2011/03/27

ウナ・ヴォーチェ(Una Voce)のご紹介

カトリック教会のミサの特別形式(いわゆるトリエントミサ)を普及する団体として有名なウナ・ヴォーチェ。この度、その日本支部にあたるウナ・ヴォーチェ・ジャパンからリンクの許可をいただいた。

このような団体をしっかり支援して、日本のカトリック教会でトリエントミサが定期的にささげられるようにしていきたい。
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2011/03/26

紙製のプリフィカトリウムは問題ない?

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUP。今回は2010年1月26日の記事から(原文はコチラ

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質問

 私たちの主任司祭はリネン製のプリフィカトリウムの代わりに「高品質の」紙タオルを使っています。これによって、共同体の一部に強い困惑を生じています。おそらく紙タオルは週に一度燃やされているようです。この点について、主任司祭はこの慣習を変えたくないようです(主任司祭と典礼担当の司祭が交渉中)。この慣習は合法でしょうか?少なくとも、主を侮辱しているように見えますし、最悪の場合、聖体の価値に間違っているだけでなく、正確でないメッセージを与えるように思えます。(米国ニューヨーク州、T.A.さん)

回答

 ローマミサ典礼書総則には祭壇リンネル(訳注:祭壇周りで用いるリネン製の祭具一般をさす言葉)の材質について詳細な指針がありませんが、348項に一般原則を示しています。
 
 348 特定の素材を指定されている祭器及び祭服とは別に、他の備品類で厳格に典礼での使用を予定しているもの、又は他の目的のために教会に受け入れられているものについてはそれぞれの用途にふさわしく適したものであるべきである。 

 少なくともいえるのは、紙タオルは主の御体に触る用途に「ふさわしく適したもの」か、紙タオルを教会の典礼に従って祝別できるものなのか、議論の余地のあるところです。

 指針『贖いの秘跡』(訳注、2004年に典礼秘蹟聖省から発出)の57項及び120項にこのテーマについて詳細に言及している個所があります。

 57 特に主日の礼拝において(中略)規定に従って、威厳があり清潔な祭壇、祭服および祭壇リンネルが常に備わっていることはキリスト信者の共同体の権利である。
 
 120 祭壇に用いられる祭壇リンネル、特に御聖体・御血を受け取るものは常に清潔に保たれ、伝統的な方法で洗濯されるよう主任司祭は注意を払うべきです。伝統的な洗濯方法として、手づから下洗いした水を教会のサクラリウム(訳注:香部屋等に備えられている専用の流し台のこと)または適切な場所の地面に注ぐことは賞賛すべきことである。下洗い後のの洗浄は通常の方法で行うことができる。


 この指針では祭壇リンネルは適切な布で作られていることを明確に想定しています。また御聖体・御血に触れるもの全てに払われなければならない尊敬と注意を示しています。

 先ほどの文書ほど法的権威のないものですが、米国司教協議会の文書に、このテーマについて公式の文書類を非常に簡潔にまとめたものがあります。簡潔で使い勝手がいいので、全文を引用する価値があります。

 近年、典礼局は祭壇リンネルの管理・洗浄について複数の照会を受けているところである。以下の文書は2001年3月19日の典礼委員会で採択されたものであるが、祭壇リンネルを管理する人々に情報を与えるものである。

 典礼のために用いられるものは何であれ、それらが受ける祝別ゆえに、かつそれらが果たす用途ゆえに、ある聖的な性質を帯びる。であるから、感謝の祭儀の中で祭壇で使用する祭壇リンネルは聖なる神秘の準備と執行に使用されるのだから、注意深く敬意をもって取扱われるべきである。
 
 この簡潔な声明は典礼で用いられるがゆえに特別の尊敬を受けるに値する祭壇リンネルを尊敬を持って取扱うことが重要であることを反映している。これらの祭壇リンネルは派手でけばけばしいことは避けなければならないが、とはいえ美しく上質のもので作らるべきである。祭壇布、コルポラーレ、ブリフィカトリウム、マヌテルギウム及びパラは決して紙でなく、吸収性のある布で作られるべきである。

