2011/07/31

ミサの前の断食について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は2011年7月5日の記事から(原文はコチラ)。

 なお、翻訳文中で引用したカトリック教会法の邦訳は公式訳でなく、英文からの拙訳である。

**********

質問
 私の主任司祭はミサが始まる1時間前から断食を行う習慣を送っていますが、信者には聖体拝領が始まる1時間前だけ断食しなさいと教えています。司祭には別の基準があるのでしょうか?主任司祭の同僚の司祭は信徒の規定に従っており、聖体拝領前の1時間だけ断食を行っています。主任司祭は自分の断食の習慣を続ける意向ですが、別の基準があるのか、それはどの文書によっているのかを知ることができると幸いです。教会法を見たのですが、何も見つけられませんでした。(米国インディアナ州、シェルビービル市、L.R.さん)

回答
 聖体拝領前の断食に関する現在の規定は教会法919条にあります。

1、聖体を拝領するものは、少なくとも聖体拝領の前の1時間、水と薬の場合を除く以外はいかなる食物又は飲み物を取ることを控えなければならない。

2、同じ日に2又は3回ミサ聖祭を行う司祭は、1時間の間が空いていなくても、2回目又は3回目のミサの前に食事をとっても構わない。

3、高齢者、病気を患っているもの、その者たちを看病するものは、聖体拝領に先立つ1時間の間に何かを食べていても、聖体を拝領することができる。


 ですから、教会法が司祭と信徒の間に置く唯一の区別は、複数回のミサを行う司祭のための断食を緩和することだけです。

 質問者が述べられたように、断食は聖体拝領の前であって、ミサの前ではありません。しかし、尊敬と崇敬の念から、司祭又は信徒が最低必要とされる時間を超えて断食する期間を延ばす場合、これは称賛に値する慣習です。

 一時間の断食では水以外のあらゆる飲食物について口を通じて食べる又は飲み込むことを控えます。チューインガム自体は断食を破りませんが、噛むことで出てくるジュースや甘いものを飲み込むことは断食を破ってしまいます。

 食物は口から摂取されるべきものなので、管から栄養を取る病人は断食を破りません。薬も同様です。

 聖体拝領前に断食するという決まりは長い歴史をもっていると、教皇ピウス12世は使徒的検証「クリストゥス・ドミヌス」(1953年)で述べられています。

 非常に初期の段階から、断食を行っている信者に聖体を授けるという慣習が守られていました。4世紀の終わりにかけて、多くの宗教会議はミサ聖祭を行おうとする人々に対して断食することを命じています。例えば393年にヒッポの会議はこのような命令を行っています。「祭壇の秘跡は断食を行っている者のみ行うことができる」。すぐ後の397年に、カルタゴの第三回会議ではこれと同じことが、全く同じ言葉を用いて命じられています。5世紀の初めに、この慣習は非常に普及し、歴史が深いものと呼ばれています。それ故、聖アウグスチヌスは聖体は常に断食をしている人々が受けるものであり、その上、この慣習は全世界で守られていると断言しています。

 疑いなく、この断食は非常に重要な理由に基づくものですが、そうした理由の中に、とりわけ異邦人の使徒(訳注:聖パウロ)がキリスト者の兄弟的な愛餐について嘆いた理由をあげることができます。私たちが聖体の覆いの下に隠れたイエズス・キリストを受ける時、私たちは特別な敬意の念から食物や飲み物を断つことをイエズス・キリストの至高の権威に帰さなければなりません。さらに私たちが食物をとる前にイエズスの尊い御体と御血を受けるとき、これこそ私たちの魂が養われ、聖性が増す最初の最も価値のある食物であることを私たちは明確に示すことになります。だから同じ聖アウグスチヌスはこのような警告を与えています。「秘跡に多くの栄光を帰すため、他の食物よりも前に、主の御体がキリスト者の口に入るべきであるということは聖霊を喜ばせてきました。」

 聖体に関する断食は私たちの聖なる贖い主にふさわしい名誉を与えるだけでなく、信心をもまた育てるものです。それゆえ、それは私たちの中に、善の源であり創り主であるキリストが、恩寵によって生み出すために豊かにされた私たちに切に望んだ聖性の最もためになる実りが増えることを手助けすることができます。

 ピウス12世の時代の前、聖体の断食は真夜中から始まり、水を含んでいました。これはまたミサは午前中にしか行われないことを意味していました。

 上述の憲章の中で、教皇様は断食の重要性を強調しつつ、以下のように断言されています。

「それにもかかわらず、私たちが生きている時代とその特有の諸条件は社会の習慣や日常生活の諸活動に多くの変化をもたらしたと述べられるべきでしょう。これらの中には、もし聖体の断食に関する法が過去に守られていたのと同じ方法で今日まで守られた場合、人々が聖なる神秘に加わることを妨げる深刻な困難が生まれているかもしれません。」

