2014/02/09

大雪

 今日の東京の雪は本当にすごい。まるでスキー場のような雰囲気になっている。車も人も少なく、静かだ。

市ヶ谷見付からみるメグミルク(旧 雪印)の看板
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 そり遊びが都内でできるなんて夢のようだ。息子は吹雪が目に入って泣き顔

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 現代史なんかを齧っていると、2月の大雪の東京ときくと、226事件が頭に浮かぶ。明日は神田教会で無事にミサに与かれたら、帰りに九段会館の前で写真でも撮ろう。
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2013/08/07

In montem sanctum tuum

カトリック教会の暦では、8月6日は「主のご変容の祝日」にあたる。イエス・キリストが弟子たちに自らの受難を語った後、高い山に弟子のペトロとヤコブ、ヨハネだけを連れて登り、父なる神との強いつながりの中でもつ栄光を垣間見せたというできごとを祝う日である。

今年も8月6日が巡ってきたが、このご変容を伝えるマタイ福音書(マタイ17章1-7)にある「高い山」に注目したい。聖書では山は預言者と神が出会う場所とされている。イエス自身も度々山に一人で退かれ、そこで祈られていた。神が山に預言者を連れていく理由を、私の好きな作家、パウロ・コエーリョは『第五の山』の中でエリアの語る言葉として実に分かりやすく説明してれている。

高い所にいると、私たちにはすべてのものが小さく見えるからだ。私たちのつまらぬ見栄や悲しみは、その重要性を失ってしまう。私たちが征服したものもすべて、下に残っている。山の高みから見れば、世界がいかに大きいか、地平線がいかに広いか、わかるのだ。(山川絋矢、山川亜希子訳)

山つながりでいうと、特別形式のミサのいわゆる階段祈祷で有名な詩編42で、悲しみに打ちひしがれた詩編作者は神の光とその真理が自分を神の聖なる山に(in montem sanctum tuum)導いてくれることを歌っている。

ところで日本では8月6日は広島原爆忌として知られている。この日は人類の歴史の中で忘れられてはならないだろう。だが、毎年日本のカトリック教会でこの時期、「平和旬間」として反核・反戦の活動が行われているのを見聞きするにに、何か強い違和感をもってしまう。一方でカトリック教会の反核・反戦運動を「政教分離の原則に反する」「親左翼だ」「国家には自衛権がある」等といってネット上で気炎を上げているカトリック信者達にも共感できない。それらはあまりにも地上的すぎるのだ。神と出会いに山にのぼり、その山から見下ろした時、この原爆投下という歴史上の事実を見る視点が教会の言説には欠けているし、ネットの議論も同様に皮相的なのだ。

原爆が絶対悪であるなら、何故、全能の神はそれを許したのか?原爆が絶対悪であるということを後世の我々が悟るために、神は何十万人という人が悲惨の中に突き落とす必要があったのか?神の正義とは何なのか?原爆投下の神学的な意義に正面からとりくもうとする言説は実は日本のカトリック教会ではほとんど聞かない。大昔に自身も被ばく者であった永井博士が「原爆投下による悲劇は世界大戦という人類の悪を神に贖うためであった」と正面からこの問題に向き合ったきりだ。

とはいえ私は永井博士のこの回答が正解なのかは分からない。だが、原爆投下をキリスト教徒として取り組んだその勇敢な姿勢を日本のカトリック教会は聖職者だけでなく、信者も含めてもう一度見直す必要があるように思う。原爆という悲劇をなぜ神は許されたのか?それこそが日本のカトリック教会にとっての原爆忌、8月6日なのではないだろうか。
2013/08/04

「ルーブル美術館展」の感想

 招待券をもらったので、上野の東京都美術館に家族で行き、「ルーブル美術館展」を鑑賞する。展示全体を見通して感じたのは、一つの歴史観、つまり地中海世界はギリシャ・ローマ時代に一つの頂点に達し、後はひたすら下り坂で盛り返すことはなく、政治・経済・文化の面で停滞し、遂にはアルプスの北にある地域の下におかれるようになったというものだ。実際に1500年以降、西欧がその他の社会を支配していく大きな流れがあったことは事実であり、またルーブルが近代的な美術館として整備された19世紀後半はまさに西欧の優位が確立したときであったこと、そういったことを考えた時、ルーブルの地中海世界に関する所蔵品から受ける世界観が古代ギリシャ・ローマを崇拝し、東方や中世ヨーロッパを暗黒時代とし、近代西欧を古代ローマの復興とみなすものであっても不思議ではない。しかし、こうした世界観は、栄えるアジアと自信を失った西欧の時代に生きる私たちから見ると、何か憐れみすら感じてしまう。

 ともあれ所蔵品の一つ一つは日本では本物を見ることができないものばかりなので大変見応えが合った。特に古代オリエントの神々に関する遺物、祭壇、墓碑が自分にとっては意義深かった。バアル神への感謝を捧げる碑文を見て、旧約聖書で繰り返し出てくるバアル神とはこれかと感慨深かった。
2013/06/02

「貴婦人と一角獣」展の感想

 たまには宗教と直接関係ない記事を投稿する。「貴婦人と一角獣」展を観に乃木坂の新国立美術館に行く。会場を入ってすぐに6枚のタペストリーの陳列室となっていた。タペストリーの大きさにまず圧倒された。画集で見ていた時に自分の頭で描いていた大きさのイメージを大きく超えていたからだ。

 一枚一枚のタペストリーに近づく。手を伸ばせば触れるほどに近寄れる。タペストリーの意匠は極めて繊細にそして写実的に表現されている。特に背景一面に広がるミルフィーユの花々にそれを感じる。実に多彩で美しい。

 さて、この展覧会ではこのタペストリーを「中世の至宝」と名付けているが、私には余り中世らしさを感じない。例えば、このタペストリーには陰の部分がない。このタペストリーが制作されたのは1500年頃の北フランス又は南ネーデルランド。ホイジンガは15世紀について、生のあらゆる局面に「memnto mori」というテーマが響き渡った時代と、『中世の秋』で表現していたが、このタペストリーには「死」に代表されるような陰の部分を象徴的に示す意匠が欠けている。私の思う中世なら、この世の栄華と同時にその儚さも表現されてこそ中世らしい。

 また別な例をとれば、ラテン語の不在もこのタペストリーに中世らしからぬ印象を私に与える。6枚目のタペストリーに描かれた青地の天幕には「Mon seul desir」とフランス語でモットーが表記されている。ラテン語でなく、俗語のフランス語を用いている点に、私はむしろこのタペストリーが近代のもの、つまり分裂の時代、一つの欧州から国民国家に分裂した時代のもののように思えてならない。

 このタペストリー展をみて、タペストリーの素晴らしさを感じながらも、どこか寂しさを私が感じた理由は、このタペストリーが豊かな中世の文化の色彩を伝えながらも、しかし、その意匠に中世の終わりを感じさせる点が目についたことであった。


貴婦人と一角獣
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