2011/06/29

Pro Summo Ponticice

今日(6/29)はローマ教皇ベネディクト16世の司祭叙階60年の記念日である。司祭のダイヤモンド祝自体素晴らしいことであるが、とりわけ教皇様がして下さった伝統的かつ正統的なカトリックの伝統を愛する人々のための配慮と英断を思い起こすと、感謝を奉げずにはいられない気持ちになる。

 折しも今日はカトリック教会の典礼暦では「使徒聖ペテロと聖パウロ」の祭日にあたるが、北町カトリック教会の朝のミサでは盛式に香を使ったミサが行われた。たかが香炉の一つだが、大祝日に対するそうした小さな儀式的かつ典礼的な司祭の配慮によって、今日のミサに荘厳さと緊張感が生まれ、ミサで大いに祈れるものだと感じるのは私だけだろうか?

 教皇様、ダイヤモンド祝おめでとうございます。イエズスの教会を委ねられた使徒たちの殉教を讃えるこの特別な日、その後継者であるあなたを永遠の大司祭であるイエズスと使徒が守ってくださりますように!

教皇様のための祈り

(ラテン語)
Oremus pro Pontifice nostro Benedicto,
Dominus conservet eum, et vivificet eum,
et beatum faciat eum in terra,
et non tradat eum in animam inimicorum eius.

(日本語訳 試訳)
私たちの教皇ベネディクトのために祈りましょう。
主が教皇を守り、力づけ、地において幸いなるものとし、
教皇を敵の企みに引き渡すことがないように。




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2011/06/26

ミサでホスチアを分割する箇所について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は2010年10月5日の記事から(原文はコチラ

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質問
 制定の叙述の中で、聖変化の言葉の前に、司祭は「(パンを)割って、弟子に与えて」と言いながらも、ホスチアを割らないのは何故でしょうか?つまり、なぜ司祭はホスチアを割ることを「アニュス・デイ」まで待つのでしょうか?この疑問が頭の中で鳴り響いている司祭がいると思っています。道理が通るようにと、実際、制定の叙述の間にホスチアを割る司祭がいるのはこういうわけなのでしょう。どうか私に手助けしてもらえませんか?(フィリピン、ケソン市、X.A.さん)

回答
 ホスチアをその時(訳注:制定の叙述の時のこと)に割るべきではない理由について話す前に、この習慣が訓令『レデンプティオニス・サクラメントゥム』の55項で特に言及されていたことを思い出しました。

「いくつかの地域ではミサ聖祭の聖変化の時に司祭がホスチアを割るという濫用がある。この濫用は教会の伝統に反している。これは非難されるものであり、すぐに正すべきである。」

 ラテン典礼の伝統では上述の時に儀式的にホスチアを割らない理由はいくつかありますが、それらの一部を説明しようと思います。

 制定の叙述はキリストの4つの行為、つまりパンをとること、感謝と賛美を奉げること、パンを割くこと、それを弟子に与えること、を描いています。これら4つの出来事が、聖公会の典礼学の大家であるグレゴリー・ディックスが感謝の典礼の「形」と呼んだものを構成しています。

 事実、ラテン教会は感謝の典礼と聖体拝領の典礼をこれら4つの出来事の周りに儀式的に組み立てています。パンを取ることはとりわけ奉納の儀式(訳注、「パンを供える祈り」のこと)によって示されています。感謝と賛美をささげることは奉献文の最も重要な特徴です。パンをを割くことは(アニュスディの時の)ホスチアの分割で行われ、パンを弟子に与えることは聖体拝領の時に行われています。

 制定の叙述は奉献文の中にあり、それ故に父なる神に感謝をささげるという文脈の中にあります。感謝と賛美をささげるための至高の行為とはキリスト、すなわち肉となった御言葉、の過ぎ越しの神秘です。制定の叙述の中で、教会は父なる神に永遠なる御子の業とこれを記念として行えという御子の御旨を物語ります。この効果ある記念によって、聖変化が起きるだけでなく、キリストの死、復活及び昇天を思い起こすことで救済の全神秘をも現わすのです。父なる神へのいかなる賛美と感謝の業も感謝の祭儀の間に起こることと等しくすることはできません。