 祭壇リンネルは典礼に使用する聖具の祝別儀式書に従って、適切に祝別される。そのような聖具を多く祝別することはミサの中で、または信徒が参加しても構わない、独立した祝別式の中で執行されてもよい。

祭壇布について

 祭壇がキリストの生きた石であるように、祭壇布は主の記念と御体をお与えになる祝宴を祝うことを畏れ敬いながら、ちょうど祭服が司祭や奉仕者を荘厳に飾り立てるのと同じように、祭壇の尊厳さを増し加えるに美と形式によって使用される。とはいえ、そのような祭壇布は実用的な役目ももち、御血や他の聖なる要素からこぼれたものは何であれ吸収できなければならない。だから、祭壇布の材質は吸収性があり、容易に綺麗にできるものでなければならない。

 襞をとったもの又はフロンターレの形をとっている祭壇布もあるが、その形、サイズ、装飾は祭壇の様式に合わせるべきである。もし祭壇布が御血でしみができていないなら、サクラリウムでそれを洗う必要はない。しかしながら、注意を払い、祭壇布の美しさを保つために適切な洗浄法が用いられるべきである。祭具類や祭服、その他典礼で用いる備品を管理するの係の者が祈りを添えて仕事を行うことが適当である。

コルポラーレについて
 聖体や御血をいれた聖具は常にコルポラーレの上に置かねばならない。コルポラーレは助祭又は他の奉仕者によって、奉納と祭壇の準備の中で、広げられる。共同司式者が祭壇から聖体を拝領する場合、コルポラーレは全てのカリス及びパテナの下に置かれる。最後に、コルポラーレは脇机の上に、ミサの後に清めるために置かれている祭具類の下に置くことが望ましい。

コルポラーレの役割の一つは聖変化したホスチアのどんな小さなかけらをも受け止めることなのだから、祭具の間で聖変化したホスチアを必ず、コルポラーレの上で行うよう注意を払うべきである。コルポラーレは白色で、少なくとも主となるカリス及びパテナがその上に完全に置くことができるだけの十分な大きさをそなえるべきである。必要であるなら、一枚以上のコルポラーレを用いてもよい。コルポラーレの材質は吸収性があり、容易に洗うことができるものであるべきである。

聖体拝領が終わった後、コルポラーレの上に残った聖体のどんな小さなかけらもカリスの洗浄の過程で消化されるべきである。

 コルポラーレを洗う場合、まずサクラリウムで下洗いし、その後始めて洗濯石鹸で通常の方法で洗うべきである。感謝の祭儀の終わりに残っているどんな小さなご聖体の欠片をも包むことに役立つよう、折り目をハッキリつけて、コルポラーレはアイロンがけすべきである。

プリフィカトリウムについて

 プリフィカトリウムは通常、カリスとともに祭壇に運ばれ、カリスの口から御血を拭きとることやカリス類をきれいにするために使用される。その色は白であるべきである。御血がカリスから拝領され、付属の容器に注がれ、時にこぼれた時はいつでも、プリフィカトリウムはこぼれた御血を吸収するのに使用すべきである。その材質は吸収性があり、容易に洗濯できるものであるべきである。その材質は決して、紙や他の使い捨てることができる素材であってはならない。

 このような役割のため、プリフィカトリウムは常に御血で染みがつく。だから、まずサクラリウムで下洗いし、その後始めて洗濯石鹸で通常の方法で洗うべきである。プリフィカトリウムはカリスの口を拭うために使用しやすいようにアイロンがけすべきである。

マヌテルギウムについて

 ミサの規定によれば、奉納と祭壇の準備の間に司式司祭は手を洗うことになっている。この時に洗うのは(旧ミサのように)指だけでなく、手全体を洗うので、マヌテルギウムは十分に大きく、手を乾かすのに十分な吸水性があるべきである。手拭き布の色や材質は共に指示されていないが、「皿拭き布」、「バスタオル」又は純粋に世俗的に用いられる他の布の外見をさけるように努力を払うべきである。

その他の布類について

 その他の布類もミサで用いられても構わない。御血に虫やその他の異物が入らないようにミサでカリスを覆うためにパラを用いても構わない。パラを染み一つなくきれいに保つために、パラはきちんとした材質でできた着脱可能なカバーで出来ていなければならない。そうすればサクラリウムで容易に下洗いができ、洗濯できる。その日の典礼色又は白色のカリスベールはカリスが準備される前及びカリスが洗浄された後にカリスを覆うために適切に用いても構わない。

