2018/05/19

聖霊降臨の祭日の集会祈願

5/20(日)は聖霊降臨の祭日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。

まず、集会祈願の出典について。通常形式のミサ典書の編集者たちは、特別形式のミサ典書にある集会祈願を採用せず、『古ゲラシウス典礼書』など古写本に、聖霊降臨の前晩のミサ又は聖霊降臨の祭日の八日間の祈りとして収録されていたものを、文言を変えず、以下で紹介する聖霊降臨の祭日の集会祈願とした。

次にラテン語規範版の祈りを見ていこう。

ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Deus, qui sacramento festivitatis hodiernae universam Ecclesiam tuam in omni gente et natione sanctificas, in totam mundi latitudinem Spiritus Sancti dona defunde,


et, quod inter ipsa evangelicae praedicationis exordia operata est divina dignatio, nunc quoque per credentium corda perfunde.
本日の祭日の神秘によって、諸国民のうちにおいて、あなたの教会すべてを聖別される神よ、聖霊の賜を世界の隅々に注いでください。

そして、福音宣教の最初に聖なる慈悲深さがもたらしたものを、いま信者の心にも満たしてください。
すべての人の父である神よ、きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。聖霊を世界にあまねく注いでください。

教会の誕生に当たって、おこなわれた宣教の働きが、いまも信じる民を通して続けられ、豊かな実りをもたらしますように。


ラテン語規範版では一文であるが、構造上は神に対する二つの祈願で構成されている。前半のqui節は神(Deus)を修飾し、神に関する事実を述べる役割を果たしている。

前半部分では、神は諸国の民の中で、ご自身の教会を聖霊降臨の祭日の神秘によって聖別されていると述べている。第一の祈願にある全世界の隅々(in totam mundi latitudinem)は、、文脈上は神が聖別された教会(universam Ecclesiam tuam)と同義と理解した方がよさそうである。第一の祈願は、教会に聖霊の賜が注がれることを、教会を聖別される神に祈願している。聖霊の賜が実を結ぶためには、私たちが絶えず聖霊に聴き従う態度を持つ必要があることは言うまでもない。

神が教会を聖別する(sanctificas)ということの意味について、少し長くなるが、フランシスコ会訳聖書「ヨハネによる福音書(17章17節)」の注を引用したい。

「聖なるものとする」は、聖なる神が、人間や物を世俗の用から区別して自分専用のものとすることで、「聖別する」とも言う。旧約時代の祭司は、神への奉仕のために油を注がれて聖別された(出28・41、レビ8章参照)。エレミヤは預言者として選ばれたとき、神によって聖別された(エレ1・5)。新約では、使徒たちは福音の真理を伝えるために聖別される。彼らは外面的な注油によらず、真理の霊である聖霊によって聖別される(16・13参照)。



後半は第二の祈願である。そこでは神に対して、いまも信者の心に何かを満たしてほしいと祈願する。この信者(credentium)は、第一の祈願の教会(ecclesiam)と同義と理解した方がよさそうである。信者、すなわち教会の心に満たしてほしいものとは、福音宣教の最初の時(つまり、聖霊降臨がおきた朝)、神のあわれみの業によって引き起こされたものである。つまり、真理の霊が使徒たちの上に臨んだように、いまの信者の上にも真理の霊が臨むことを祈願している。真理の霊である聖霊が臨むことは神のあわれみの業であるので、「聖なる慈悲深さがもたらしたもの」(quod opera est divina dignatio)とへりくだった表現が使用されているのだろう。

Veni, Sancte Spiritus, reple tuorumcorda fidelium: et tui amoris in eis ignem accende.
聖霊来たり給え、信者の心に満ち給え。主の愛の火をわれらに燃えしめ給え。
(聖霊の導きを願う祈り)



