2018/06/23

洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日の集会祈願(通常形式)

カトリック教会では毎年6/24に、洗礼者聖ヨハネの誕生を典礼において盛大に祝う。今年はその6/24が日曜日にあたったが、通常形式の典礼のルールでは、洗礼者聖ヨハネの誕生は「祭日」にあたるため、主日ミサに優先して祝われる。それで、洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日の集会祈願(通常形式)について記事を書きたい。

まず集会祈願の出典であるが、この祈りは特別形式ミサの集会祈願をもとに加筆・修正されたものである。加筆された文言はルカ福音書1章にある文言をもとにしたという。それではラテン語規範版の祈りを見ていこう。

ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Deus, qui beatum Ioannem Baptistam suscitasti, ut perfectam plebem Christo Domino praepararet,

da populis tuis spiritalium gratiam gaudiorum, et omnium fidelium mentes dirige in viam salutis et pacis.
神よ、主キリストのために民を完全なものにする用意をするよう、洗礼者聖ヨハネをあなたは呼び起こされました。

あなたの民に霊的喜びの恵みを与え、全ての信じるものの心を救いと平和の道へお導きください。
すべての人の救いを望まれる神よ、あなたは洗礼者ヨハネをつかわし、人々に救い主キリストを迎える準備をさせてくださいました。

あなたの民を信仰のよろこびで満たし、救いと平和の道に導いてください。


ラテン語規範版では一文であるが、構造上は「da populis」の前後で分けることができる。前半では洗礼者ヨハネに関する事実を述べ、後半では二つの祈願を神に対して行うという構造になっている。

前半部分では、神が洗礼者聖ヨハネを通じて、実現した事績を述べている。大天使ガブリエルが父ザカリヤに産まれる子供(のちの洗礼者ヨハネ)について聖書はこう語っている。

彼はエリヤの霊と力をもって主に先立って行き、父の心を子に、不従順な者を正しい人の思いに立ち返らせて、心構えのできた民を、主のために用意する。
(フランシスコ会訳『ルカによる福音書』1章17)



後半部分は神に対する私たちの祈願である。祈願は二つあり、一つ目は私たちが霊的喜びの賜が与えられること、二つ目は私たちの霊を救いと平和に至る道に導くことを願っている。これら二つがかなえられるとき、私たちは主キリストの二度目の再臨にふさわしく用意が整えられた状態となるのである。

さて、最後に日本語公式訳をみてみよう。

比較的にラテン語規範版の祈りにそって翻訳されていてるが、ラテン語規範版にある動詞、例えば、前半の「suscitasti」を「つかわし」としたり、後半の「da」を「満たす」とするなど、勝手に言葉を置き換えていることでラテン語規範版にある意味を変えてしまっているのが残念である。


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2018/04/30

労働者聖ヨセフの祭日の集会祈願(特別形式)

5/1(火)は労働者聖ヨセフの祭日に当たる。1955年に定められた祭日で、特別形式においては一級祝日である(通常形式では任意の記念日)。幸運なことに今年は東京で行われる特別形式ミサに参列できるので、この日のミサの集会祈願について書きたい。

早速祈りを見ていこう。

ラテン語規範版 拙訳
Rerum conditor Deus, qui legem laboris humano generi statuisti: concede propitius;.

ut, sancti Joseph exemplo et patrocinio, opera perficiamus quae praecipis, et praemia consequamur quæ promittis.
万物の創造主である神よ、あなたは人類に労働の掟を定められました。寛大にお許しください

聖ヨセフの模範と保護によりて、わたしたちが命じられたことを全うし、約束された報いを得ることができますように。


ラテン語規範版では一文であるが、構造上、ut節の前後で二つに分けることができる。この祈りでは、ut節は主節の動詞「~をお許しください」(concede)に直接係る従属節である。この文の構造を念頭に入れた上で、内容に入ってい行きたい。

第一の部分では、冒頭、神を「万物の創造主」(Conditor rerum)と呼びかける。qui節の主語は「万物の創造主」であり、神は私たちに「労働の掟」(legem laboris)を与えたと宣言する。すなわち、労働とはまず人類の義務であると宣言される。それは聖書にかく記されている。

神である主は人を取ってエデンの園に置き、そこを耕し、守るようにされた。(創世記2章15)