擦り切れたリネン類の処分について

 典礼で用いられるために祝別されたものを処分するときと同じく、擦り切れた兆候が見られ、もはや使用することができないリネン類は埋めるか、又は燃やすことで普通は処分されるべきである。

結語

 私たちが聖なるもの(たとえカリス、パテナ、典礼で用いる備品といったものほど重要がないものでも)を取扱う作法は神が感謝の祭儀の度に自らの教会に賜う恩寵に対して私たちが心を開いていることを養い表現するものである。だから、祭壇リンネルを懇切丁寧に扱うことで、教会はキリストの祭壇から受ける価の付けられない贈物への喜びを表すのである。


 この記事が示している通り、たとえその品質がどうであれ、祭壇で用いるために紙製のタオルを用いることで主任司祭は誤りを犯しています。もし主任司祭が説得を拒むようであれば、本件は司教にあげる必要があるかもしれません。

以上

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(感想)
 侍者や香部屋係を担当すると、必ずこの祭壇リンネルの扱いに最初戸惑うものだ。私がかついていた東京・瀬田カトリック教会はフランシスコ会の修道院・神学校が併設されていることもあってか、この祭壇リンネルの管理が極めて厳格で、取り扱いを間違って怒られたことを思い出した。

 祭壇リンネルの扱いが細かすぎるというきらいもあるが、それは全て、御聖体・御血に対する尊敬と謙遜を適切に表すためのものと思えば理屈はつく。人は体と魂をもったものだから、ただ気持ちの上で尊敬していれば、約束事を無視して取扱っても構わないというのは暴論だろう。
2011/03/21

感謝の祭儀が短すぎる?

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUP。今回は2010年7月6日の記事から(原文はここをクリック)。

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質問

 十分に奉献文の意義深さを理解できなかった幼い時でさえ、奉献文が読まれる間はとりわけ聖なる時だから、跪き、注意をそらさず、司祭と祭壇に集中するようにと教わったものです。何十年も経って、奉献文が読まれる時の荘厳さや神聖さが無くなってしまったのを見てとても悲しい気持ちです。一時間程度の平均的なミサでは最初の30分は朗読と説教に費やされます。普通、共同祈願から奉献文最後の「アーメン」まで、大部分の小教区では平均6分ほどです。ミサ後の連絡の方がもっと時間を費やしているところもあります!瞬きするぐらいよりも早いこのペースをいくらか遅くするには何をすべきですか?(インド、ムンバイ、L.E.さん)

回答
 
 質問者は重要な司牧的問題を提案してくれています。ミサの挙げ方がしばしばバランスを欠くため、最も聖なる瞬間にが早すぎるという印象が残りやすくなっています。

 これは答えるのが簡単ではありません。現在の主日のミサの構造、つまり、グロリア、3つの朗読、説教、信仰宣言、共同祈願を伴ったものであり、朗読と説教の二つにけ多くの時間が割かれることは避けられなくなっています。

 ただこれは新しいものでもありません。ローマ帝国の当局者に宛ててミサを説明した、殉教者聖ユスティニアヌス(100年~165年)は、聖書朗読と説教は時間の許す限り続くと述べています。その後に続く感謝の祭儀の叙述は比較的簡素で短いものです。もっとも迫害される教会にふさわしく力強いものなのですが。

 だから、バランスの問題はミサの各部分に費やされる時間を均等にすることでなく(可能でもないですし、望ましくもありません)、感謝の祭儀にふわわしい重みを与えることで解決するものです。その場面の荘厳さにふさわしく、注意深く典礼を準備すればこの困難は克服できると信じています。現在の典礼は音楽や儀式の使用について幅広い選択肢を許しているので、御言葉の典礼においてミサを荘厳にしようとすることに全努力を傾注することを比較的容易に避けることができます。