 奉献文の目的が父なる神への賛美と感謝を奉げることなので、信者に対して劇的な動作、例えばホスチアを割ること又は「皆、これを取って」と言いながら何かを与えるような仕草をすることは場違いであり、この瞬間のミサの根本的な意味から遠ざけてしまいます。

 上で述べた議論は司祭がホスチアとカリスを手に取り、それを聖変化の後に信者に示すというラテン典礼の習慣もひとしく場違いであることも示唆していると提示されるかもしれません。神学的に言えば、聖体奉挙の動作は厳密には聖変化の有効性にとって必要ではありません。ホスチアとカリスの奉挙は歴史的に言えば、聖体を見たいという信心からの望みに応えるために導入されたということもまた事実です。

 しかし、その起源にもかかわらず、聖体奉挙はほとんど1000年以上にわたり教会の普遍的な典礼として賛同を博し、結果として何世紀にもわたり、真の実在の信仰を導き育ててきました。それゆえ、それは正当な典礼の有機的発展と見なされるに違いありません。聖変化の前にホスチアを割る仕草は同じ観点から見ることはできないし、それが特別に非難される理由はそれだけではないと思います。

 ローマ典礼では、聖体を分けることを奉献文の後で、「アニュスデイ」の歌と共に行われるようにしていますが、それは私たちが分かち合うのはただ普通のパンではなく、私たちの贖い主であるキリストであるということを強調しています。私たちは犠牲の宴に参加しています。慈悲と平和を求める私たちの願いはこの信仰によって強められます。聖変化の前に、すなわち感謝と賛美が終わる前にホスチアを分けることはこの意味に影響を及ぼします。

 最後の議論は、より弱くなりますが、儀式の論理という観点から行うことができるでしょう。もし「(パンを)割って」という御言葉が必然的に儀式的にその動作を行うことを暗示しているということを受け入れるなら、同じことが「弟子に与えて」という御言葉にも等しく適用されるでしょう。そうなると私たちは聖変化のための言葉を告げる前にホスチアを全員に分け与えなければならないでしょう。カリスを授けることをどう取り扱うのか想像ができません。

 もちろんこの議論はばかげており、ただ全ての儀式での言葉が動作を伴う必要はないことを、とりわけ典礼自身が御言葉のもっとも深い意味を十全な方法で説明している時にはそうであるということを指摘するのに役立つだけのものです。

以上

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(感想)
 今日はカトリック教会の大祝日である「キリストの聖体の祝日」に当たるので、聖体に関するこの記事を選んだ。私は今回の記事を読んで改めてミサ典書の素晴らしさを認識した。つまり、ミサ典書で決められている祈りと動作はすべて深い意味があるということ。その意味を知れば知るほど、ミサ聖祭に主体的に参画でき、ミサ聖祭を愛することができるということを。これからはアニュスデイの時、より一層意識的に祈ることができる気がする。

 最後に聖体の分割のシーンを描いた珍しい切手を紹介する。下の画像をクリックすると別ウィンドウで拡大した画像を見ることができる。

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 これは1968年にコロンビアのボゴタ市で開催された「第39会国際聖体会議」を記念したコロンビアの切手の初日カバーである。切手の中で、司祭の左腕にマニプルスが着けられている。マニプルスは一般形式のミサでは廃された祭服であるが、1968年という時代は典礼改革の移行期だったからまだ着用されていたのだろう。
2011/06/22

