2011/09/11

産後感謝式(Churching)について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は伝統的な祝福の儀式に関する質問で、2011年7月26日の記事から(原文はコチラ)。
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(質問)
 私の妻は、神の御旨により、まもなく最初の子供を産みます。かつては一般的であった「産後感謝式(churching)」として知られる儀式のことを考えています。これが廃れてしまった理由はこの儀式が妊娠と出産を「不浄」と見なす考えを表し、それ故に女性の尊厳を損ねているという捉え方のためなのだろうと思っています。儀式的な清めに関する現代の誤解全般に立ち入らずに、この敬虔な慣習を司牧的にずっとためになるものへと奨励することができたように思います。驚異的なこと、すなわち一人の新しいキリスト教徒を世に送り出したことですが、それを成し遂げた女性が、感謝を奉げ祝福を受けるために神の祭壇に近づく。これのどこが悪いのでしょうか?(宗教的実践から遠ざかっている人々にとって、これは教会と関係をもつ機会としても赤ん坊の洗礼後の教育の機会としても役に立つでしょう)私の見る限り、儀式の中で、それを行いたい主任司祭を禁じるものは何もありません。おそらく何かコメントをいただけるのでしょう?(アイルランド、ダブリン市、P.C.さん)

(回答)
 最初に私からのお祝い申し上げ、新しい生命の贈物のためにお祈りします。20世紀初頭のカトリック百科事典によると、産後感謝式とは以下のようなものです。

 (産後感謝式とは)出産から回復した母親に教会が与える祝福である。この祝福の対象者は、合法な婚姻関係において出産したカトリック信者の女性で、カトリック教会の外で子供が洗礼を施されることを許可しなかった場合である。教義ではないが、母親が家を離れることができるようになるとすぐ自分自身で教会に赴き、幸いなる贈物を神に感謝し、司祭の祝福によって子供をキリスト教的に育てるのに必要な恵みをえることは敬虔で称賛に値する慣習であり(ローマ儀式書)、初代教会の時代にまで遡るものである。式文によればこの祝福は母親の善益のためにのみ向けられているので、子供を連れてくる必要は必ずしもないが、多くの地域で、子供を神に特別にささげる敬虔で確立した習慣が広まっている。というのは、ちょうどキリストの母が御子を神殿で永遠なる御父に奉げるために連れて行ったように、キリスト教徒の母親は自らの子供を神に奉げ、子供のために母親に与えられる祝福を得ることを切に願っているからである。この祝福は、通常の形では、変更又は削除せずに、母親に与えることになっている。それはたとえ子供が死産の場合、または洗礼を受けずに子供が亡くなった場合でもある。

 産後感謝式は厳密には主任司祭の役割ではないが、礼部聖省は1893年11月21日付けで主任司祭がそれを求められた場合、そうしなければならず、別の司祭がこの儀式の執行を依頼された場合、教会や私設でない礼拝堂の上長に知らせれば、司祭はそこで儀式を行っても構わないということを決定した。この祝福は教会又はミサが行われる場所で与えなければならない。というのはど産後祝別式(Churching)という言葉自身が教会への感謝の巡礼を示すものであり、典礼規定が「教会に行きたいという気持ち」、「司祭は母親を教会に導く」、「母親は祭壇の前で跪く」という表現の中で示しているからである。それ故に、第二バルチモア総会はミサが行われていない場所での産後祝別式を禁じている(246項)。

 母親は玄関ホール又は教会の中で跪つき、火のついたロウソクを持ったまま、司祭を待ち受ける。司祭は白色の短衣と白色のストラを着用し、灌水器を使って聖水を十字に振りかける。詩篇23の「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住む者は主のもの」を唱えたのち、司祭は母親にストラの左の端を与え、母親を教会の中に導きながら、「神の神殿に汝は入り、汝に子の実りを賜れた幸いなる童貞マリアの御子を崇拝せよ」と言う。母親は祭壇の一つの前に進みいで、その前で跪く。その間に司祭は母親の方を向き、祝福の目的を表現する祈りを唱え、再び聖水を十字に振りかけ、「全能の神、父と子と聖霊からの平和と祝福が汝の上に降り、永遠にとどまらんことを。アーメン」と言って儀式を終える。


