2018/06/12

カテドラルに聖体拝領台の柵を復活させたマカオの取組み

日本のカトリック教会では、「跪く」という姿勢を「欧米の習慣で、日本的でない」という理屈で排除しようとしている。そうした理屈は屁理屈にすぎないという、反証の一つとして、中国・マカオ教区の取り組みを紹介したい。

記事においては、マカオのカテドラルにおいても、第二バチカン公会議後の典礼改悪の中で、聖体拝領台の柵が取り払われた。しかし、聖体へのふさわしい敬意を表すことができやすいようにするため、その柵を復活させたという。マカオのカテドラルでは、立っても跪いても、口でも手でも聖体を拝領できるが、聖体拝領台となる柵を復活させると、多くの人が写真のように跪いて聖体を拝領するようになってきたという。跪くという姿勢はカトリック的な姿勢であり、信仰に必要な謙遜さを示す証左といえよう。

引用元はコチラ

マカオカテドラルの様子
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2018/06/05

教皇フランシスコはドイツ司教団の指針公布を拒絶【プロテスタント配偶者への聖体拝領】

依然として騒ぎを起こしたままになっている、ドイツ司教団によるプロテスタント配偶者への聖体拝領の問題について、イタリアの新聞「L'Espresso」が衝撃的な記事を6月4日付けで発表した。スクープなのでガセネタの可能性も否定できないが、興味深いので紹介したい。

引用記事はコチラ

5月25日付けで教理省長官ラダリア被選枢機卿の名前で以下の内容の手紙が、マルクス枢機卿(ドイツ司教協議会議長で、プロテスタント配偶者への聖体拝領を許す指針の唱道者)宛てに送られた。この手紙はプロテスタント配偶者への聖体拝領を許す指針に反対しているウオルキー枢機卿ら5名にも写しが送られた。原文はドイツ語である。

冒頭、、ラダリア被選枢機卿は教皇フランシスコの間で複数回打ち合わせがもたれた上で、手紙で指摘する内容は教皇から明示の承認が得られていることを述べている。手紙ではドイツ司教団のこれまでのエキュメニズム推進への努力を認めつつ、プロテスタント配偶者への聖体拝領を許すドイツ司教団の指針について、教皇は「公布の準備ができていない」という結論に至ったと書かれている。その理由は次の3つ。

1 異宗婚のプロテスタントへの聖体拝領を許すという問題は教会の信仰にかかわり、全教会にとって重要性をもつため

2 この問題はプロテスタント以外のキリスト教諸団体との宗教間対話に少ないない影響を与えるので

3 教会法844条に抵触しているため。

以下は私の感想。
この手紙が本物だとして、これを受け取っておきながら、プロテスタント配偶者への聖体拝領の指針を推し進めようとしているマルクス枢機卿ら聖職者は教皇の指示を軽視するとんでもない悪者にしか見えない。しかし、そこまで確信犯的な悪者なのか、任免権を有するローマ教皇の意向を無視してまで行おうとする彼らの利益は何か?教会税の制度のおかげで、豊かなドイツのカトリック教会とドイツ政府との間で何か密約があるのではないか(またはドイツ政府の意向を忖度しているのか?)とにかく、ドイツのカトリック教会がウオルキー枢機卿ら誠実な聖職者のもと、正常化することを切に願っている。

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2018/06/02

ケルン大司教ウオルキー枢機卿を支持しよう!