さて、最後に日本語公式訳をみてみよう。

まず前半部分はラテン語規範版を無視した創作であり、翻訳ではない。しかも内容はラテン語規範文と全く異なる価値観である。つまり、ラテン語規範文では、神は諸国民の中から人々を選ぶ(=聖別する)とされているものが、日本語公式訳では神は全人類を一つにするとしており、日本語公式訳には何か世俗的な博愛主義の香りを感じざるをえない。

また後半部分はラテン語規範文同様に二つの祈願の構造をもっているが、こちらも意味はラテン語規範版と異なる。日本語公式訳では、聖霊を神が与えてくれれば、いまの信者は初期キリスト教会の熱心さで宣教活動に邁進でき、結果、豊かな実りがもたらされるという内容になっている。そこには、宣教するいまの信者が宣教するに値する存在なのかという自己に立ち返る謙遜さはないように感じる。情熱が空回りしないことを心配してしまうような祈りになっている。

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2018/05/09

主の昇天の祭日の集会祈願

主の昇天180510

2018年の5/10は主の昇天の祭日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。なお、日本では特別な許可の下、通常形式ミサにおいては復活節第7主日に主の昇天の祭日のミサを祝う。

以下で紹介する集会祈願は特別形式ミサのものである。というのは、通常形式のミサ典書第二版までは特別形式ミサの集会祈願ではなく、独自に編集した集会祈願が採用されていたが、同ミサ典書第三版において、特別形式ミサの集会祈願も通常形式で使用することができるようになったからである。また通常形式のミサ典書第三版に対応する日本語公式訳は存在していないため、日本語公式訳の紹介はしない。

早速祈りを見ていこう。

ラテン語規範版 拙訳
Concede, quaesumus, omnipotens Deus:

ut, qui hodierna die Unigenitum tuum Redemptorem nostrum ad caelos ascendisse credimus; ipsi quoque mente in caelestibus habitemus.
全能の神よ、切に願います。

あなたの御独子、わたしたちの贖い主がこの日昇天したことを信じるわたしたち自身も、心をもって、天の国に住処をもつことをお許しください。


ラテン語規範版では一文であるが、構造上、ut節の前後で二つに分けることができる。この祈りでは、ut節は主節の動詞「~をお許しください」(concede)に直接係る従属節である。この文の構造を念頭に入れた上で、内容に入ってい行きたい。

前半部分では、神を「全能の神」(omnipotens Deusm)と呼びかける。この呼びかけがされる時は、わたしたちの努力でなしえないことを、神の力に信頼した内容の祈願が続くことが多い。その祈願の内容が後半部分となっている。

後半部分の主語は「わたしたち」である。「ut」のすぐ後にある「qui」節は私たち自身に関するもので、ここで「わたしたち」は以下の3つのことを信じているとされている。すなわち、イエスキリストは神の御独子であること、イエスキリストはわたしたちの贖い主であること、イエスキリストは天に上ったことの3つである。これは主の昇天の祭日に当たって、信じるべきことが簡潔に表されているといえよう。

では、上記3つのことを信じるキリスト信者が願うことは何かというと、喜びと希望の心をもって、天国に住処を持つことができるようにになることである。キリストの昇天は悲しみの別れではなく、喜びと希望の別れである。喜びとはわたしたちが神との一致がはかれるよう、キリストが天の門を開けてくださったからである。希望とはまたキリストが再臨することも知ったからである。

ガリラヤの人たちよ、なぜ、天を仰いで立っているのか。あなた方を離れて天に上げられたあのイエスは、天に昇るのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。(使徒1.11)






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2018/05/05

復活節第6主日の集会祈願

5/6(日)は復活節第6主日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。

まず、集会祈願の出典について。通常形式のミサ典書の編集者たちは、特別形式のミサ典書にある集会祈願を採用せず、『古ゲラシウス典礼書』など古写本収録の3つの別々の祈りをもとに、文言を変えた上で、以下で紹介する復活節第6主日のミサの集会祈願を新しく作成した。