 儀式自身には儀式的な清めの要素は全くないのですが、ユダヤの習慣、特に聖母マリアの御清めと関連付ける地域もあります。これは義務的なものではなく、儀式が行われる時と場所によってこの慣習は地域ごとに様々です。

 この慣習がほとんど廃れた理由はいろいろあります。出産と穢れの長々とした関係よりむしろ、廃れたのは出産に伴う危険が現代社会では格段に減じたとうことのためであるだろうと思います。

 かつては出産後数時間以内、又は数日以内に新生児に洗礼が施されることも一般的でした。ですから母親たちはその洗礼にしばしば立ち会えなかったのです。この状況は今日かなり珍しいものとなっています。

 こうした新しい状況のため、改訂された幼児洗礼の儀式書では出産後の母親の祝福(望むなら産後感謝式)は洗礼式の終わりの儀に統合されています。父親の祝福も含まれているのは、子供をキリスト教徒として育てる責任から何人も除外されていないからです。

 祝福に関する儀式書にはまた「出産後の母親の祝福の儀式」があります。この祝福は洗礼式に参加できなかった母親にのみ授けられます。この儀式の導入では「洗礼式の中で母親と全出席者に新生児の恵みを神に感謝することを促した祝福から母親が善益を汲み取る機会を与えるために、特別な儀式をもつことは適っている」とあります。

 この祝福は必ずしも教会の中で行われておらず、司祭、助祭又は認可された信徒の奉仕者によって与えられても構いません。

以上
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(感想)
 今回「産後感謝式」と翻訳した「Churching」という祝福式を初めて知ったが、実によい習慣だと思う。今は子供の洗礼式の中で両親の祝福を行うようになっているが、分離して別に産後感謝式を行った方が、母親本人にとっていい機会になると思う。次に子供が生まれた場合は是非司祭に産後感謝式を頼んでみよう。ラテン語でやってくれるかな?
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2011/08/21

洗礼前の告解について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は告解に関する質問で、2011年3月22日の記事から(原文はコチラ)。
 なお、記事の中で引用した「病者の塗油の秘跡の執行者に関する覚え書き」は公式訳からの引用である。

質問
 教会で13歳の女の子が私のところに告解に来ました。これが最初の告解だというので、告解が何なのかを知っているか尋ねたところ、知らないというのです。それで洗礼は受けているのか尋ねると、彼女は「いいえ」と答えるので、私は彼女に洗礼を受けていないのだから当然、告解の秘跡を受けることはできないと伝えたのです。すると彼女は要理教室の先生が求道者として3ヶ月が経過して、復活祭に洗礼を受けるのだから、私の所に行けと言ったのだと言います。私は彼女に秘跡とは何かを説明しようと試みましたが、彼女が驚いたことには、まったくこうしたことは全く知らないというのです。彼女は去り、後で彼女は小教区の主任司祭のところに告解をするために行ったのだと分かりました。私はこのことについて後で主任司祭と会ったのですが、彼は実際に彼女に身受洗だけれども告解に行けと言ったことを認めました。彼の理屈はこうです。「復活祭の前に彼女の告解を聞いてあげる時間がなさそうなので、復活祭の後まで待ってもらうよりは今告解をすることの方が彼女にとってはよりましだと思ったからですよ」。私の司祭歴のほとんど40年間、このような奇妙な事態に直面したことがなかったものなので、こうした状況は私にとって新奇なものでした。これについて何か見解がおありですか?(カナダ、オンタリオ州、J.B.さん)

回答
 その主任司祭は和解の秘跡と洗礼の秘跡の本質について何か誤解しているように見えます。

 まず、洗礼の秘跡は他の秘跡に通じる扉となるもので、それ以前にはいかなる秘跡も有効に受けられることはできません。次に、洗礼の主たる効果の一つは秘跡を受ける前に犯した全ての罪を完全に赦し、拭い去ることです。