カズラの上からストラを着ることについて

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は2011年6月7日の記事から(原文はコチラ

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質問
 私は習慣としてカズラの下にストラを着るようにしています。というのも私はそう教わりましたし、常に指示事項の中にそれを確認してきたからです。しかし、私の国では、ストラは一般的にカズラの上から着用しています。この習慣に従っている司教もいます。何度か、私のストラの着方は間違っていると言われたこともあります。私たちが使用しているカズラは「ゴシック・カズラ」であると私に説明してくれた人もいました。ゴシック・カズラは前面に特別な装飾がなく、一方で付属のストラには特別の装飾が施されているものです。このことがカズラの上からストラを着る理由のようです。このことに関してより詳しいことを調べましたが、何も見つけられませんでした。もし私が間違っているなら、私は自分の習慣を変えるつもりです。これについて何か指示はあるのですか?(スリランカ、コロンボ市、P.V.さん)

回答
 教会の最新の規則によれば、カズラの下にストラを着用するというあなたの習慣は正しいです。ローマ・ミサ典礼書総則337条によれば、「ミサ聖祭やミサ聖祭と直接つながる他の典礼行為を行う司祭にふさわしい祭服とは、他に指示がなければ、アルバとストラの上から着用するカズラ」です。

 カズラの外側にストラを着用することは1970年代から1980年代初頭にかけて流行しましたが、今や完全にすたれています。特別な祭服、例えばアルバとカズラが一体化したもので、必然的に外側にストラを着用するもの、を採用するために聖座から特別な許可を得ている国もあります。しかし、この醜く不格好な祭服は決して流行ることはありませんでした。

 伝統的にストラは司祭の権威のしるしとして、他方でカズラは愛徳のしるしとして見なされています。それ故、ストラをカズラの下にする理由は愛徳が常に権威を覆わなければならないからだとしばしば言われています。

 この理由付けが真正であろうとなかろうと、ストラとカズラの相対的な位置関係はゴシック様式又はローマン様式の使用とも、乃至は祭服の装飾とも全く関係ありません。実際、あらゆる歴史的な祭服の様式において、ストラはカズラの下に着用されています。外側向きのストラは最近の一時的な流行であり、いまや普遍的な典礼規則に反するものになっています。

 何世紀にもわたり、多くのカズラの様式がありました。典礼で使用されるカズラの初期のものはいわゆる修道士様式に似ています。つまり、切り抜かれた楕円形の祭服で、しばしば司式者の靴の上にまで長く垂れ、たまにフードが付いているものです。現代の修道士様式のカズラは、楕円よりも四角にカットされる傾向があります。

 このカズラの様式は自由に使うためには両腕を寄せる必要があったので、12世紀頃から、動きがしやすいように両脇が徐々に短くなりました。このようにしてゴシック・カズラは成立しました。この様式では肩から地面に近い端にかけて徐々に先細くなっており、他方で両側の長さは均等です。セミ・ゴシック様式は同じようなのですが、少し短いものです。大部分の現代のカズラはしばしば肩から地面にかけてゆるやかに丸くなっているものや、長方形又は正方形にカットされるものがありますが、これら二つの様式にヒントを得たものです。

 16世紀以降、カズラの大きさと形は前と後の長さをさらに短くし、腕が完全に自由に動かせるようになります。これはとりわけある特定の動き、例えば手を合わせることや祭壇に香を振ることといったもの、をやりやすくするためになされました。この種のカズラはしばしばキリスト教のシンボルで美しく刺繍が施され、高価な材質、例えば絹、金や金襴が使用されているのでかなり固く重いものです。この様式の中にも、幾つかのスタイルの違いがあります。

 最も一般的なもの一つにローマン様式、またはフィドルバック様式のカズラがあります。これは長方形の前面と、かすかにバイオリンの形に似た背面をもったカズラです。スペイン様式のカズラはさらに短く、その丸みを帯びた前面と背面から、時に「ギター型」カズラと呼ばれる特徴的な形をしています。ドイツ様式は単純で、長方形の前面と背面があるだけです。