次にラテン語規範版の祈りを見ていこう。

ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Fac nos ,omnipotens Deus, hos laetitiae dies, quos in honorem Domini resurgens exsequimur, affectu sedulo celebrare,


ut quod recordatione percurrimus, semper in opere teneamus.
全能の神よ、主の復活をたたえてわたしたちが果たす喜びのこの日々(の務め)を、熱心な信心をもってわたしたちに祝わせてください。

その結果、わたしたちが記念して過ぎこすものを、行いにおいてわたしたちがたえず保つことができますように。
全能の神である父よ、復活された主イエズスの記念を真心こめて祝います。

このよろこびを、わたしたちが日々の生活の中で保つことができますように。


ラテン語規範版では一文であるが、構造上、ut節の前後で二つに分けることができる。そして、ut節は結果を導く節であるので、前半部分を前提とした内容となる。

復活節第6主日は主の昇天(イエス・キリストの復活後40日目にあたる木曜日)直前の主日にあたることから、この集会祈願においては、主の昇天後にわれわれはどう生きていくべきか示唆しているようである。

前半部分では、全能の神に対して、喜びの日々、つまり復活節を熱心な信心でもってわたしたちが祝うことができるように祈願している。この文脈においては、「果たす」(exsequimur)は「祝う」(celebrare)とほぼ同意と考えてよいだろう。私たちは自らの意志で主の復活をたたえて復活節の務めを果たすが、それを「熱心な信心で」(affectu sedulo)で祝うことができるのはわたしたちの努力の賜でなく、神からの賜である信仰によるので、「わたしたちに~させてください」(fac nos~)と全能の神の力に信頼して祈願するのである。

後半部分は前半の祈りを前提にしたもので、私たちが熱心に復活節を祝うことを神が許されたときにおこる結果(効果)を示している。具体的にいえば、記念して過ぎこすもの、つまり喜びの日々(=復活節)を、ただ心のうちに過去の出来事として思い出すことにとどまらず、外面の行為(in opere)においても保ち続け、現存させることを希望し、神に祈っている。

行いにおいて復活節に生きるとは具体的には何なのか?それを私はこう考える。復活節において、神の子イエスの犠牲と復活を喜びのうちに祝った私たちが確認したことは、イエスは神であり、死に至るまでわたしたちを徹底的に愛されているということである。そのような神がわたしたちに望まれることは、受けた愛に答えること、つまり、イエスが神の子であると認めること、そしてたがいに愛することである。聖書にこう記されている。

愛する者たちよ、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合わなければなりません。(中略)誰であれイエスが神の子であると告白する人のうちに、神が留まっておられ、またその人も神のうちに留まっているのです。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知っており、また、信じているのです。
(一ヨハネ4.11,15-16)



さて、最後に日本語公式訳をみてみよう。

ラテン語規範分の構造を軽視して翻訳されているため、前半部分と後半部分のつながりが希薄な印象である。かろうじて、後半部分の冒頭の「このよろこび」という言葉で、つながりを持たせようとしているが、「この」が前半のどの部分を受けたのかが不明瞭であり、不出来な翻訳となっている。

また前半部分の翻訳でラテン語規範版にある「わたしたちに~させてください」(fac nos)を無視しているため、祈願となっていない。そのため、わたしたちは神の恵みを求めなくても、自由意思さえあれば「復活されたイエズスの記念を真心こめてを祝う」ことができるかのような印象を受ける翻訳である。わたしたちは神の恵みなしには何もできない存在であることを踏まえた、ラテン語規範版編集者がこの集会祈願に込めた意図を裏切っていると言えば言い過ぎかもしれないが、非常に残念な翻訳であるといわざるを得ない。

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2018/04/28

復活節第5主日の集会祈願

ぶどう園の喩え

4/29(日)は復活節第5主日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。

まず、集会祈願の出典について。通常形式のミサ典書の編集者は特別形式の集会祈願を採用せず、9世紀のアンブロシウス典礼の『Bergomese 典礼書』収録の叙唱と奉納祈願をもとに文言を追加して、この集会祈願を作成した。