 これら両方の理由ゆえに、洗礼の前の告解は不可能かつ不必要であります。

 プロテスタントの教会で既に洗礼を受け、カトリック教会に受け入れられる予定のある人については別ケースです。この場合、正式に教会に受け入れられ、堅信を受ける前に告解をすることは勧められています。

 大人の求道者で色々な過去を持ち合わせている人が司祭と告解風の対話の中で良心の重荷を軽くすることによって、洗礼に向けた準備を望むことはまた可能です。司祭は司牧的な方法としてそのような対話を受け入れても構いませんが、それは和解の秘跡ではないこと、罪の赦しは対話に伴わないことを明確にすべきです。

 この質問に関して、関連する以前のテーマをとりあげたいです。以下の質問は、助祭が病者の塗油を行うことができない理由について書いた記事に寄せられたものです。(2011年2月15日の記事参照)。

 ある助祭からの質問です。「私には大人を洗礼する権能があります。この行為は罪を赦すものではないのですか?臨終の際、平信徒が洗礼を行う場合、この行為も罪を赦すものではないのですか?罪の赦しと司祭職とのつながりは排他的なものではないです」

 法の共通原則に「時を識別し、法と時を一致させよ」というのがあります。言いかえれば、各秘跡はそれ自身のコンテクストの中で取り上げなければならなく、ある秘跡について正しいことは必ずしも他の秘跡について正しいとは限らないということです。

 それ故、上で見てきたように、洗礼の効果の一つが罪の完全な赦しでありますが、これは秘蹟自身によるのであって、執行者によるものではありません。助祭と司祭はこの秘跡の通常の執行者ですが、緊急の場合は平信徒でさえ有効に洗礼を授けることができます。洗礼において執行者が罪を赦すのではありません。執行者は洗礼を授け、秘蹟自身が罪を赦す効果をもっているのです。

 しかし、洗礼後の大罪について、罪のゆるしを与える通常の唯一の執行者は司祭です。小罪は祈り、償い、犠牲、その他キリスト的愛徳の業によっても赦されます。そのうえ、深刻な必要性がある場合で、司祭が見つけられない場合、神自身が完全に悔悛した人の大罪をお赦しになるだろうとすることは正しいことです。これは赦しをもたらす通常の流れが司祭の行為を通してくるという基本を変更しません。

 病者の塗油の効果の一つが洗礼後の告解をしていないあらゆる罪の赦しであるので、この秘跡の有効な執行者は司祭のみということになります。

 この教義は2005年2月11日に教理省からヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿の署名のある「病者の塗油の秘跡の執行者に関する覚え書き」で確認されました。覚え書きにはこう書いてあります。

「教会法第1003条第1項(東方教会法第739条第1項参照)は、トリエント公会議(第14総会第4条:DS 1719。『カトリック教会のカテキズム』1516も参照)が表明した、司祭(司教および司祭)だけが病者の秘跡の執行者であるという教義を正確に繰り返して述べている。」

「この教義は「確定的なものとして保持すべき」(definitive tenenda)である。それゆえ、助祭も信徒もこの奉仕職を行うことはできないし、また、助祭や信徒がそのような行為を行うことは秘跡の偽装となる。」

 この覚え書きに添付された書簡では付言にある神学的な論理を説明し、幾つかの点について詳らかにしています。

「最近の数十年間、病者の塗油の秘跡の執行者は「すべての司祭、かつ司祭のみである」(est omnis et solus sacerdos)という教義を疑問視する神学的主張が現れてきた。この問題は通常、司牧上の実践の観点から論じられる。すなわち、とくに、世界の中で、司祭の不足によりこの秘跡を適時に執行することがむずかしい地域について考察する場合である。そこで、終身助祭や、権限を与えられた信徒にまでも、この秘跡の執行者となることを認めれば、この問題が解決できるという提案がなされる。」