 20世紀の初頭に初期の形、特にゴシック様式に回帰する傾向が見られました。最初はこの習慣は抵抗に遭い、礼部聖省は1925年の質問に対して明確に回答しましたが、司教の多くはそれを慎重に扱ったうえでの賛成と解釈しました。それ故、この復興した様式はゆっくりと教会に広がりました。聖省は1957年に司教たちに文書を送り、カズラの古い様式の使用に関する決定は司教の賢明な判断に委ねられることになりました。

 現在の規則は事実上あらゆる歴史的な様式のカズラの使用を許しています。

以上

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(感想)
 今回の記事を翻訳するまで、一般形式のミサではストラをカズラの上に着用するものと私も思い込んでいた。日本の教会では、マクナマラ神父の言うところの、「普遍的な典礼規則に違反する」習慣が定着しているが現状であるし、それが間違いであると指摘する声も皆無だ。今回の記事をUPすることで、少しでも多くの人が正しい祭服についての知識を知ってもらえるといいと思う。
 
 最後に各様式のカズラの画像を紹介する。違いが分かってもらえるだろうか?

修道士様式カズラ
修道士式カズラ

ゴシック・カズラ
ゴシック・カズラ

ローマン・カズラ
ローマン・カズラ



2011/06/18

無味乾燥した典礼について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は2009年5月12日の記事から(原文はコチラ
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質問
 今日、典礼の精神が機械的で儀式的なパフォーマンスに陥っているように思います。私たちの典礼が余りに無味乾燥としているので、神への崇拝が自発的で有意義であり、礼拝への一体感と満足感を与えてくれるプロテスタントの教会に、多くのカトリック信者が行くようになっている地域がいくつもインドにはあります。あなたに寄せられる質問やあなたの回答の中には、魂に訴えかけないように思えるものがあります。現地の文化や必要性という観点から、有意義な典礼を広めていくことを考えるべきではないのですか?(インド、ディンディグル市、P.Jさん)

回答
 典礼の目的や特質に関する根本的な問題に触れる、この種の質問を時々受けます。

 何年にもわたって、このコラムでは典礼について多くの点を述べてきました。その中には、一見して技術的なもの、雲の上の話のようなものさえありました。しかし、私は常に読者の疑問を疑ってかからないようにし、彼らの疑問は教会のこころに従って典礼を捧げたいと言う真摯な望みから生じているのだと思っています。

 正確にミサを奉げると当然の結果として魂のこもらない機械的な儀式になるとは思いませんし、ルブリカ(ミサの規則)に対して無頓着な態度をとることが真正のキリスト教の当然の証になるとも思いません。両方の態度には良い信仰と偽善の両方があるのでしょう。しかし、これらは問題の核心に触れない個々人の欠点なのです。

 はっきりとカトリックとわかる典礼、それはキリスト自身からのもので、諸聖人の通功という大きな流れの一部なのですが、信者はそれに参加できる権利があると信じているがゆえに、私は典礼の規則に忠実であることを強く擁護します。

 質問者の誠意を疑いませんが、カトリックの典礼に関してプロテスタントの礼拝を特徴続けるやり方には私は異議を唱えなければなりません。私は外面的な形式よりもっと深くいく問題を前にしていると考えています。問題の核心は私たちの別れた兄弟にわくわくするような礼拝があるということではなく、私たちが信者にミサ聖祭と聖体に関する基本的なカトリックの教義を教え損なっているということなのです。

 どんなカトリック信者もミサ聖祭に出席することが意味するものをほんの少しでも感じています。つまり、それは主の受難、死及び復活に立ち会うことであり、不滅の御父に奉げられた信者の祈りが、キリストの至高の犠牲と合わさることができることであり、天からのパンを分かち合う機会を持つことであります。たとえプロテスタンの礼拝によりよい音楽やよりよい説教があったとしても、そのようなカトリック信者はこの特権をプロテスタントの礼拝と比較することができましょうか?

