2018/07/21

年間第16主日の集会祈願

7/22(日)は年間第16主日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。

年間第16主日の集会祈願は、特別形式ミサの典礼書には収録されていない祈りである。9世紀ごろの写本にある祈りをもとに、文言を若干修正してあらたに編集されたものである。


ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Propitiare, Domine, famulis tuis, et clementer gratiae tuae super eos dona multiplica,

ut, spe, fide et caritate ferventes, semper in mandatis tuis vigili custodia perseverant.
主よ、あなたの僕にたおやかな目を注ぎ、かれらに与えられた恵みの賜を寛大に増してください。

希望、信仰、愛徳に燃え立って、彼らが油断のない注意深さであなたの掟をたえず守ることができますように。
恵み豊かな神よ、あなたを仰ぎ見る民に、聖霊を惜しみなくお与えください。

信仰、希望、愛に燃えて、いつもあなたのことばに従うことができますように。


ラテン語規範版では一文であるが、ut節の前後で分けることができる。前半は主である神に対する祈願、後半が結果節という構造である。

前半部分では祈願になっているが、ここでのキーは「Domine」(主人)と「famulis tuis」(あなたの僕)である。古代ローマでは家族の範囲が広く、家長とその家族以外に、使用人も含めたものが家族であった。僕は主人が頼りで、主人は僕を家族として守る。そして僕に必要なものを主人は用意する。詩編では羊と羊飼いの比喩で、この関係を美しく歌い上げている。

主はわたしの牧者。わたしは乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に憩わせ、わたしを静かな水辺に伴い、魂を生き返らせ、み名にふさわしく正しい道に導かれる。
(フランシスコ会訳『詩編』23章1-3)



僕を精神的にも物質的にもあわれみの心で面倒を見る主人というイメージは、ミサの福音朗読箇所(マルコ福音書6章)と被る。そこにおいて、イエスは「牧者のいない羊のようなありさま」の大勢の群衆の見て、あわれみを覚えられ、彼らに教えを説くだけでなく、パンと魚を増やす奇跡をもって物質的にもかれらを満たされたのである。

後半は前半部分を受けた内容となる。すなわち、主から恵みの賜を増し加えられた結果として、まず主の僕たちは信、望、愛に燃え立つことができるようになる。そして、このように燃え立っている状態でも警戒を忘れないことで、神の掟にたえずしたがうことができるようになるとしている。

後半部分のキーは「vigili custodia」(油断のない注意深さ)であると思う。というのは悪魔はたえずわたしたちを狙っているからである。この言葉があるゆえに、この集会祈願は緊張感のあるものになっている。悪魔について聖書にはこうある。

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなた方の反対者、悪魔が、吼えたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。信仰を固く守って、悪魔に抵抗しなさい。
(フランシスコ会訳『ペトロの第一の手紙』5章8-9)



最後に日本語公式訳を見てみよう。

いつものとおり(!)、ラテン語規範版を忠実に翻訳せず、翻訳者の思いを優先して訳している。具体的にいうと、前半部分では、「famulis tuis」を「民」と訳し、「gratiae tuae dona」を「聖霊」と訳している点が特にひどい。後半部分では「mandatis tuis」を「あなたのことば」と翻訳している点がひどい。「掟」と翻訳するのが余程嫌だったのだろうか?また「vigili custodia」を翻訳していないため、ラテン語規範版にある緊張感を全く感じられない翻訳となっている。

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2018/07/18

マーチフォーライフに参加して

7月16日(月)にプロライフ運動のイベント「マーチフォーライフ」に初めて参加した。いつか参加したいと思っていたが、今年は機会に巡り合えたので、気づいたことを忘れぬよう記事にしておきたい。

まず参加者の多様性に驚いた。今回の参加者は300人余りだが、その半分以上は外国から駆け付けた外国人であった。台湾、ブラジル、ポーランド、アイルランド、アルゼンチン、コス・タリカ等々。そして残りの半分は日本中から集まった人で、豊橋からバスで参加したグループもいた。多くがカトリック信者であるが、私が話した日本人女性はプロテスタントであったし、またカトリック教会を離れたピオ10世会の司祭とその信奉者と思われる人々もいた。年齢層も広く、上は90才近い老人から下はベビーカーに乗った赤ちゃんまで。また妊婦の参加者もいた。一般的な日本の小教区のミサ参加者よりもずっと若い印象をうけた。