5/31(木)はキリストの聖体の祭日に当たり、ドイツのケルンでは恒例の聖体行列がおこなわれた。儀式の中で、ケルン大司教のウオルキー枢機卿は聖体に関する伝統的な信仰を力強く擁護したと、英語雑誌「カトリック・ヘラルド」が報じている。

Youtubeにはドイツ語による大司教の説教が掲載されているのだが、ドイツ語が分からないので、「カトリック・ヘラルド」に引用された英語訳を紹介する。(引用元はコチラ



(プロテスタントの配偶者への聖体拝領の問題について)
「ここ数週間、聖体に関して多くの議論がなされた。『それが何だ?ばかばかしい』という人もいれば、『パンチアンドジュディーショー(注、イギリスの伝統的な人形劇で、ドタバタ喜劇)だ』という人もいる。だが私は言う。これは死と命の問題である。(中略)根本的な問題である!だから戦う必要があり、正しい道を探す必要がある。それは他でもない、主の道をである。」

「(聖体拝領を希望する人は)カトリックの教義、例えば、死者への祈り、聖人崇敬、『秘蹟としての教会』といったカトリックの教義に対して『然り、アーメン』と言うことができるのかをよく考慮すべきである。というのは、聖体拝領をする人は誰でもキリストと一体となるからである。結果、その人はイエスの体の一員、教皇と司教が代表し構成する、具体的な教会の一員となる。」

(ドイツ司教団の提案がドイツ国内のことだけしか考えていないことに対して)
「もういちど繰り返す。ドイツにいる私たちは、『幸福の島』に住んでいるのではない、私たちは国民教会ではない。私たちは普遍教会の一部であり、ドイツの全司教区は教皇を頂点とする全世界の一部である」



どれも「然り、アーメン」ではないか?ケルン大司教区と関係の深い東京大司教が、聖体の祭日(日本では6月3日)のミサで、ケルン大司教と連帯して何らかのコメントが出されるといいなぁと思う。

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2018/05/27

米国フィラデルフィア大司教による、聖体拝領をめぐるドイツ問題について(後編)

米国フィラデルフィア大司教のチャールズ・チャプット大司教が「ドイツでおきていること」という題で書かれた記事の後編である。急いで翻訳したので、訳の不十分な箇所はご容赦願いたい。

英語の原文はココ

ドイツでおきていること

フィラデルフィア大司教 チャールズ・チャプット

(後編)
3 聖体拝領は共通の信仰と信条を前提としており、それは聖体におけるイエスキリストの実存への超自然的信仰に加え、カトリック教会の古くからの伝統が認める7つの秘蹟への信仰も含まれる。この事実を認めることで、ドイツの提案は事実上、プロテスタントの教会観を採用している。洗礼とキリストへの信仰だけで充分で、カトリックの伝統と数々の公会議が理化している信仰の秘蹟への信仰ではなさそうである。カトリック教会が理解する叙階の秘蹟、それはキリストの肉と血とする、パンとぶどう酒の聖変化への信仰を信じることに論理的なつながりをもつが、プロテスタントとの配偶者はそれを信じる必要があるのだろうか?またドイツの司教たちは叙階の秘蹟は使徒的継承に依存しないとでも示唆しているのだろうか?そのような場合、私たちはより深刻な誤謬に直面することになる。

4 ドイツの提案は聖体と国会の秘蹟との間の重要なつながりを脅かしている。それはプロテスタントの配偶者が聖体拝領に先立ち大罪のために告解にいく義務があることを示していないだろう。しかし、これはカトリック教会、トリエント公会議及び現代のカトリック教会のカテキズムに加え、教師としての司教の役割が示す、古くからの実践及び明白な教義の教えと矛盾している。これは事実上、秘跡に関するカトリックの教義のプロテスタント化を示唆している。

5 教会の教えが無視され、または公会議での定義(この場合、トリエント公会議での定義)を受けたある教えさえ再検討されるならば、すべての公会議は歴史的に相対化され再検討することができるのだろうか?多くの現代のリベラルなプロテスタントは二ケア公会議におけるキリストの神性に関する教えを疑問視したり、退けたり、または歴史的遺物として無視している。プロテスタントの配偶者はキリストの神性を信じることは求められないのだろうか?もし彼らが秘蹟におけるキリストの実存を信じる必要があるならば、彼らは叙階又は国会の秘蹟に関するカトリックの信仰を共有する必要がないのはなぜだろうか?もし彼らがすべてを信じるならば、目に見える完全な一致に至る手段として、カトリック信者となることに彼らが招かれないのはなぜなのか?