なお、通常形式のミサ典書の第一版と第二版では、この祈りは復活節第7週の土曜日の集会祈願であったが、2002年に出版された第三版では復活節第5主日の集会祈願とされた。また日本語公式訳が手元にないため、今回はその引用を割愛した。

次にラテン語規範版の祈りを見ていこう。

ラテン語規範版 拙訳
Omnipotens sempiterne Deus, semper in nobis paschale perfice sacramentum,

ut, quos sacro baptismate dignatus es renovare, sub tuae protectionis auxilio multos fructus afferant,

et ad aeternae vitae gaudia pervenire concedas.
全能永遠の神よ、わたしたちのうちに過越しの神秘をたえず完成してください

それによって、あなたが聖なる洗礼によって畏くも再生してくださった者たちが、あなたの保護の助けのもと、多くの実りを生み出すことができますように。

またあなたが永遠の命の喜びに達することを許してくださいますように。


ラテン語規範版では一文であるが、構造上、ut節の前後で二つに分けることができる。そして、ut節の中も、主語の違いに着目すれば、さらに二つに分割できる。文意が取りやすいよう三分割してみた。便宜上、それぞれを第一の部分、第二の部分、第三の部分と呼ぶ。ut節はその前の主節に対する結果を導く節であるので、ut節以降の第二の部分と第三の部分は、第一の部分の結果(効果)を示している。この文の構造を念頭に入れた上で、内容に入ってい行きたい。

第一の部分では、過越しの神秘がわたしたちのうちに完成するという意味を考えたい。過越しの神秘とはわたしたちの救いを成就したキリストの死と復活を意味する。キリストは復活をすることで罪と死を克服されたのだから、この過越しの神秘がわたしたちのうちに完成するとは、罪と死を克服したキリストの勝利に私たちも与り、自らの罪と死が克服されることを意味する。自らの罪と死を克服することは自力で達成しうるものではない。神の恵みのみが実現可能なことである。

また、「たえず」(semper)という言葉も意義深い。過越しの神秘は1回限りの出来事ではあるが、わたしたちのうちにおいては、それが失われうることを予見し、この祈りでは「たえず完成してください」(semper perfice)と全能永遠の神に祈願している。実にミサはキリストの過越しの記念であり、そこで信者の贖いがたえずなされているとカトリック教会は宣言する。

Quoties sacrificium crucis, quo "Pascha nostrum immolatus est Christus" (1Cor 5,7), in altari celebratur, opus nostrae redemptionis exercetur.
十字架の犠牲、そこで「わたしたちの過越しの小羊であるキリストが屠られる」(一コリント5章7)が、それが祭壇の上で行なわれるたびに、われわれの贖いの業が行なわれる(第二ヴァチカン公会議『教会憲章』(Lumen gentium)第3項)



第二の部分、第三の部分は、過越しの神秘がわたしたちのうちに完成した状態における二つの結果(効果)を示している。第二の部分の主語は、洗礼を受けた人(受洗者)である。受洗者は神の保護の助けのもと、多くの実りを生み出すことができる。聖書の中でも、キリストはブドウの木とブドウの実の喩えで同じことを語られている。

わたしはぶどうの木であり、あなた方は枝である。人がわたしのうちに留まっており、わたしもその人にのうちに留まっているなら、その人は多くの実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは、何もですることができないからである。わたしのうちに留まっていない人があれば、枝のように、外に投げ捨てられて枯れる。すると、人々はそれをかき集め、火に投げ入れて燃やしてしまう。
(ヨハネ福音書15章5-6)



第三の部分の主語は、全能永遠の神である。「永遠の命の喜び」(aeternae vitae gaudia)とは、天国における三位一体の神の交わりと言ってよいだろう。洗礼者は地上において神とつながることで実りをもたらし、同じく神のあわれみにより、死後は神との完全な親密さのうちに招かれる。