 感謝の祭儀の間、信者の注意や聖なるものへの感覚を増すために使えるポイントを手短にお示しします。

1 主日には第二奉献文を用いないこと

 祝日に用いることを禁止されていませんが、この奉献文は平日のミサの典礼書に特に含まれていたことを心にとめてもらいたい。全く短いこの奉献文が主日に用いられると、ミサが急ぎ足ですすんでいるように見えてしまいます。

2 もっと音楽を使用すること

 ミサの通常文を全て歌うこと、例えば、叙唱、サンクトゥス、聖変化、信仰の神秘、最後のドクソロジー(訳注:「キリストによって、キリストのうちに、全ての誉れと栄光はあなたのもの」の部分)とアーメンの部分、主祷
文、「国と力と栄光は永遠にあなたのもの」、アニュスデイなどを歌うことで、荘厳さが増し、感謝の祭儀の重要性を強調することができます。

3 香とローソクを使用すること

 荘厳な場合に、香は予め決められている場面で用いても構いません。たとえ一般の主日に入堂、福音、奉納の場面で香が用いられなくても、奉献文の間、香はローソクと一緒に用いても構いません。奉献文の時に香を使うことはミサの時間が長くなることもなく、視覚的に聖なるものへの感覚を養い、典礼の動作に注意を集中させることができます。

4 司祭はルーチンを克服するように努めること

 頻繁に唱える祈りに入り込むルーチンを克服し、ミサが真に神との出会いになるよう努めなければなりません。教皇ピウス11世(在位1922年-1939年)はかつて叙階したての司祭に司祭の初ミサが生涯でもっとも熱のこもっていないものになるように望むと語ったことがあります。教皇様は司祭が凡庸になることを促しておられるのではなく、価の付けられない聖体を祝うことにますます熱を込めていくことを促しておられたのでした。

以上

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(感想)
いいミサに与れたと思えるのは、確かに司祭が感謝の祭儀を大切に扱っていることが分かるミサに与れた時のように思う。私の所属する北町教会の天本神父はその点、感謝の祭儀に注意を払っているのが分かる。彼の主日のミサは完全な歌ミサで、奉献文も第二奉献文だけでなく、第三、第四奉献文をたびたび用いている。典礼聖歌も典礼暦に合わせて変えるようにしている。ミサのルーチン化を防ごうとする神父に感謝!
 
2011/03/13

祭壇の準備方法について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUP。今回は2011年3月1日の記事から(原文はここをクリック)。なお、途中で引用されているローマミサ典礼書総則の日本語訳は私訳である。

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質問

 私のいる大司教区では、典礼のための祭壇準備の方法に全く統一性がありません。会議卓のように祭壇が準備されるところもあれば、祭壇布が聖木曜日を除いて、取り払われることがないところもあります。典礼のために祭壇はいかに用意されるべきか教えてください。(カメルーン、バメンダ、V.A.Fさん)

回答

 完全に統一することはおそらく可能ではないし、望ましくないかもしれません。第一にいえることはミサ典礼書自信が合法的な選択肢を複数用意しており、第二に最も適切なレイアウトというものは祭壇や聖域(サンクチュアリ)の形状、各小教区の実情によるものです。いくつかの可能性を示すことで、少なくとも共通点が分かるようにしたいと思います。

 祭壇は最低一枚の白い祭壇布で覆われなければなりません(ローマミサ典礼書総則304項参照)。サイズは最低、祭壇の上部全体を覆うものでなければならず、祭壇両側に垂らせることが好ましいです。祭壇の前面又は背面に垂らす房飾りつきのものでもよいですが、これは必須ではありません。地方の伝統により、無地又は装飾の入ったものでもよいです。もし他の布が用いられる場合でも、白色の祭壇布が常に最重要な布です。

 この布はミサのために必須なのであって、ミサの終わった後に取り除いても構いません。けれども、裸の祭壇というシンボルは聖木曜日と聖金曜日のために取っておくほうが最善だと思います。またこの理由のために、普通は祭壇の上に祭壇布を置いたままにすることが最善だと思います。ミサ以外のとき、祭壇布を他の無地の布で覆ったり、いつでも祭壇布を清潔に保つために覆ったりすることは良いことです。望みがあり、役に立つなら、他の布を祭壇布の下に敷いても構いません。この下布は異なる色で、祭壇布より厚い織地であっても構いません。この下布は祭壇布にしわができるのを防ぎ、安定感を与えてくれるのに役立ちます。

