2011/04/23

UVJが正式に日本支部として承認

以前に紹介したウナ・ヴォーチェ・ジャパン(UVJ)が正式にウナ・ヴォーチェの日本支部として認められたとのこと。ご復活の祝日前だが、素晴らしいニュースだ!

ウナ・ヴォーチェ本部のサイトの記事を以下に引用。

*********

2011年4月21日

ウナ・ヴォーチェ連盟に、2カ国が加盟。日本及びポルトガル

ウナ・ヴォーチェ連盟は新しい2カ国の加盟を認めたことをを喜びを持ってお伝えします。連盟の評議会は、ウナ・ヴォーチェ・ジャパン及びウナ・ヴォーチェ・ポルトガルからの加盟の申し込みを承認しました。これはウナ・ヴォーチェ連盟の発展を示す印であり、若者が伝統的なローマ典礼のミサ聖祭にますます関心を持っている証拠です。秋田の聖母とファチマの聖母がこれらの新しいメンバーを祝福して下さることを確信しています。

*********
スポンサーサイト
2011/04/18

年に1回の告解の必要性

カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUP。今回は2010年2月16日の記事から(原文はコチラ

*********

質問

司祭の多くが、教会の第二の掟(「少なくとも一年に一度罪を告白すること」『カトリック教会のカテキズム』2042番参照)にあるように、信者に年に少なくとも1回の告解を勧めています。

 しかし、ある司祭は教会法989条で「分別のつく年齢に達したすべての信者は、重大な罪を少なくとも1年に1回忠実に告白する義務を有する」とあるように、もし大罪がないなら、これは必要ではないというのを聞きました。理屈でいえば、この判断がもたらすものは最初の告解(初聖体の前の)の後、もし大罪がないなら、この秘跡を受ける必要はもうないということになります。

 実際、大罪を犯していないので、何年もこの秘跡を受けていない信者もいます。カトリック教会のカテキズム1457番は上述の教会法、「すべての信者は、分別の年齢に至った後は、重大な罪を少なくとも1年に1回忠実に告白する義務を有する」に言及しています。ここでは、告解は大罪にのみ義務的であると指摘しています。

ご存知のように、教会法989条は法的義務のものですが、カトリック教会のカテキズム2041番では教会の5つの掟も義務的な性格をもつことが指摘されています。教会法989条の法的義務と、教会の第二の掟の司牧的義務を区別するなら、矛盾はないと私は解釈しています。定期的で頻繁な告解を促すことを全く支持しているのですが、厳密に言うと、大罪がある場合にのみ、教会の第二の掟は義務的な性格をもつのでしょうか?(香港、G.M.さん)

回答

 この難問は文脈を見ることで解決できると思います。まず最初に教会法989条は前条の988条を直接受けているものです。

988条1項
 キリスト教徒の成員は洗礼後に犯し、教会の権能によって直接免じられておらず、かつ懸命な良心の究明の後、個別告解の場で認めていない全ての大罪を、種類と数において告白する義務を有する。
2項 
キリスト教徒は小罪もまた告白することを勧められている。


 そういうわけで、教会法989条は988条1項にある義務を果たすための最長期間は1年であるということを示しています。この理由のため、年に1回告白するという教会法989条の告解に関する厳格な義務は大罪に関するものであると考える教会法の専門家たちもいます。ある人がいかなる大罪も犯していないと想定した場合、この教会法は適用されないということになるでしょう。

 この観点から見ると、カトリック教会のカテキズム1457項が教会法989条を引用しているのは、聖体拝領前に大罪を告白する必要性を取扱っているからです。

 カトリック教会のカテキズム2042項では、脚注で教会法989条に言及していますが、「人間の召命、霊における生活」というタイトルでこの問題を取り扱っています。質問者が指摘されたように、カテキズムでは教会の第二の掟を守ることは、霊的成長にとって最低限要求されていることとしています。

 このため、教会の第二の掟は大罪に言及せず、大罪があろうとなかろうと、義務を課しているのです。そうすることで、年に1回の告解は「回心のわざと洗礼によるゆるしのわざとを継続させるゆるしの秘跡を受けることによって、エウカリスチアへの備えをさせてくます」とカテキズム2042項では述べられています。ここで、ゆるしの秘跡(告解)は大罪を免じるための義務的な手段ではなく、霊的成長のための一般的で、必要でさえある手段の一つとして捉えられています。

 カトリック教会のカテキズム要約もまた大罪のための必要性について触れていません。だから、同432.2項ではこの教会の掟を「罪を告白するために、最低年に1回はゆるしの秘跡を受けるもの」としています。

 かくして、カテキズム及びカテキズム要約は教会法理論という高みの世界から、キリスト教徒の生活という現実に降りてくるのです。

 年に1回という教会法の義務は大罪がある場合にのみ、義務を課すという考えは髪の上では良くても、多くの霊魂の導き手の経験によれば、1年またはそれ以上の期間にいかなる大罪も犯さないというのはめったにないことです。

 事実、何年もの間を通して大罪を避けられているというのは、定期的に頻繁に告解を行い、良心と神への愛に対する敏感さにおいて成長するために、ゆるしの秘跡を利用する霊魂にほとんど常に起きているものです。そのような霊魂はまた霊的成長のための他の手段、例えば、定期的な祈り、頻繁な聖体拝領、愛徳のわざを行う傾向があります。

 義務は年齢、障害、その他のよい理由で義務を果たすことのできない人には課されないということも思い出しておく必要があります。

 おそらく、問題は大罪という観念が薄まっているので、もはやそれが気づかれないということから生じているのでしょう。たまに罪は第六戒(訳注、「姦淫してはならない」)の違反にだけ限定されています。しかし、私たち司牧者は信者、そして自分たち自身にも、死にいたる罪は7つあること(高慢、物欲、色欲、憤怒、貪食、妬み、怠惰)、それぞれがそれぞれの方法で魂に毒を盛ることを思い出させる必要があります。

以上

*********
(感想)

 告解という秘跡が半ば義務的に頻繁に与えられていた時代は終わったとしても、キリスト信者が罪が昔と比べて犯さなくなったというわけではあるまい。言葉に出して自分の罪をいうことは何より自分の無力さを自覚させてくれる。ほぼ無条件に与えられる赦しほど、神の愛を感じられる瞬間はない。月1回受けている告解をこれからも続けていくことができますように!

