2016/10/20

高山右近列福式の聖歌が決まる

列福式の聖歌が決まったとのこと。
ソースは列福式公式ゆるきゃら「う~こんどの」のfacebookページより。
聖歌隊参加者への聖歌郵送に合わせて、一般にも公開されたようだ。

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ラテン語聖歌、カトリック聖歌集の歌、典礼聖歌、外国語の聖歌。
選ばれた聖歌をみると、そのまま日本の教会の歴史をなぞるようだ。
列福者は今の時代の人のものではなく、あらゆる時代の人のものだ。
またラテン語嫌いが聖職者に多い日本の教会の事情を斟酌すると、
今回の選曲は合格点を出せると思うが、どうだろうか?

う~こんどの、関係者に感謝!
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2011/09/24

列聖と不可謬権について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は列聖に関する質問で、2011年8月23日の記事から(原文はコチラ)。

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質問
 去る2月にヴァチカン宮殿で、グィド・マリア・コンフォルティやルイジ・グゥアネッラやボニファチア・ロドリゲス・デ・カストロのために行ったように、教皇が3人の福者の列聖調査に関する公開の通常枢機卿会議を開いている場合、福者を聖人とするという枢機卿会議での宣言は不可謬の宣言なのでしょうか?(米国ペンシルバニア州、ヴィラノヴァ、R.Jさん)

回答
 「否」又は、少なくとも「まだです」というのが、簡単な答えになります。理由は枢機卿会での決定はその性質が法的なものであって、神学的なものではないからです。

 公開の枢機卿会議とは特定の目的のために教皇によって召集される枢機卿の集まりです。他の人々、例えば司教座首席秘書、ローマ控訴院の監査人、他の高位聖職者も公開の枢機卿会議に出席しても構いません。その目的は一般的には新しい枢機卿を昇格するためか、又は、少なくとも技術的に、福者の列聖に関する枢機卿の意見を聞くためです。

 技術的にと私が書いたのは、一般的に枢機卿はすでに自らの意見を述べており、列聖は既に決定したことだからです。ですから、今日では枢機卿会議は皆で儀式的に賛意を示すある種の法的なフィクションになっています。枢機卿会議の終わりに教皇は枢機卿の意見を受け取り、列聖式の日取りを伝えます。

 枢機卿会議の法的な性質は福者ヨハネ・パウロ2世の教皇としての行為の一つから伺えます。2005年2月に教皇は自分が出席できなかった枢機卿会議に関して国務長官に手紙を送っています。

 「私は福者の列聖調査の最終判断のために今日、2月24日に公開の通常枢機卿会議を祝うために、ローマ在住の枢機卿、大司教及び司教を招集していました。体を気遣うために、テレビを通じて私の住まいからこの会議を見守るよう言われています。枢機卿殿、予定している会議を私の名前で終える権能を与えるので、この会議の議事運営をお願いします。

 それ故、世界中の枢機卿達から、ローマ在住の大司教及び司教から書き物ですでに示された好意的な意見に従い、以下の5名の福者の列聖式の日を2005年10月23日の日曜日に設定するつもりであることを伝えたい。その福者とは、福者ヨゼフ・ビルウィスキ司教、福者ガエタノ・カタノソ司祭(ヴェロニカ姉妹会、聖顔宣教会の創設者)、福者ジグムント・ゴラドフスキィ司祭(聖ヨゼフ姉妹会の創設者)、福者アルベルト・ヒュルタド・クルチャガ神父(イエズス会)及び福者ニコシアのフェリクス(俗名はフィリッポ・ジャコモ・アモロソ)(カプチン会の修道士)・・・

 公開の通常枢機卿会議の出席者と祈りのうちに一致し、枢機卿殿、私は全員に使徒的祝福を送りますので、六時課の典礼を行うようお願いします。」


 ご存知のように、聖体に関するシノドスの閉会のミサの中でこれらの福者を最終的に列聖したのが、ベネディクト16世でした。

 それ故、枢機卿会議が不可謬権の行使であることを示していないのは明らかです。まず教皇は一人の枢機卿に宣言することを付与しています。次に宣言は列聖式の日取りの発表であって、列聖自身ではありません。

 教皇自身がある人を聖人であると宣言する時にのみ不可謬権は行使されます。宣言はラテン語の式文で行われます。翻訳すると大意は以下の通りです。

「長期にわたる熟考、幾たびの神へのとりなしの祈り、ローマの兄弟たちの多くへの意見聴取の末、聖なる三位一体を記念し、カトリック信仰の称揚及びキリスト教的生命の増進のため、私たちの主イエズスキリストの権威、使徒聖ペトロ及びパウロ、並びに他の聖人の権威により、朕は福者某を聖人であると宣言し、彼(彼女)の名を聖人録に含め、全教会によって彼らが聖人たちの中で敬虔に祝われることとする。」

 上記の場合、ベネディクト16世はヨハネパウロ2世によって決められた日の列聖式の計画を進めました。少なくとも理論的には、ベネディクト16世は延期にしたり、前倒しにしたり、列聖式を中止にすることさえできました。そのような仮説的でありえないようなケースでは、列聖の手続きはすでに終わっているので、未来の教皇は列聖式のために別の日を設定できただろうと私は思います。しかし、実際の列聖式が終わるまで、福者は聖人の称号も典礼的な名誉も付与されることはできないのです。

 列福は教会の関与の度合いが同じであることを示していませんが、ベネディクト16世がヨハネパウロ2世によって既に決まっていた列福を無期延期したことは注目に値します。これは列福予定者に関する確かな新情報がその間に浮上したからで、ベネディクト16世は列福を進める前に白黒をはっきりさせる必要があると考えたからです。

以上

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(感想)
 日本ではあまり話題にならない列聖に関する質問であった。日本ではなぜか列聖の運動と言うのはあまり熱が入っていないような気がする。聖人は教会の精華であり、聖人に関心のない共同体はやはり霊的にも関心のない共同体だと私は思うのだが。

 数年前に長崎で江戸時代のキリシタンの列福式が盛大に執り行われたが、彼らの列聖運動については東京で暮らしていると全く伝わってこない。反原発や平和を求める何とかのチラシや署名簿は教会に余りある一方で、尊い日本の福者へのとりなしを求めるカードなんかは用意されていない。

 「Credo in Sanctorum Communionem(聖徒の交わりを信じる)」と日々宣言する日本のカトリック信徒が、この翻訳を読んで聖人への関心を持ってくれれば幸いである。
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