 アンテペンディウム又はフロンタルを使用することもできます。この布は普通、祭壇の前側に地面まであるもので、上質の織物で、しばしば典礼のシンボルが刺繍されています。色は白色又は典礼暦に合った色で構いません。祭壇自体が優れた芸術品であり、覆わないことが最善である場合は、これらを使用することは一般には勧められません。

 十字架像は祭壇の上又はその近くに置きます(前掲書総則308項)。十字架のサイズは信者が十分見ることができる大きさとします。一般的には祭壇のある場所は一つだけ十字架像を設置します。ベネディクト16世は司祭と会衆の間を挟む形で、祭壇の中央に十字架像を設置する習慣を広めておられますが、現在の規定はこの置き方を必須としていません。もし行列用の十字架が大きいと、祭壇の十字架が二つあるようになってしまうので、聖域に固定の十字架像があるなら、行列用の十字架は入堂行列の後で、視界に入らない所に設置します。

 2本、4本又は6本のローソクが祭壇近くまたは祭壇上に置いても構いません(前掲書総則307項)。7本のローソクは司教区の司教がミサを奉げる時に使っても構いません。ローソクの並べ方は色々ありますが、祭壇上での儀式の動作が見えることを妨げないようにした方がいいです。平日のミサではローソクを2本、祝日は4本、主日や祭日、聖体降福式では6本を用いる習慣が確立している地域もあります。

 花に関しては、ローマミサ典礼書総則305項にあります。

 305項 祭壇の装飾は節度を守らねばならない。待降節の間、この季節の特質にふさわしい節度をもって、祭壇を花で飾るべきである。ただし、御降誕の溢れる喜びを先どりすることがないようにする。四旬節の間、祭壇を花で飾ることは禁止されている。ただし、レターレの日曜日(四旬節第4日曜日)、祭日及び祝日は別である。花で飾ることは常に節度をもって行われ、祭壇の上ではなく、祭壇の周りに置くようにする。

 ミサの準備で必要な他の要素については、典礼書総則306項が原則を示してくれています。

 306項 ミサの挙行に必要なものだけを祭壇の上面に置いてもよい。すなわち、ミサの始まりから福音朗読までは福音書を、奉納から祭器の洗浄までは、パテナ、カリス、必要ならチボリウム、コルポラーレ、ブリフィカトリウム、パラ、ミサ典礼書である。加えて、司祭の声を拡声するために必要なマイクは特別に準備してもよい。

 ですから、コルポラーレやミサ典礼書やマイク等々を常態的に祭壇の上に置きっぱなしにすることは典礼上よくない習慣です。

 祭壇の準備のための統一した基準を示すことができませんが、完全な統一性の欠如は教会自身が十分に考えるべきものなのです。お示ししたものが明らかに間違った慣習を取り払うための、指針ぐらいになればと思います。

以上

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(感想)

祭壇を節度を持って飾ることをマクナマラ師が勧めているわけだが、日本の教会の現状を見ると、祭壇はもっと美しく飾られてもいいと思う。ベネディクト16世が最近勧められている祭壇の様式を導入した教会の写真があるので是非見てもらいたい。日本にもこの習慣が広まることを望む。
2011/03/12

聖体拝領時の祝福について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUP。今回は2009年3月24日の記事から(原文はここをクリック)。なお、途中で引用されている公文書の日本語訳は私訳である。

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質問

 アメリカでは聖体を受けることのできない人々に祝福を与える慣習が急速に広がっています。テキサス州の私の小教区では、聖体奉仕者が幼い子供や訪問者の頭の上に十字を切る慣行が聖体よりも大切になっているように見えます。多くの人が私にこれは「歓迎されざるもの」であり、やめるべきだと助言を与えてくれています。私は典礼の集まりで祝福に関する儀式書も、ミサ典礼書もこの慣行を想定していないと指摘してきました。助祭として、私はこの傾向に憂慮していますが、私の小教区の長は前任者の慣習を改めることに躊躇しています。事実、結婚式や葬式で、この慣習は司式者たちによって非カトリック信者向けに勧められている次第です。感謝の祭儀の中に挿入されたように見えるもの、おそらく聖体拝領において私たちがキリストを受け取ることを真に望ませ、理解させることの妨げとなるように見えるこのことについて、あなたの見解を伺えると大変ありがたいのですが。(米国テキサス州、D.I.さん)

