2008/02/27

四旬節 6(2008年)


(十字架の道行き 第六留 レオン大聖堂 ニカラグア)

 
十字架の道行 第六留 「イエズス御顔を布に写させ給う」

 主はなお歩み行き給うほどに、御体も御顔もあけの血に染み給えども人々は少しもあわれまず、ますます荒立ち騒ぎたり。この時ヴェロニカという女群衆のうちより走り出で、主に布を献げければ、主は御みずから御顔を拭い、尊き御面影をその布に写して返し授け給えり。

 主イエズス・キリスト、われらの霊魂に聖寵を添え給え。十字架の苦難によりてわれらに御功徳を移し給え。われら弱き者なれども、ヴェロニカにならい、世のあざけりを顧みず、専ら主を崇め奉るを得んことを、ひたすら願い奉る。アーメン。

(カトリック中央協議会編『公教会祈祷文』(昭和43年)より引用)

 周囲に流されず、自ら正しいと思う信念を貫き通すことは美しいが、難しい。
「和をもって尊し」とする日本の風土ではなおさら難しい。
世間よりも天主をいつも大事にすることが出来ますように!

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2008/02/22

四旬節 5(2008年)



(十字架の道行き 第五留 レオン大聖堂 ニカラグア)

 
十字架の道行 第五留 「イエズス、シレネのシモンの助力を受け給う」


 主はかく歩み行き給うほどに、御気力次第に衰えてすでに危うく見え給えり。されど来りて助けまいらする者もなく、かえってさまざまにののしりたたきたりければ、今ははや堪え難くして沈み入り給わんとす。人々は折しもそこに来合わせたるシレネのシモンに、強いて十字架を助け担わせ、なおも主を駆りて歩ませ奉れり。

 主イエズス・キリスト、主の十字架を担いて、力弱り給いしは、これ全くわれらの罪の重きが故なり。われらこそシモンに代りて十字架を担うべき者なれば、今より一切の苦難を、主の十字架の分としてわれらに受けしめ給わんことを、ひたすら願い奉る。アーメン

(カトリック中央協議会編『公教会祈祷文』(昭和43年)より引用)

 祈りにあるシレネ(Cyrene)、より一般的な言い方ではキレネは現在の北アフリカのリビアにある地方を指す。敬虔なユダヤ人として過ぎ越し祭りに参加するためにはるばるアフリカからエルサレムへと巡礼に来たのであろう。このシモンの前にイエズスは何の前触れもなく現れた。しかも血まみれで十字架を担わされた罪人の姿で。喜んで十字架を担いだわけでは当然ない。

 教会の伝統によると、このキレネのシモンは後に最初のキリスト教徒になったという。苦しむ救い主を助けたということで、彼はどれだけ多くの信者からもてはやされたことであろう!しかし、イエズスを助けたとき、キレネのシモンに神の子を助けたという意識はあったのだろうか?

 イエズスはいつも栄光をおびて私の前に現れるわけではない。むしろキレネのシモンの前に現れたような姿でご自分を示されるのであろう。「世の小さきもの」にキリストを見出し、キレネのシモンがキリストを手助けしたように、私も彼らを手助けできるように。信仰の目をお与えください。

2008/02/20

四旬節 4(2008年)



(十字架の道行き 第四留 レオン大聖堂 ニカラグア)

 
十字架の道行 第四留 「イエズス聖母にあい給う」

 聖母マリアは御子が死罪の宣告を受け給いしを聞き、急ぎ行き給うほどに、途(みち)にてあい給えり。あわれ天使の御告げありし昔に似るべくもあらず、あけの血に染み目も当てられぬ主の御姿を見て深く悲しみ給えども是非なし。御子の御苦難に御みずからの悲しみを添えて、われらのために御父天主に献(ささ)げ給う。

 主イエズス・キリスト、聖母マリアの御心を悲しませまいらせしは、一に罪人なるわれらなり。主は限りなく慈悲深くましませば、幸いにわれらの罪を赦し給え。また主と御母との御心を慰め奉るために、われらに力を尽くさしめ給わんことを、ひたすら願い奉る。アーメン

(カトリック中央協議会編『公教会祈祷文』(昭和43年)より引用)

 聖母の悲しみを示すために、胸に剣の刺さった聖母を描く習慣がカトリック教会にある。これは老シメオンの予言を踏まえたものでもある(ルカ 2章35)。母の子を思う気持ちを目の当たりにして、どんなに心の鈍い者も胸を動かさざるを得ない。

 主よ、罪の許しだけでなく、イエズスと共に人類の贖罪の業に参与できる機会をお与えください。それが私の罪の償いとなりますように!
2008/02/16

四旬節?(2008年)



(十字架の道行き 第二留 レオン大聖堂 ニカラグア)

 
十字架の道行 第三留 「イエズス始めて倒れ給う」

 主はすでにむち打たれ、いばらの冠に刺貫かれ給えるほどに、傷あとただれ破れ、あけの血に染みて歩み給いければ、衰弱のあまり足下よろめき、ついに十字架の重きに堪えずして、傾きかがみ、やがて大地に倒れ給う。

 主イエズス・キリスト、主を倒しまいらせしは一にわれらなり。われら罪に陥りたるによりて、主はかかる苦難を受け給うなれば、われら深くこれを悲しみ奉る。この御苦難の功力によりて、われらを罪より救い給わんことを、ひたすら願い奉る。アーメン

(カトリック中央協議会編『公教会祈祷文』(昭和43年)より引用)

 受難にあうイエズス・キリストに天主の人類に対する愛を認めること、これはキリスト教徒とその他の人々とを分けるものだと思う。私もある瞬間までキリストの受難には興味がなかった。むしろ、それは福音書で語られている雄弁で権威を持ったイエズスの姿を否定するようなもので、否定したいぐらいのものだった。

 この瞬間がいつ来たのか、よく覚えていない。
ある時からこの十字架に倒れるキリストに愛の深さを感じ取ることが出来たのだ。
この愛は親が子供のために払っている苦労を子供が始めて知ってしまった時に親に感じる気持ちと似ているような気がする。
多くの人がこの天主の愛に気付いて欲しいと思う。
2008/02/13

四旬節?(2008年)



(十字架の道行き 第二留 レオン大聖堂 ニカラグア)

 
十字架の道行 第二留 「イエズス十字架を担い給う」

 人々は主を外に引き出だし、荒木もて作れる十字架をかしこくも主の肩に打ち掛くるや、主は御身の傷をもいとい給わず、すこしも拒み給う御気色なく、引き寄せてこれを担い、柔和にして、勘忍深き御姿にてかれらの後より歩ませ給う。

 主イエズス・キリスト、主は十字架を担い給うべきにあらず。罪人なるわれらこそ、十字架を担うべき者にはあるなれ。さればわれらは主の御旨によりて、罪を償うがために、この世の苦難を受くべき者なれば、主を鑑として、柔和勘忍をもってこれに耐えしめ給わんことを、ひたすら願い奉る。アーメン

(カトリック中央協議会編『公教会祈祷文』(昭和43年)より引用)

 ちょっとしたことにも愚痴をこぼす自分が恥ずかしい・・・
自分が背負う十字架を消極的で運命論的な意味でなく、キリストのように自由に積極的なものとして受け入れることができますように。

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