「教皇庁教理省のこの覚え書きは、こうした主張に対して注意を喚起することを意図している。それは、こうした主張が実行に移されて、信仰を損ない、また、まさに助けが与えられることを必要とする人々である病者に対して、重大な霊的害を与えることがないようにするためである。」

 この教義を歴史的に概観したのち、文書はこう締めくくっています。

「病者の塗油の秘跡の執行者は「すべての司祭、かつ司祭のみである」という教義は、この教義を「確定的なものとして保持すべき」教義として位置づけるべきであるほどに、神学的に確実なものである。もし助祭あるいは信徒がこの秘跡を執行しようと試みるならば、病者の塗油の秘跡は無効となる。また、そうした行為は、秘跡の執行における偽装という、教会法第1379条(東方教会法第1443条参照)に従って処罰しうる、教会法的犯罪を構成する。」

「結論として、司祭は、与えられた秘跡の力によって、教会の頭であるわれらの主イエス・キリストを、まったく特別なしかたで現存させるということを思い起こすことが適切である。」

「諸秘跡を執行するとき、司祭は「頭であるキリストの代わりに」また「教会に代わって」行為する。病者の塗油の秘跡において、働いておられるのはイエス・キリストである。司祭は、その生きた、目に見える道具である。司祭はキリストを再現するとともに、またキリストを特別なしかたで現存させる。だから、この秘跡は、準秘跡と異なる、特別な尊厳と効果を有するようになる。こうして、病者の塗油の秘跡に関する、霊感を受けた神のことばが述べている通り、『主がその人を起き上がらせてくださいます』(ヤコブ5・14)。」

「司祭はまた「教会の代わりに」行為する。「教会の長老」(ヤコブ5・14)の祈りは、全教会の祈りを含むものである。聖トマス・アクィナスがこう書いているとおりである。「かの祈りは、司祭が自らの人格をもって行うものではなく、・・・・全教会に代わって行われるものである」(『神学大全』補遺第31問第1項第1異論解答****)。そのような祈りが聞き入れられるのである。」

以上

(感想)
 司牧的必要性という言葉のもと、どれほど伝統、教え、典礼が傷つけられたことであろう。記事で取り上げられたような事態(洗礼の前に告解を聞く)はさすがに日本でも珍しいと思うが、注意は必要である。
 
 記事の後半で引用された教理省の覚え書きで注意を受けている神学的傾向、つまり司祭不足という事態に際して、「司牧的必要性」から終身助祭や平信徒が司祭のようにふるまうことを是認する傾向、は日本にも確実に存在する。いや既に現れているのであろう。東京にいると気付きにくいのだが。

 私が平信徒としてすべきことは、まず正統な教えは何かを把握し、理解すること、そしてそれを周りに広めることだと思う。常に祈りのうちに行う。悲しいことに司祭が言うことが必ずしも正しい時代ではないのだ。今回の記事の翻訳が参考になれば幸いである。

 
2011/08/13

ミサの間の告解について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は2008年6月3日の記事から(原文はコチラ)。

質問
 ミサの間に告解を聴くことについての一般的見解を教えてくださいますか?(スウェーデン、マルメ市、M.G.さん)

回答
 これは司祭の間でしばしば激論がかわされる問題です。この習慣を批判する司祭は信者の注意をミサ自身から容易にそらせてしまうからだと言い、他方で信者が大人数出席しており、行きやすいからという理由で告解に行くので、秘跡を与える素晴らしい機会としてこの習慣を熱心に擁護する司祭もいます。

 文化的要素もまた関係します。アイルランド系、アングロ・サクソン系、北ヨーロッパの文化圏から来た司祭や信者は全般的に2つの秘跡を分けることに慣れています。一般的にこの司祭たちはミサの間に告解を行えるようにすることに後ろ向きです。

 この習慣はイタリア系、ラテン系、ポーランド系の共同体では、普遍的ではないのですが、より一般的です。そして多くの信者が、告解は別の時間に行われるのですが、ミサの間に告解に行きます。

 規則の観点から必ずしも禁じられていません。2001年に聖座はこの問題に関して、典礼秘跡省の広報誌『ノティティエ』の6~7月号に書簡の形で公式の回答を与えています。