 同時にまた教会の典礼は現地の司教協議会によって決定されるように、現地の特性に容易に対応することができる柔軟性と豊かさを既にもっています。典礼教育の欠如という根本的な問題は別に、わたしたちの典礼を美しく深い精神的な経験へと変えることができる多くの宝、古いものも新しいものもありますが、それを使うことを放棄する又はほとんど使わないという問題があります。

 真のカトリックの典礼がもつ全ての可能性が用いられる時、ミサはどんなカトリックでない礼拝よりも一体感があり、自発的で有意義なものになります。違いは典礼において、ちょうどスポーツにおけるのと同じように、本物の自発性、参加、創造といったものはルールの範囲内で見出されるものであって、ルールの外側ではありません。

 典礼とは別に、カトリシズムには多くの祈りの形と信心会、それは歴史的なものから現代のカリスマ運動や教会運動まで、があります。これらの様々な表現はあらゆる形の魂の感受性や一体となる望みをプロテスタントのどんな個々のグループよりも満たすことができると信じしています。

 だからもしカトリック信者がプロテスタンの団体に移ってしまったなら、私たちは典礼を責めるのではなく、むしろ努力を倍にして、典礼を適切に行い、偉大な信仰の神秘という真実を告げ知らせるべきであると思います。

以上
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(感想)
 ローマミサ典礼書通りにミサを行うことを真っ向から擁護したものとして今回はこの記事を取り上げた。「本物の自発性、参加、創造といったものはルールの範囲内で見出されるものであって、ルールの外側ではありません。」というマクナマラ神父の言葉に強く共感する。
2011/06/11

「またあなたの霊とともに」について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は2010年9月14日の記事から(原文はコチラ
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質問

 英語圏では会衆の挨拶が「またあなたとともに(And also with you)」から「またあなたの霊とともに(And with your spirit)」に変わらなければならなくなるようですが、信者に理解させるために神学的かつ歴史的なよい説明を探しています。なぜ霊がここでは強調されているのか。会衆もまた霊をもちあわせてはいないのか。私が入手できる典礼に関する書籍には、短い一段落以外、この問題を全く扱っていません。背景を教えていただけないでしょうか?(パプアニューギニア、クンディアワ市、H.T.さん)

回答

 よく知らている通り、聖座は挨拶、例えば「Dominus vobiscum」への返答としてラテン語で言われる「Et cum spiritu tuo」は「And with your spirit」のように常に文字通り翻訳すべきであると求め続けていました・

 世界の主要言語ではこの表現を文字通り翻訳しましたが、例外として有名なのが英語とブラジル・ポルトガル語でした。

 この短い対話形式(「主は皆さんとともに。またあなたの霊とともに」)はルツ記の2章4節とテモテへの第二の手紙4章22節から取られ、おそらくキリスト教徒はこの形式を直接シナゴーグから取ったのでしょう。、例えば、聖ヒッポリトス(100~165)の中に、キリスト教徒は非常に早い段階からこの受け答えをしていたという明確な証拠があります。

 非常に早い段階から、キリスト教徒はギリシャ人とローマ人の両方のメンタリティからは異質であるにもかかわらず、もとの表現のままでこの言い回しを保持したいう事実は今日の私たちの翻訳でこの言い回しに手を加えないままにする良い説明になります。ちょうど「アーメン」、「アレルヤ」、「ホザンナ」と言った他のヘブライ語の表現や形式を保持することで行っているように、このような方法で私たちはキリスト教の歴史的な始まりと活きたつながりを保ちます。

 「あなたとともに」という形式は慈愛の気持と、主は現存するという現実の承認を含んだ挨拶として考えられています。セム系言語の返答句「あなたの霊とともに」の文字どおりの意味は「あなたとともに」になり、ちょうど「あなたの霊」の文字どおりの意味が「あなた自身」となる通りです。だから、現在の英訳はヘブライ語の背景にたった正確な翻訳として考えてよいのでしょう。