2011/04/12

「Rick's Cafe」をリンク先を追加!

大阪のカトリック信者のRickさんのブログ「Rick'sCafe」をリンク先に追加。

Rickさんのブログの特徴は、机上の空論でなく、地に足のついた議論をしているところだと思う。

えてして保守的なカトリック信者のブログは、私も含めて、上から目線でものを語るきらいがあるが、彼のブログには謙虚さしかない。この辺は私も見習いたいところだ。

またケースワーカーとして所謂「弱者」と呼ばれる人々と接している人の現場の目線で、カトリック教会の社会活動を批判的に分析している点が他のブログにない特徴で、大変貴重だと思う。

まだブログを見たことのない方は、ぜひ見に行ってほしいと思う。

2011/04/08

アイフォンが観想修道院になる!

フランスにある男子ベネディクト会の聖マドレーヌ修道院がアイフォン用のアプリを4月11日に出すとのこと。

グレゴリオ聖歌典礼に興味があるので、これは楽しみ♪

以下は修道院のサイトの紹介文(リンクはコチラ。原文はフランス語)

*********

世界初!アイフォンのアプリで観想修道会の生活を体験

このアプリでできることは、

・毎週、主日の福音について簡潔な瞑想の手引きが受けられます。

・広報誌「友人たちへの便り」で、修道院の最新情報が分かります。

・黙想のための修道院での宿泊予約(男性限定。女性にはホテルを紹介)ができます。

・当修道会の修道士によるグレゴリオ聖歌の聖務日課を体験できます。

iBarrouで、修道院ををお手元に! キリスト教徒ライフを豊かにしましょう!

近日公開です!

以上

*********
(参考)
 聖マドレーヌ修道院は男子ベネディクト会の修道院で、南仏のル・バルー村(Le Barroux)にゲラール・カルベ神父(Fr.Gerard Calvet)によって1978年に開基。同修道院では第2ヴァチカン公会議以前のベネディクト会の修道生活を守っていることで有名。
2011/04/08

月曜日に行われる主日のミサについて

カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUP。今回は2011年3月8日の記事から(原文はコチラ)

*********

質問

 私の小教区では、月曜日の晩にヒスパニック系の人のための「主日のミサ」があります。前の日曜日のミサを祝っているのですが、その意味するところは主日の義務を果たすことにあるのだと私は思っています。これは合法でしょうか?(米国、ミシシッピ州、Biloxi市、M.M.さん)

回答

 もし意味するところがこのミサが主日の義務を果たすことであるなら、合法ではありません。主日の義務はまさに日曜日に行うものであり、土曜の晩のミサで義務を果たすことはできますが、平日に移してはいけません。

 けれども、別の可能性も考えられます。別の機会にアラブ諸国では金曜日、イスラム教徒の祈りの日ですが、その日に主日の典礼を行うことがどのように許されているのかを説明したことがあります。これらの国では日曜日は営業日となり、多くのキリスト教徒の移民はミサに出席することが不可能になっています。

 この場合において、考えられているのは主日の典礼であって、主日の義務ではありません。これらの国々のキリスト教徒で土曜日の晩又は主日にミサに出席できる者はだれでも、そうする義務が残ります。週日の休みに主日の典礼を行うことは司牧的配慮であり、金曜日にミサに与る大部分のキリスト教徒は主日において見出される、より豊かな聖書の箇所と祈りから便益を得ることができます。

 そのような金曜日のミサに出席する義務はないのですが、主日は他の曜日に移すことはできないことを説明する必要はあります。

 月曜日に主日のミサを繰り返すことは同じような動機からのものだと思います。米国においてヒスパニック系住民の大部分はサービス業に従事しており、週末に働かなければならないこともしばしばです。特定の小教区において人数が多い場合、典礼暦に応じた継続的な要理教育を行うため、主日のミサを繰り返して行うよう必要な許可を求めることはありうることです。しかし、それは繰り返すためです。司牧的目的のために主日の典礼を使用することは主日の義務を果たすこと同義ではないことを説明するために、明確な要理教育が必要です。

 スペイン語でミサを行うことが主日を移すことの十分な動機ではないと思います。もしそうなら、月曜日のミサに出席することで主日の義務を果たすことができるという誤った考えに促されて、主日の義務をおろそかにヒスパニック系の人もでてくるでしょう。もし小教区でスペイン語による主日のミサが必要ならば、土曜の晩か日曜日のどちらかにミサを行わなければなりません。

以上
*********
(感想)
 4月から職場が変わり、週末に仕事が入ることが多くなった。4月だけ見ても、週末が休みなのは4月23日・24日だけだ。今後計画停電に伴う動きで、土日に出勤する人も多くなるのではないかと思う。その意味で日本の教会でも、司牧的な配慮により主日のミサを平日に行うような取組を行ってほしい。もちろん、この措置は主日の義務とは別物であることは明確にしなければならないのだが。