6 もしプロテスタントがカトリックの聖体拝領に招かれているならば、カトリックがプロテスタントの陪餐に与ることはまだ妨げられているままなのだろうか?もしそうならば、何が障害となっているのだろうか?もしカトリックの信者が妨げられていないならば、カトリック教会の叙階と有効な聖体の聖変化に関するカトリックの教えは事実上うそであることを示唆しているのではないか、またもしそれがうそであれば、プロテスタントの信仰が真実なのか?もし相互聖餐がカトリックとプロテスタントの聖体観が同じであることを示唆する意図がないならば、相互聖餐の習慣が信者を誤解させている。これは「物議をかもす」文書の例ではないだろうか?そして、エキュメニカルな対話の文脈において、受け入れ困難な教えをごまかす又は隠す慇懃な方法として、多くの人に取らえられないだろうか?私たちの相違という真実を系統的に隠すプロセスに基づいて、一致をえることはできない。

ドイツの相互聖餐の提案の要点は、真の教会の一致がないときでさえ聖体拝領をともにすることがあるというものである。これは聖体の秘蹟の真理の最も深いところへの攻撃である。なぜなら、その本性として、聖体はキリストの体であるからだ。「キリストの体」とは、パンとぶどう酒の外観のもとキリストが現実かつ実体的に存在することと、頭であるキリストとつながる信者の一致である教会自身の両方をさす。聖体を拝領することは荘厳にかつ公に神の前で、教会のうちに、拝領者はイエスと、聖体を共に祝う目に見える共同体と一致していることを宣言しているのである。

ある共同体と「一致していること」と、その共同体のうちで「聖体拝領をすること」との間には本質的なつながりが存在する。これらは互いにその実在性を示している。

多くのことがわたしたちとプロテスタントのキリスト信者とを結び付けている。厳しい論争の時代は終わった。私の人生における恵みの中には、偉大なキリスト信者としての特性、博識、福音に対しての献身を備えたプロテス反の友人の存在と実例がある。ここに私が書いたことは彼らの並外れた証言を否定することを一切意味していない。しかし、重要なことがまだ私たちを分けていること、私たちを分けている問題はただ過去の時代の言語的人工物ではないことも重要なことである。私たちが分かれていることはキリスト信者の一致につけられた傷である。それは神の意志によるものではない。しかし、それは私たちが認める必要がある現実なのだ。聖体のうちにイエスと出会う最も荘厳な瞬間に嘘を挟むこと、つまり、その当人が共同体とは明白に一致していないのに、行動によって「私はこの共同体と一致している」と述べることは、嘘であり、それゆえ神のみ前での深刻な違反である。

2003年の回勅『教会に命を与える聖体』の中で、ヨハネパウロ2世はこう書いている。

 聖体祭儀は、(中略)一致のための出発点ではない。それは堅め、完全に至ろうとする一致がすでに存在していることを前提としている。キリストのうちに聖霊の働きを通して私たちを父なる神及び私たち同士のうちに一致させる目に見えない次元と、使徒の教え、秘蹟、教会の聖なる叙階との一致を必然的に含む目に見える次元との両方で、秘跡はこの一致がもつ紐帯の表現である。教会共同体との目に見えない次元と目に見える次元との間の深い関係性は、救いの秘蹟としての教会を構成している。この文脈においてのみ、合法的な聖体祭儀と、それへの真の参加が可能である。結果、聖体は一致のうちに、具体的にいえばとくに完全な一致という様々な紐帯を維持しながら、祝われるべきであるということが、本質的な必要条件となる。



ドイツで起きていることはドイツでとどまることはないだろう。歴史はすでにわたしたちに教訓を教えてくれている。



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2018/05/24

米国フィラデルフィア大司教による、聖体拝領をめぐるドイツ問題について(前編)