 けれども、歴史的に言って、この形式は急速にそのユダヤ的な文脈を離れ、教父の伝統によれば、これは司教又は司祭が叙階でうける霊という意味で解釈されてきました。例えば、聖ヨハネ・クリソストモはテモテへの第二の手紙についての説教で、「あなたの霊」を留まっている聖霊と呼んでいます(II Tim. homily, 10,3. PG LXII 659 ff)。

 これより優れた祈りはないでしょう。私が出発するために悲しんではいけません。主はあなた方ともいます。彼(聖パウロ)はあなたとともにではなく、あなたの霊とともにと言っています。つまり二重の助け、聖霊の恩寵とそれを助ける神があるのです。もし聖霊の恩寵が私たちになければ、他の方法で神は私たちとともにおられません。というのも恩寵によって私たちが捨てられたのであれば、主はいかにして私たちとともにおられるのでしょうか?

 最初の聖霊降臨の日の説教(PG L. 458 ff)で、聖ヨハネ・クリソストモは返答句の「霊」という言葉の中に、司教が聖霊の力によっていけにえをささげるという事実の暗示を見ています。

 このような教父の考えは初期から「主は皆さんとともに」という挨拶が上級聖職位、つまり司教職、司祭職及び助祭職、を受けた人にのみ許されていた一つの理由になります。叙階を受けた人々にのみに典礼の挨拶を限るこの制限は現在もまだ効力を持っています。例えば、聖体拝領を伴う御言葉の祭儀又は、時課の典礼の祈りの先唱をつとめる信徒が「主は皆さんとともに」という挨拶を返答として用いることは禁止されています。

 これは信徒が聖霊に欠けているとか、典礼においては受動的に出席するものにすぎないとかを意味するものではありません。実際、司祭に対する返答を通して、会衆は主の名のもとに司祭によって治められ、このような方法で司祭の呼びかけに応える典礼的な集合体を構成しているのです。偉大なイエズス会の典礼学者であるJ.A.ユングマンは以下のように書いています。

 「あなたの霊とともに(Et cum spiritu tuo)」は司祭の仕事に対する会衆の一致の意思表示としてもっともよく理解できます。つまり、それはここにいる会衆が自分たちの代わりに行動する権威又は権力を司祭にあたえたという一致の意思表示でではなく、会衆がその指導によって統一した集団が全能の神に近付くことができる話し手として、もう一度司祭を認めたという一致の意思表示です。だから、この挨拶と返答の中に、祈り(初めの祈り)の終わりにも再び現れる同じ二重音符があります。つまり、「主は皆さんとともに(Dominus vobiscum)」は祈りの終わりの「キリストによって(per Christum)」を予期しているように見えるし、「またあなたの霊とともに(et cum spiritu tuo)」は会衆が「アーメン」として表現する同意の先触に見えるということです。(『ローマ典礼のミサ』、第1巻、365ページ)

 この短い表現に込められている躍動感を今日の私たちは捉えにくくなっていますが、新しい翻訳により、信徒の典礼における積極的な参加や位階制共同体の真の神学的な意味を強調するための素晴らしい機会が与えられることでしょう。.

以上

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(感想)
 英語圏では2010年11月の待降節から、よりラテン語規範版に忠実な翻訳となったミサ典礼書を使用している。ちなみに、ラテン語の「Et cum spiritu tuo」は世界の主要言語では以下のように翻訳されている。いずれも「spirit」を汲み取った訳になっている。

フランス語 "Et avec votre esprit."
イタリア語 "E con il tuo spirito."
スペイン語 "Y con tu espiritu."
ドイツ語  "Und mit deinem Geiste."
ロシア語  "И со духом твоим"
中国語   「也與你的心靈同在」

 日本語のミサ典礼書では該当箇所は「また司祭とともに」になっている。たしかに日本語として聞いた時に違和感を感じるものではないが、この日本語訳にはラテン語原文の面影は薄く、それ故に他の外国語の祈りとも共通点が見出しにくい。ミサの重要な会衆の応答句であるから、早く世界の流れに歩調を合わせた翻訳を日本のカトリック教会関係者に期待するところである。

 

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