 回答の中で典礼秘跡省はミサと別に悔悛の秘跡を行うことが望ましいと述べる一方で、「悔悛の秘跡は一日の間いつでも授けてよい(Reconciliatio penitentium omni tempore ac die celbrari potest)(悔悛の秘跡書 13項)」という教会法の規定から、ミサの間に告解を聴くことを特別に許しています。また大人数の信者が参列するミサの間では、告解にあずかれるようにするため、共同司式をすることを控える司祭もいるように勧めています。

 この回答から、次のように言うことができます。信者が感謝の祭儀を完全に与ることができるよう、告解とミサ聖祭は別の時間に分けて行うほうがよいことが明確になっています。このことは信者が行くことができる時間に告解の時間を設定することをほのめかしています。

 ミサの間の告解は具体的な司牧上の必要性に対応すべきです。例えば、その必要性とは、普段の悔悛者の数が定期的な告解の時間で対応できない場合、一人の司祭が複数の小教区に出席しなければならない場合、その他司牧的に望ましくさせるような状況を指します。

 明確にするためミサの間の告解ということで、私が意味するものは一人ないし数人の司祭が告解を聴く一方で、別の司祭がミサを行うことを指しています。

 明らかなように思えますが、私は司祭が朗読の間に司祭の席で告解を聴いているのを目撃したことがあります。このような習慣は司牧的な熱情からのようにも見えますが、場違いであると私は思います。

 司祭は会衆に無関係であるかのように振る舞うべきではありません。司祭は祈りの中で叙階の恩恵によるだけでなく、自らの模範を示すこと、この場合、司祭自身にも直接向けられている神の御言葉を注意深く聴くという模範によって、会衆を先導します。

 司祭自身が朗読に注意を払っていないならば、会衆が朗読に注意を払うことを期待することは難しいでしょう。

 同じように、和解の秘跡とミサ聖祭は合わさって単一の儀式を形成することは決して許されていないことを記憶にとどめるべきでしょう。

以上

(感想)
 告解について調べ物をすることがあったので、告解に関する過去の記事を翻訳した。告解にも様々な濫用があるようなので、典礼学者のマクナマラ神父の考えを紹介していきたいと思う。

 ミサの間の告解は、日本では「共同告解」という名前で、待降節や四旬節に提供されることが多い。私はこの共同告解の習慣が嫌いだ。日本では司祭の数が少ないため、告解を聞くためにミサが説教の後、1時間近く中断するからだ。告解を手軽にする必要は理解できるが、定期的な告解の時間を土曜日に設けるとかして対応してもらいたいものだ。
2011/04/18

年に1回の告解の必要性

カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUP。今回は2010年2月16日の記事から(原文はコチラ

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質問

司祭の多くが、教会の第二の掟(「少なくとも一年に一度罪を告白すること」『カトリック教会のカテキズム』2042番参照)にあるように、信者に年に少なくとも1回の告解を勧めています。

 しかし、ある司祭は教会法989条で「分別のつく年齢に達したすべての信者は、重大な罪を少なくとも1年に1回忠実に告白する義務を有する」とあるように、もし大罪がないなら、これは必要ではないというのを聞きました。理屈でいえば、この判断がもたらすものは最初の告解(初聖体の前の)の後、もし大罪がないなら、この秘跡を受ける必要はもうないということになります。

 実際、大罪を犯していないので、何年もこの秘跡を受けていない信者もいます。カトリック教会のカテキズム1457番は上述の教会法、「すべての信者は、分別の年齢に至った後は、重大な罪を少なくとも1年に1回忠実に告白する義務を有する」に言及しています。ここでは、告解は大罪にのみ義務的であると指摘しています。

ご存知のように、教会法989条は法的義務のものですが、カトリック教会のカテキズム2041番では教会の5つの掟も義務的な性格をもつことが指摘されています。教会法989条の法的義務と、教会の第二の掟の司牧的義務を区別するなら、矛盾はないと私は解釈しています。定期的で頻繁な告解を促すことを全く支持しているのですが、厳密に言うと、大罪がある場合にのみ、教会の第二の掟は義務的な性格をもつのでしょうか?(香港、G.M.さん)