共通の言語もなく、生まれや育ちもバラバラなのに、胎児の命を守るということでこの集団にはある種の一体感が行進の前からあった。今回私はまったく一人で参加したが、行進の中で自然と会話が周囲の人とうまれ、そして行進を終えた時には強い連帯感をもつことができた。確かに私たちにと共にキリストが歩まれた。そんな感想すら不遜にも抱く体験であった。

このマーチフォーライフの特徴は笑顔である。深刻なテーマを掲げているにもかかわらず、眉間にしわを寄せたような参加者や、大声でどなるような参加者は皆無。それぞれが好きな方法で行進をしている。職業活動家が仕切るという雰囲気はなく、これは実にユニークだと思った。

参加してみて、マーチフォーライフに参加する意義は何かと言えば、胎児の命の尊重という当たり前のことを公に表明すること、そして命の尊重を支持するという立場を公にすることで、これからの自らの行動が変えられていくということだと思う。マーチフォーライフに参加しようかしまいか躊躇っている人はぜひ参加したほうがよい。躊躇の理由がもし暑さであるならば、夕方からの行進なので日差しはそれほどきつくはないと言おう。躊躇の理由がもし目立つのが気になるのであれば、300人もいるのだから、あなた一人が目立つことはないと言おう。躊躇の理由がピオ10世会との関係であれば、彼らはただの参加者で、マーチフォーライフが彼らの隠れ蓑であるとは思えない(そもそも、そうであれば、築地教会は場所を貸さないだろう)。
2018/07/16

前田枢機卿に倣って跪こう!

7/16(月)に大阪で、先日枢機卿に叙任された前田枢機卿の信認報告と、大阪大司教区の2名の補佐司教の叙階式が行われるので、それに関連したことを記事にしたい。

以下の写真をご覧いただきたい。これらは6月末に枢機卿叙階後、教皇フランシスコと新任の14人枢機卿が名誉教皇ベネディクト16世を訪問した時の写真である(写真引用元はヴァチカンのプレス)。枢機卿たちの名誉教皇へのあいさつの姿勢を見ていると、二つのグループに分けられる。すわなち、立って挨拶をしたグループと、跪いて挨拶をしたグループの二つである。

まずは教皇フランシスコによる挨拶
0628写真1

次に立って挨拶した枢機卿のグループ
0628写1-COLLAGE

最後に跪いて挨拶した枢機卿のグループ。前田枢機卿(写真の一番右上)はこのグループに属している。
0628写12-COLLAGE

私は一番最後のグループ、つまり跪いて挨拶をした枢機卿様の姿勢が一番美しく感じた。そこには教皇と言う職位に対する敬意がある。教皇がキリストの代理人であり、その職位に対する敬意を示すのに一番適した姿勢、それはへりくだりを示す跪きではないだろうか?跪きは神への畏れを示す態度であり、神を畏れることは知識の初めであると聖書は教える。

主を畏れることは知識の初め。しかし、愚かな者は知恵と教育をさげすむ。
(フランシスコ会訳聖書『箴言』1章7節)



私は前田枢機卿が、すでに規則ではないにもかかわらず、名誉教皇ベネディクト16世の前で自然と跪かれたことを誇りに思う。そして、キリストの代理人に対して跪くことが許されるならば、キリストそのものであるご聖体に対して、ミサにおいて堂々と跪くことが禁止されてはならない。前田枢機卿が聖霊の示しに従えるよう祈願する。








2018/07/14

年間第15主日ミサの集会祈願

7/15(日)は年間第15主日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。

年間第15主日の集会祈願は、特別形式ミサの「御復活後第三主日」の集会祈願をもとに、文言を若干修正してあらたに編集されたものである。もともと復活節に使用されていた祈りであることはこの日の集会祈願の意義を考えるうえで役に立つ。


ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Deus, qui errantibus, ut in viam possint redire, veritatis tuae lumen ostendis,

da cunctis qui christiana professione censentur, et illa respuere, quae huic inimica sunt nomini, et ea quae sunt apta sectari.
神よ、迷えるものに、(正義の)道に戻ることができるよう、真理の光をあなたは示してくださいます。

キリストへの告白で区別されるすべての人に、御名に背くことを退け、かつ、御名にふさわしいものを追い求める力をお与えください。
すべてを照らしてくださる神よ、あなたは、暗やみにさまよう人たちがまことの道に帰るように、真理の光を輝かせてくださいます。