労働は人間の義務であるがゆえに、聖書は「働かざる者、食うべからず」と諭すのである。

第二の部分に移ろう。理解の鍵は、「命じられたこと」(quae praecipis)「約束された報い」(praemia quae promittis)の内容を聖ヨセフの事績をもとに理解することである。

聖ヨセフは義人であったが、あわれみの人であった。そして自分の力でなく、神を信じた人であった。マタイ福音書によれば、婚約者である聖マリアの妊娠を知った聖ヨセフはひそかに離縁しようとしたとある。律法に従えば、婚約者の姦通は石殺しに処することであった。つまり、聖ヨセフが律法に基づいて、聖マリアを処刑することは義にかなったことであった。しかし、聖ヨセフは怒りをあわれみに転換させ、ひそかに離縁と言う形で聖マリアをあわれみをかけようとした。それだけではない、夢で見た天使のお告げを通じて、神を信頼して、聖マリアと結婚することを決断したのである。

聖ヨセフは常にイエスを中心に生きられた。エジプトへの避難、そしてそこからの帰還が無事に行われたのは、何より聖ヨセフの主体的な関与抜きには実現できなかった。聖ヨセフは律法に従って、神を崇拝することを息子であるイエスに教えた。また自分で働く手段、大工の技術を教えられた。労働と聖性の関係は実を結び、イエスは「大工の息子」(マタイ13章55)と呼ばれるまでなった、と聖書は伝えている。かくして聖ヨセフはイエスとの関係において、永遠の名誉を得ることができたのである。

聖ヨセフの事績をみれば、「命じられたこと」とは、まず愛徳をもつことである。そして仕事をイエスキリストを通して、神のためにおこなうことである。そして「約束された報い」とは、イエスキリストを通した神との一致であり、究極的には永遠の命である。聖パウロは聖書でこのように語っている。

これらすべてのことの上に愛をまといなさい。愛は完全さをもたらす帯です(中略)言葉にしろ、行いにしろ、何かをする時には、主イエスを通して父である神に感謝しつつ、すべてを主イエスの名において行いなさい(中略)あなた方は報いとして、相続できる、約束されたものを主からいただけることを弁えなさい。あなた方は主キリストに仕えているのです。
(コロサイ3章14、17、24)



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2016/10/20

高山右近列福式の聖歌が決まる

列福式の聖歌が決まったとのこと。
ソースは列福式公式ゆるきゃら「う~こんどの」のfacebookページより。
聖歌隊参加者への聖歌郵送に合わせて、一般にも公開されたようだ。

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ラテン語聖歌、カトリック聖歌集の歌、典礼聖歌、外国語の聖歌。
選ばれた聖歌をみると、そのまま日本の教会の歴史をなぞるようだ。
列福者は今の時代の人のものではなく、あらゆる時代の人のものだ。
またラテン語嫌いが聖職者に多い日本の教会の事情を斟酌すると、
今回の選曲は合格点を出せると思うが、どうだろうか?

う~こんどの、関係者に感謝!
2011/09/24

列聖と不可謬権について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は列聖に関する質問で、2011年8月23日の記事から(原文はコチラ)。

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質問
 去る2月にヴァチカン宮殿で、グィド・マリア・コンフォルティやルイジ・グゥアネッラやボニファチア・ロドリゲス・デ・カストロのために行ったように、教皇が3人の福者の列聖調査に関する公開の通常枢機卿会議を開いている場合、福者を聖人とするという枢機卿会議での宣言は不可謬の宣言なのでしょうか?(米国ペンシルバニア州、ヴィラノヴァ、R.Jさん)

回答
 「否」又は、少なくとも「まだです」というのが、簡単な答えになります。理由は枢機卿会での決定はその性質が法的なものであって、神学的なものではないからです。

 公開の枢機卿会議とは特定の目的のために教皇によって召集される枢機卿の集まりです。他の人々、例えば司教座首席秘書、ローマ控訴院の監査人、他の高位聖職者も公開の枢機卿会議に出席しても構いません。その目的は一般的には新しい枢機卿を昇格するためか、又は、少なくとも技術的に、福者の列聖に関する枢機卿の意見を聞くためです。

 技術的にと私が書いたのは、一般的に枢機卿はすでに自らの意見を述べており、列聖は既に決定したことだからです。ですから、今日では枢機卿会議は皆で儀式的に賛意を示すある種の法的なフィクションになっています。枢機卿会議の終わりに教皇は枢機卿の意見を受け取り、列聖式の日取りを伝えます。

