2018/07/14

年間第15主日ミサの集会祈願

7/15(日)は年間第15主日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。

年間第15主日の集会祈願は、特別形式ミサの「御復活後第三主日」の集会祈願をもとに、文言を若干修正してあらたに編集されたものである。もともと復活節に使用されていた祈りであることはこの日の集会祈願の意義を考えるうえで役に立つ。


ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Deus, qui errantibus, ut in viam possint redire, veritatis tuae lumen ostendis,

da cunctis qui christiana professione censentur, et illa respuere, quae huic inimica sunt nomini, et ea quae sunt apta sectari.
神よ、迷えるものに、(正義の)道に戻ることができるよう、真理の光をあなたは示してくださいます。

キリストへの告白で区別されるすべての人に、御名に背くことを退け、かつ、御名にふさわしいものを追い求める力をお与えください。
すべてを照らしてくださる神よ、あなたは、暗やみにさまよう人たちがまことの道に帰るように、真理の光を輝かせてくださいます。

洗礼を受けたすべての人が信仰に反することを退け、キリストに従って生きることができますように。


ラテン語規範版では一文であるが、動詞daの前後で分けることができる。前半は神に関する事実、後半が祈願という構造である。

前半部分の拙訳では、特別形式ミサの集会祈願では「viam iustitiae」とあるので、「viam」(道)に「正義の」という言葉を補った。道であり、真理であり、命であるイエス。彼を通して、私たちは御父である神のみもとに近寄れるのである(参照 ヨハネ福音書14章6)。

後半部分では、キリストに倣う者であるキリスト信者に対する祈願となっている。ここでのキーワードは「御名」である。私たちは「主の祈り」で、「御名の尊まれんことを」と祈るが、平気で御名を汚す罪を犯す。イエス・キリストは「主よ、主よ」と呼ぶものではなく、天におられる父なる神の御心を行う者が天国に至ると説かれた。父なる神の御心、つまり神を愛し、人を愛することができることがこの集会祈願の祈願内容といえるだろう。

最後に日本語公式訳を見てみよう。

前半部分は、「すべてを照らしてくださる」という余計な書き込みを除けば、ラテン語規範版に比較的忠実な翻訳である。後半は問題のある翻訳である。というのは、ラテン語規範版で御名に忠実であるために神の力が必要であると明示されているが、日本語公式訳ではその部分が忠実に翻訳されず、ただ「~できますように」と翻訳されているからである。「自力でできるけど、神様、見守ってね」という、何かへりくだりに欠ける印象をこの翻訳に覚えるのは私だけだろうか?

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2018/07/06

年間第14主日のミサの集会祈願

7/8(日)は年間第14主日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。

年間第14主日の集会祈願は、特別形式ミサの「御復活後第二主日」の集会祈願をもとに、文言を若干修正してあらたに編集されたものである。もともと復活節に使用されていた祈りであることはこの日の集会祈願の意義を考えるうえで役に立つ。


ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Deus, qui in Filii tui humilitate iacentem mundum erexisti,

fidelibus tuis sanctam concede laetitiam,

ut, quos eripuisti a servitute peccati, gaudiis facias perfrui sempiternisi.
神よ、あなたの御子のへりくだりによって、堕落した世界を立ち起こされました。

あなたの信者に聖なる喜びをお与えください。

その結果、あなたが罪への奉仕から救いだされた者に永遠の喜びを味わわせてくださいますように。
聖なる父よ、 あなたは、倒れていた世界を、キリストの死によって新しいいのちに立ち直らせてくださいました。



信じるものを罪の束縛から解放し、終わりのない喜びにあずからせてください。


ラテン語規範版では一文であるが、三つにわけることできる。すなわち、①Deusからerexistiまでは神に関する事実を述べ、②fidelibusからlaetitiamまでが神への祈願内容、③ut節以降は祈願内容を受けた結果節という構造になっている。

まず①の部分について、神に関する事実とは、①堕落した世界を神は立て直されたが、②それは神の御独子のへりくだりによってであったということである。神の御独子の謙遜の内容は、次の聖書の箇所を読むことで分かる。つまり、それは受肉に始まり、十字架上での死にいたるイエスキリストの生涯そのものである。