洗礼を受けたすべての人が信仰に反することを退け、キリストに従って生きることができますように。


ラテン語規範版では一文であるが、動詞daの前後で分けることができる。前半は神に関する事実、後半が祈願という構造である。

前半部分の拙訳では、特別形式ミサの集会祈願では「viam iustitiae」とあるので、「viam」(道)に「正義の」という言葉を補った。道であり、真理であり、命であるイエス。彼を通して、私たちは御父である神のみもとに近寄れるのである(参照 ヨハネ福音書14章6)。

後半部分では、キリストに倣う者であるキリスト信者に対する祈願となっている。ここでのキーワードは「御名」である。私たちは「主の祈り」で、「御名の尊まれんことを」と祈るが、平気で御名を汚す罪を犯す。イエス・キリストは「主よ、主よ」と呼ぶものではなく、天におられる父なる神の御心を行う者が天国に至ると説かれた。父なる神の御心、つまり神を愛し、人を愛することができることがこの集会祈願の祈願内容といえるだろう。

最後に日本語公式訳を見てみよう。

前半部分は、「すべてを照らしてくださる」という余計な書き込みを除けば、ラテン語規範版に比較的忠実な翻訳である。後半は問題のある翻訳である。というのは、ラテン語規範版で御名に忠実であるために神の力が必要であると明示されているが、日本語公式訳ではその部分が忠実に翻訳されず、ただ「~できますように」と翻訳されているからである。「自力でできるけど、神様、見守ってね」という、何かへりくだりに欠ける印象をこの翻訳に覚えるのは私だけだろうか?

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2018/07/06

年間第14主日のミサの集会祈願

7/8(日)は年間第14主日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。

年間第14主日の集会祈願は、特別形式ミサの「御復活後第二主日」の集会祈願をもとに、文言を若干修正してあらたに編集されたものである。もともと復活節に使用されていた祈りであることはこの日の集会祈願の意義を考えるうえで役に立つ。


ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Deus, qui in Filii tui humilitate iacentem mundum erexisti,

fidelibus tuis sanctam concede laetitiam,

ut, quos eripuisti a servitute peccati, gaudiis facias perfrui sempiternisi.
神よ、あなたの御子のへりくだりによって、堕落した世界を立ち起こされました。

あなたの信者に聖なる喜びをお与えください。

その結果、あなたが罪への奉仕から救いだされた者に永遠の喜びを味わわせてくださいますように。
聖なる父よ、 あなたは、倒れていた世界を、キリストの死によって新しいいのちに立ち直らせてくださいました。



信じるものを罪の束縛から解放し、終わりのない喜びにあずからせてください。


ラテン語規範版では一文であるが、三つにわけることできる。すなわち、①Deusからerexistiまでは神に関する事実を述べ、②fidelibusからlaetitiamまでが神への祈願内容、③ut節以降は祈願内容を受けた結果節という構造になっている。

まず①の部分について、神に関する事実とは、①堕落した世界を神は立て直されたが、②それは神の御独子のへりくだりによってであったということである。神の御独子の謙遜の内容は、次の聖書の箇所を読むことで分かる。つまり、それは受肉に始まり、十字架上での死にいたるイエスキリストの生涯そのものである。

キリストは神の身でありながら、神としてのあり方に固執しようとはせず、かえって自分をむなしくして、僕の身となり、人間と同じようになられました。その姿はまさしく人間であり、死に至るまで、十字架の死に至るまで、へりくだって従う者となられました。
(フランシスコ会訳『フィリピの人日への手紙』2章6-8)



②の箇所では、父である神を信じる者が聖なる幸せの状態となることを願っている。そして、③の箇所では、そのような幸せな状態にある、父である神を信じる者=罪への奉仕から救い出された者は永遠の喜びを味わえるようになるとして、祈りを締めくくっている。

永遠の喜びとは究極的には死んだ後に神を直接見るまで得ることはかなわないのであるが、ミサにおいて、私たちは十字架の死と復活を記念することで、その永遠の喜びが待っていることを思い出す。ここで私たちは神の御子は2千年前に受肉と十字架上での死を通じてへりくだられたが、現在も聖体という形で徹底的にへりくだり、人間の罪によって堕落した世界を救済されているということに気付くのである。

最後に日本語公式訳を見てみよう。

まず「in Filii tui humilitate」を「キリストの死によって」と訳している点が気になる。キリストが己を卑しくされたのは、受肉から十字架の死に至るまでを指すのであり、キリストの死という点に絞って翻訳するのは不適切な翻訳に思える。

またfidelibus以下の箇所はラテン語規範版の文の構造を無視した翻訳となっている。

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