回答

 この難問は文脈を見ることで解決できると思います。まず最初に教会法989条は前条の988条を直接受けているものです。

988条1項
 キリスト教徒の成員は洗礼後に犯し、教会の権能によって直接免じられておらず、かつ懸命な良心の究明の後、個別告解の場で認めていない全ての大罪を、種類と数において告白する義務を有する。
2項 
キリスト教徒は小罪もまた告白することを勧められている。


 そういうわけで、教会法989条は988条1項にある義務を果たすための最長期間は1年であるということを示しています。この理由のため、年に1回告白するという教会法989条の告解に関する厳格な義務は大罪に関するものであると考える教会法の専門家たちもいます。ある人がいかなる大罪も犯していないと想定した場合、この教会法は適用されないということになるでしょう。

 この観点から見ると、カトリック教会のカテキズム1457項が教会法989条を引用しているのは、聖体拝領前に大罪を告白する必要性を取扱っているからです。

 カトリック教会のカテキズム2042項では、脚注で教会法989条に言及していますが、「人間の召命、霊における生活」というタイトルでこの問題を取り扱っています。質問者が指摘されたように、カテキズムでは教会の第二の掟を守ることは、霊的成長にとって最低限要求されていることとしています。

 このため、教会の第二の掟は大罪に言及せず、大罪があろうとなかろうと、義務を課しているのです。そうすることで、年に1回の告解は「回心のわざと洗礼によるゆるしのわざとを継続させるゆるしの秘跡を受けることによって、エウカリスチアへの備えをさせてくます」とカテキズム2042項では述べられています。ここで、ゆるしの秘跡(告解)は大罪を免じるための義務的な手段ではなく、霊的成長のための一般的で、必要でさえある手段の一つとして捉えられています。

 カトリック教会のカテキズム要約もまた大罪のための必要性について触れていません。だから、同432.2項ではこの教会の掟を「罪を告白するために、最低年に1回はゆるしの秘跡を受けるもの」としています。

 かくして、カテキズム及びカテキズム要約は教会法理論という高みの世界から、キリスト教徒の生活という現実に降りてくるのです。

 年に1回という教会法の義務は大罪がある場合にのみ、義務を課すという考えは髪の上では良くても、多くの霊魂の導き手の経験によれば、1年またはそれ以上の期間にいかなる大罪も犯さないというのはめったにないことです。

 事実、何年もの間を通して大罪を避けられているというのは、定期的に頻繁に告解を行い、良心と神への愛に対する敏感さにおいて成長するために、ゆるしの秘跡を利用する霊魂にほとんど常に起きているものです。そのような霊魂はまた霊的成長のための他の手段、例えば、定期的な祈り、頻繁な聖体拝領、愛徳のわざを行う傾向があります。

 義務は年齢、障害、その他のよい理由で義務を果たすことのできない人には課されないということも思い出しておく必要があります。

 おそらく、問題は大罪という観念が薄まっているので、もはやそれが気づかれないということから生じているのでしょう。たまに罪は第六戒(訳注、「姦淫してはならない」)の違反にだけ限定されています。しかし、私たち司牧者は信者、そして自分たち自身にも、死にいたる罪は7つあること(高慢、物欲、色欲、憤怒、貪食、妬み、怠惰)、それぞれがそれぞれの方法で魂に毒を盛ることを思い出させる必要があります。

以上

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(感想)

 告解という秘跡が半ば義務的に頻繁に与えられていた時代は終わったとしても、キリスト信者が罪が昔と比べて犯さなくなったというわけではあるまい。言葉に出して自分の罪をいうことは何より自分の無力さを自覚させてくれる。ほぼ無条件に与えられる赦しほど、神の愛を感じられる瞬間はない。月1回受けている告解をこれからも続けていくことができますように!

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