いを毎年期待することで、
あなたは私たちを喜ばせてくださいます。
贖い主として喜びで迎える、あなたの御独子を、
裁き主として来られるのも、私たちが恐れなく
見るに値するものとなれますように。


(日本語 公式訳)
喜びの源である神よ、
あなたは、年ごとに、わたしたちの救いの希望を新たにしてくださいます。
御ひとり子を救い主として喜び迎えるわたしたちが、
裁き主として仰ぎ見ることも、信頼を持って寄り頼むことができますように。


日本語公式訳の問題点は以下のとおりであるが、特に4行目が問題。というのは、原文に込められている、裁き主としての神への畏れの気持ちが不十分な翻訳で示せていないと考えるからである。

一行目 原文を無視して、冗長な表現を用いている。
二行目 「(毎年救い主を祝うことで)私たちを喜ばしてくださる」びで満たしてくださるという原文の構造を無視した訳。
三行目 問題なし
四行目 「securi」(恐れなく)と「mereamur」(~するに値する)が訳せていない。