キリストは神の身でありながら、神としてのあり方に固執しようとはせず、かえって自分をむなしくして、僕の身となり、人間と同じようになられました。その姿はまさしく人間であり、死に至るまで、十字架の死に至るまで、へりくだって従う者となられました。
(フランシスコ会訳『フィリピの人日への手紙』2章6-8)



②の箇所では、父である神を信じる者が聖なる幸せの状態となることを願っている。そして、③の箇所では、そのような幸せな状態にある、父である神を信じる者=罪への奉仕から救い出された者は永遠の喜びを味わえるようになるとして、祈りを締めくくっている。

永遠の喜びとは究極的には死んだ後に神を直接見るまで得ることはかなわないのであるが、ミサにおいて、私たちは十字架の死と復活を記念することで、その永遠の喜びが待っていることを思い出す。ここで私たちは神の御子は2千年前に受肉と十字架上での死を通じてへりくだられたが、現在も聖体という形で徹底的にへりくだり、人間の罪によって堕落した世界を救済されているということに気付くのである。

最後に日本語公式訳を見てみよう。

まず「in Filii tui humilitate」を「キリストの死によって」と訳している点が気になる。キリストが己を卑しくされたのは、受肉から十字架の死に至るまでを指すのであり、キリストの死という点に絞って翻訳するのは不適切な翻訳に思える。

またfidelibus以下の箇所はラテン語規範版の文の構造を無視した翻訳となっている。

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2018/06/30

年間第13主日のミサの集会祈願

7/1(日)は年間第13主日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。


ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Deus, qui, per adoptionem gratiae, lucis nos esse filios voluisti,



praesta, quaesumus, ut errorum non involvamur tenebris, sed in splendore veritatis semper maneamus conspicui.
神よ、養子となる恵みによって、わたしたちが光の子であることをあなたは望まれました。

切に願います。誤りの暗闇に包まれるのではなく、私たちが真理の輝きの中で露わな状態を保つことをお許しください。
いつくしみ深い父よ、あなたはわたしたちを選び、 光の子としてくださいました。

わたしたちが罪のやみに迷うことなく、いつも真理の光のうちに歩むことができますように。


ラテン語規範版では一文であるが、前半は神に関する事実、後半は祈願という構造になっている。

前半部分で語られる事実とは、①神はイエスキリストとつながることで、わたしたちを養子とする恵みを与えてくださったこと、②その恵みによって、光の子であることを望まれたことである。光そのものであるキリストと同じような存在になるためには、洗礼を通して、神の養子となる恵みが必要であるともいえよう。洗礼式の際、復活のローソクからともされたローソクの火を新受洗者に渡すときの司祭のことば、「キリストの光をうけなさい」を思い出す方もいるだろう。

後半部分は前半の事実を受けた祈願となっているが、対比する語句が用いられているのが特徴的である。すなわち、errorum(誤謬)とveritatis(真理)、involamur(包まれる、隠される)とconspicui(露わになる、目立っている)、tenebris(闇)とsplendore(輝き)である。

わたしたちは神の恵みで養子として光の子となったあとも、真理の光であるキリストを離れては闇に包まれてしまう。なぜなら、悪は存在し私たちの堕落を望んでいること、また洗礼をうけて原罪がなくなっても、原罪による罪への傾きはまだ残っているからである。だからこそ、真理の光であるキリストにわたしたちがとどまり、かつそれによって露わになること(目立つこと)を切に祈願する必要がある。

キリスト信者が世の光として輝くためには、キリストが説いた真理を信じ公に証しすること、そして善行を行うことが必要である。善行は喜ぶが、キリストが説いた真理を必ずしも好むとは限らない。例えば、結婚は解消できないとキリストは説き、カトリック教会は別居した配偶者が生きている状況での再婚を認めていないが、この真理を何とかして隠してしまいたいという人々が非キリスト信者だけでなく、カトリック信者にさえいる。誘惑は多いが、キリストを信頼して光の子として歩みたいものである。

最後に日本語公式訳を見てみよう。

前半部分の問題点はラテン語規範版にある「per adoptionem gratiae」を、「わたしたちをえらび」と翻訳することで、意味を曖昧にしている点である。後半部分は「conspicui maneamus」を「歩むこと」と原文を無視して翻訳している点も残念である。

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