米国フィラデルフィア大司教のチャールズ・チャプット大司教が「ドイツでおきていること」という題で書かれた記事が話題になっている。ドイツにおける聖体拝領の議論はドイツの司教たちが勝手に決めてよいものでなく、全教会に関することであり、それだけでなく、カトリック教会とは何かという神学的内容を含む重大な問題であることをロジカルに解き明かしている。急いで翻訳したので、訳の不十分な箇所はご容赦願いたい。

英語の原文はココ

ドイツでおきていること

フィラデルフィア大司教 チャールズ・チャプット

伝記『マルチン・ルターができる中で』の中で、ケンブリッジの学者リチャードレックスはルターの公的生涯の真に誕生したのは1517年でなく、1518年であるとする。ルターの95か条の論題は1518年1月にドイツで広く知られるようになった。同じ年の春にルターは告解のための手引きと、聖体拝領の際の心の適切な準備に関する説教を著わしている。特に説教ではカトリックの秘蹟神学について後年花咲くルターの攻撃の萌芽が見て取れる。トマス・カジェタン枢機卿がルターと会った時に既に感じた事実であり、1518年10月にアウグスブルグでルターのより論争を呼ぶ見解をルターが撤回するよう圧力をかけたのであった。

ルターは撤回せず、その後の話はよく知られている。

ルターの説教のちょうど500年後、聖体拝領はドイツにおいて再び議論の的となっている。今回の論争者は司教自身である。ミュンヘンのラインハルド・マルクス枢機卿と他のドイツ司教はカトリック信者と結婚したプロテスタントの配偶者が、特定の条件の下、つまり彼らが「聖体へのカトリック信仰を認める限りにおいて」、聖体拝領することを許そうとしている。ケルンのライナー・ウォルキ枢機卿と6人のドイツ人司教はこの動きに対して反対している。彼らはローマからの意見表明を求めたが、バチカンは仲裁することに消極的で、ドイツの司教たちに議論による合意に達するよう促すことで問題をドイツの司教に戻した。

ドイツ全国カトリック集会において、今月初め、この問題はヒートアップした。ドイツ大統領が、主要なテレビ局のキャスターたちと並び、公にマルクス枢機卿の側に立った。マルクス枢機卿は「誰かが空腹で信仰があるなら、かれらは聖体に近寄る手段を持たねばならない。それは私たちのパッション(共感)でなければならない。私はこれについて妥協する気はない」と論じ、ウォルキ枢機卿は同意せず、「(カトリックの)聖体におけるキリストの現存に『然り』と言う者は誰でも、当然に教皇制度、教会のヒエラルキー、聖人の崇敬等(これらは典型的にプロテスタントの信仰で否定されるものである)にも然りというであろう」と指摘した。ウォルキ枢機卿はさらに強調して「ドイツにおける私たちは普遍教会の一部、部分であり、ドイツだけの例外はない」と言った。

人間であるため、司教たちはしばしば相互に意見が食い違う。どんな司教会議でも内部の相違は珍しくなく、それらは、驚きなく、内部で処理される。しかし、二つの点でドイツの事情を別なものにしている。それは論争の世界的に目立っていることと議論が内包する教義内容である。誰が、いつ、なぜ、聖体を拝領するかという問題はドイツだけの問題ではない。もし、バチカン第二公会議が言う通り、聖体がキリスト教徒としての私たちの生活の源であり頂点であり、カトリックの一致の印であるならば、これらの問題に対する回答は全教会にとって意味のあるものになる。それらは私たち全員の関心事である。この観点にたち、私は、多くの司教の中の一人として率直に語るならば、考えそして議論するためのポイントを以下に示す。

1 もし聖体が真に教会の一致の印であり道具であるならば、もし私たちが聖体拝領の条件を変更する場合、事実上、教会とはなにものかという考えを再定義していないだろうか

2 意図的かどうかは別にして、ドイツの提案はこれを必然的に行うことになる。それはすべてのプロテスタント、又は全ての洗礼を受けた人に対する聖体を許すことの最初の段階である。なぜなら、結婚は究極的に、非カトリック者への聖体を許可する単独の理由にはならないからである。

後編へ続く

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