キリスト教の洗礼はかくも偉大なものであるが、それは全て神との一致が前提にあり、かつ神のあわれみによることを忘れてはならない。神のあわれみによることは、この集会祈願の第二の部分で「畏くも」(dignatus es)「あなたの保護の助けの下」(sub tuae protectionis auxilio) 、第三の部分で動詞「~することを許してくださいますように」(concedas)という言葉が使用されていることがそのことを裏書きしている。





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2018/04/21

復活節第4主日のミサの集会祈願

良き羊飼いの画像
4/22(日)は復活節第4主日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。なお、この主日は1964年以降、「世界召命祈願の日」とされ、司祭と修道者への召し出しを特に祈る日とされている。

まず、集会祈願の出典について。通常形式のミサ典書の編集者たちは、特別形式のミサ典書にある集会祈願を採用せず、『古ゲラシウス典礼書』収録の祈りをもとに、文言を変えた上で、以下で紹介する復活節第4主日のミサの集会祈願を新しく作成した。

次にラテン語規範版の祈りを見ていこう。

ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Omnipotens sempiterne Deus, deduc nos ad societatem caelestium gaudiorum,

ut eo perveniat humilitas gregis, quo processit fortitudo pastoris.
全能永遠の神よ、天の喜びの集いへとわたしたちを導いてください

それによって、卑しい群れが、力強い牧者が前進するところへ達することができますように。
全能永遠の神よ、よい牧者キリストは、わたしたちのためにいのちをささげてくださいました。

キリストの声に従うわたしたちがあなたの国にみちびかれ、聖人とともによろこびを分かつことができますように。


ラテン語規範版では一文であるが、構造上、ut節の前後で二つに分けることができる。そして、ut節は結果を導く節であるので、前半部分を前提とした内容となる。

この主日の福音朗読箇所は、A年、B年、C年のいずれもヨハネ福音書10章から選ばれており、共通するテーマは羊飼いと羊の群れの喩えである。この集会祈願も羊飼いと羊の群れを想起させる単語を使用している。あげると「deduc」(導く)、「gregis」(群れ)、「pastoris」(牧者)という具合である。

前半部分の祈願では、全能永遠の神に対して、私たちを三位一体の交わり、諸聖人の交わりへと導いてほしいと祈願している。つまり、われわれの努力でそういった天的喜びの交わりに達するという考えは否定され、全能永遠の神による導きのみが必要であるいう考えがこの祈願には込められている。

後半部分の内容は、前半部分の内容、つまり、全能永遠の神が私たちを天国へと導いてくださることを前提とする。すなわち、卑しい信者の群れは、神が私たちを導いてくださるから、力強い牧者であるイエスキリストに従い、その目指すところにたどりつくことができるようにとを祈願している。

では卑しい我らは徹底的に受け身で、洗礼を受けた後はただイエスキリストを信じていればよいのかといえば、当然そうではない。イエスに従うこととは、イエスのように、善行を行い、苦しみを耐え忍ぶことであると、聖書は教える。

あなた方が善いことを行い、しかも苦しみを受けて、耐え忍ぶなら、神のみ心にかないます。キリストもまた、あなた方のために苦しみを受け、あなた方がその足跡をたどるよう模範を残されました。あなた方が召されたのはこのためです。(中略)あなた方は、羊のように迷っていましたが、今は魂の牧者であり、監督者である方のもとに帰ってきたのです。
(ペトロの第一の手紙2章20-21,25)



さて、最後に日本語公式訳をみてみよう。
前半部分はラテン語規範版の原文をまったく無視した、創作である。後半部分も、最後の「聖人とともに喜びを分かつことができますように」を除けば、原文を無視している。ここまで原文を無視して作文したものを、「日本語訳」と呼んでよいものだろうか

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