 枢機卿会議の法的な性質は福者ヨハネ・パウロ2世の教皇としての行為の一つから伺えます。2005年2月に教皇は自分が出席できなかった枢機卿会議に関して国務長官に手紙を送っています。

 「私は福者の列聖調査の最終判断のために今日、2月24日に公開の通常枢機卿会議を祝うために、ローマ在住の枢機卿、大司教及び司教を招集していました。体を気遣うために、テレビを通じて私の住まいからこの会議を見守るよう言われています。枢機卿殿、予定している会議を私の名前で終える権能を与えるので、この会議の議事運営をお願いします。

 それ故、世界中の枢機卿達から、ローマ在住の大司教及び司教から書き物ですでに示された好意的な意見に従い、以下の5名の福者の列聖式の日を2005年10月23日の日曜日に設定するつもりであることを伝えたい。その福者とは、福者ヨゼフ・ビルウィスキ司教、福者ガエタノ・カタノソ司祭(ヴェロニカ姉妹会、聖顔宣教会の創設者)、福者ジグムント・ゴラドフスキィ司祭(聖ヨゼフ姉妹会の創設者)、福者アルベルト・ヒュルタド・クルチャガ神父(イエズス会)及び福者ニコシアのフェリクス(俗名はフィリッポ・ジャコモ・アモロソ)(カプチン会の修道士)・・・

 公開の通常枢機卿会議の出席者と祈りのうちに一致し、枢機卿殿、私は全員に使徒的祝福を送りますので、六時課の典礼を行うようお願いします。」


 ご存知のように、聖体に関するシノドスの閉会のミサの中でこれらの福者を最終的に列聖したのが、ベネディクト16世でした。

 それ故、枢機卿会議が不可謬権の行使であることを示していないのは明らかです。まず教皇は一人の枢機卿に宣言することを付与しています。次に宣言は列聖式の日取りの発表であって、列聖自身ではありません。

 教皇自身がある人を聖人であると宣言する時にのみ不可謬権は行使されます。宣言はラテン語の式文で行われます。翻訳すると大意は以下の通りです。

「長期にわたる熟考、幾たびの神へのとりなしの祈り、ローマの兄弟たちの多くへの意見聴取の末、聖なる三位一体を記念し、カトリック信仰の称揚及びキリスト教的生命の増進のため、私たちの主イエズスキリストの権威、使徒聖ペトロ及びパウロ、並びに他の聖人の権威により、朕は福者某を聖人であると宣言し、彼(彼女)の名を聖人録に含め、全教会によって彼らが聖人たちの中で敬虔に祝われることとする。」

 上記の場合、ベネディクト16世はヨハネパウロ2世によって決められた日の列聖式の計画を進めました。少なくとも理論的には、ベネディクト16世は延期にしたり、前倒しにしたり、列聖式を中止にすることさえできました。そのような仮説的でありえないようなケースでは、列聖の手続きはすでに終わっているので、未来の教皇は列聖式のために別の日を設定できただろうと私は思います。しかし、実際の列聖式が終わるまで、福者は聖人の称号も典礼的な名誉も付与されることはできないのです。

 列福は教会の関与の度合いが同じであることを示していませんが、ベネディクト16世がヨハネパウロ2世によって既に決まっていた列福を無期延期したことは注目に値します。これは列福予定者に関する確かな新情報がその間に浮上したからで、ベネディクト16世は列福を進める前に白黒をはっきりさせる必要があると考えたからです。

以上

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(感想)
 日本ではあまり話題にならない列聖に関する質問であった。日本ではなぜか列聖の運動と言うのはあまり熱が入っていないような気がする。聖人は教会の精華であり、聖人に関心のない共同体はやはり霊的にも関心のない共同体だと私は思うのだが。

 数年前に長崎で江戸時代のキリシタンの列福式が盛大に執り行われたが、彼らの列聖運動については東京で暮らしていると全く伝わってこない。反原発や平和を求める何とかのチラシや署名簿は教会に余りある一方で、尊い日本の福者へのとりなしを求めるカードなんかは用意されていない。

 「Credo in Sanctorum Communionem(聖徒の交わりを信じる)」と日々宣言する日本のカトリック信徒が、この翻訳を読んで聖人への関心を持ってくれれば幸いである。