回答

 このテーマについては2回過去に触れることがありましたが(2005年5月10日及び24日)、この慣習については疑わしいという見解を示したところです。同時に司教たちがこのこの慣習について賛成・反対の意見を述べていることから、この慣習の典礼法規上の位置づけがグレーであることも指摘したところです。

 ですが、最近、インターネット上の複数のサイトに聖座がこの慣習について否定的な見解に傾きつつあることを示した文書が公開されています。この資料は典礼聖省次官のアンソニー・ウォード神父(マリア会)の署名入りの、2008年11月22日付けの書簡で(Protocol No.930/08/L)、個人からの照会に対する回答として発出されています。

 私的な回答であるため、この書簡は法的拘束力を伴った規定ではなく、書簡が明示している通り、決定的な回答でもありません。けれども、この慣習の正当性について有益な考えを示してくれているものであり、聖座の考えを伺うことができるものです。

 書簡には「本件は聖省において注意深く検討を行っているもの」で、「目下のところ、聖省は以下のような見解を述べるに留まりたい」とあります。

1 ミサ典礼上の祝福は、聖体拝領が終わったのち、ミサの最後に各人に適切に与えられる。

2 平信徒はミサにおいて祝福を与えることはできない。この祝福は司祭の権能に属する(参考 『司祭の役務への信徒の協力に関するいくつかの問題について(1997年8月15日)』第6条2項;教会法1169条2項;カトリック儀式書『祝福について』(1985年)18項)

3 さらに片手又は両手で按手することはそれ自体秘蹟的な意味を有するがため、ここでは不適切であるが、聖体拝領に代えて、聖体を与える人々によってそのような動作がとられることははっきりと控えられるべきである。

4 使徒的勧告『家庭 愛といのちのきずな』の84項では「たとえ司牧的な配慮によるものであっても、いかなる司祭も離婚し、再婚した人々にこの種の儀式を行うことは禁じられている」とある。ここで懸念されていることは聖体拝領に代えてこの種の祝福を行うことは、離婚し、再婚した人々がある意味でカトリック信者としての正常な状態に戻ったという印象を与えてしまうということである。

5 同じ方法で、聖体拝領を許されていないその他の人々について教会法は既に明確にしているように、これらの人々は聖体拝領に近づくことも、祝福を受けることもすべきでない。これは非カトリック信者及び915項で揚げられている人々(すなわち、破門制裁下にある人々又は聖務停止にある人々及び明らかな大罪に頑なにとどまる人々)が含まれている。


 書簡自体は法的拘束力をもつものではないですが、いくつかのポイント、例えば平信徒の奉仕者が典礼上の祝福を与えることを禁じる2番目の項目は、既存の法律の再確認に過ぎず、すでに拘束力をもっているものです。

 またこの書簡はあらゆる全ての状況、例えば、質問者が述べている幼い子供のケースについて取扱っていませんが、これらの祝福について注意深く様子を見る姿勢を取っている司教区もあります。例えば、米国アトランタ大司教区の典礼局は「大司教区は聖体拝領時の祝福を禁じる方針はない」としつつも、主任司祭達に「典礼におけるその意義合いについて、より決定的な判断が得られるまで、この慣習を促進することを避けることが望ましい」と示唆しています。

以上

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(感想)
 日本だけでなく、キリスト教国のアメリカでも同じ事情だったということが驚きだった。聖体奉仕者による祝福を問題視しない日本において(注)、それは禁じられたものであるという事実を多くの日本人に知ってもらいたく、この記事を翻訳した。なお、善意で祝福を行っている聖体奉仕者を非難するつもりは毛頭ないし、聖体奉仕者からの祝福は効果がないと主張しているわけでもないので、悪しからず。

注・・例えば、大阪大司教区典礼委員会のサイトでは、聖体奉仕者による未信者への按手は「聖霊の働きによって相手に祝福を祈る行為ですから、聖体奉仕者が行っても全く問題はありません。」と明記している。