 ピウス12世は多くの人々が聖体拝領をすることを妨げる困難さ一部に言及しています。その中には、司祭の数が、特に宣教地において足りないことや夜勤を含む工場や事務所での現代の生活ペースがあります。教皇様はまた多くの人がミサに与れるよう特別な祝日においてミサを夕方に行うという可能性を広げることを望んでいます。

 それ故、まず教皇様は水と薬の服用はもはや断食を破らないということを確立しました。またある種の状況下において断食を緩和しました。1957年に、『サクラム・コミュニオーネム』という文書でもって、教皇様は断食を3時間とするよう法を改正しました。

 教皇パウロ6世は1964年11月に現在の規律を導入し、これが教会法919条の基本となっています。

以上
**********

(感想)
 ミサ前の断食は実にいい慣習だと思う。特に朝起きてから最初に口にする食べ物が聖体の場合、空腹感も助けて、聖体を肉と魂で味わうことができると自分の経験からも言うことができる。

 断食する時間が長くても、短くても、大切なのは心であることは言うまでもない。暴飲暴食をして前の晩から断食をしても、ミサの前に心を整えることには役に立たないだろう。それよりはミサのある日は食事や飲み物を敢えて少ししかとらないようにして小さな犠牲を奉げる方が私には良いように思える。
スポンサーサイト
2011/07/27

派遣の祝福時の跪きについて

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は2011年6月28日の記事から(原文はコチラ


質問
 ミサの最後の部分で、私の小教区の司祭は立ったまま、「頭を垂れ、祈りましょう」と言うと、全会衆は直ちに跪きます。司祭はそれから拝領祈願を唱え、派遣の祝福を行い、閉祭りの挨拶を告げます。お知らせはちょうど拝領祈願の前にあります。それから、私たちは全員立ちあがり、閉祭りの歌を歌います。ミサの閉祭時は跪く又は立つのどちらかを選ぶことができるのでしょうか?(イギリス、マンチェスター市、R.D.さん)

回答
 ミサ閉祭に向かう通常の流れは以下の通りです。聖体拝領の後、司式者は座り、沈黙のうちに感謝の祈りを捧げ、好むところに従い、残りの信者は座るか跪きます。この間に、感謝を奉げるための黙想を招いてくれる聖歌を歌っても構いません。

 それが終わったのち、会衆と司祭全員が立ち上がり、司祭は拝領祈願を歌うか唱え、会衆はアーメンとそれに答えます。

 お知らせがある場合、この拝領祈願の後に行います。必要であれば、会衆に座るように招いても構いません。

 司祭が通常の祝福(「主は皆さんとともに。(中略)全能の神の祝福が皆さんのうえにありますように」)を与える場合、会衆は立ったままで祝福を受け、そのまま閉祭の挨拶、閉祭の歌と続きます。

 会衆のための祈り(prayer over the people)又は荘厳な形式の祝福を与える場合、助祭、助祭が不在時には司祭が会衆に「神の祝福を受けるよう、頭を垂れて祈りましょう」と呼びかけます。会衆は立ったまま頭を垂れ、一方で司祭は会衆に向けて手を伸ばし、祈りを歌うか唱えます。

 祝福の各式文の終わりに、会衆はアーメンと答えます。祈りの終わりに司祭は「全能の神の祝福が皆さんの上にありますように・・」と唱えます。

 会衆が司祭の祝福を受けるために跪くべきであるとするルブリカは全くないのですが、これが頭を垂れることの代わりとして合法的な慣習とされている地域もあるようです。

 荘厳な形式の祝福は一般的に大祝日や他の重要な節目に用いられます。また四旬節や復活節といようような典礼における大切な季節の間は特に毎主日に用いても構いません。

 ローマミサ典礼書の新しい訳(訳注:英語版のこと)における新しい変更点の一つが、2012年の四旬節からですが、四旬節において日ごとに異なる会衆のための祈りを司祭が唱えてもよいというものです。これらの伝統的な祈りは典礼改革の前のミサ典礼書には乗っていたのですが、教皇パウロ6世によるミサ典礼書からは省かれたものでした。これらの祈りはラテン語規範版の第三版(2001年)で再び取り入れられました。

 荘厳な祝福と会衆のための祈りの主要な相違点は、荘厳な祝福では3種類の式文が一般的に用いられますが、会衆のための祈りで用いられる式文は一つだけです。他の相違点は文体です。祝福は会衆に向けられており、会衆の上に神の祝福があるよう祈願します。会衆のための祈りは直接神に向けられており、神の恩寵を願います。

 例えば、昇天祭で使用される式文の一つは以下のようなものです。

イエズスが栄光に輝き、御父の右に座られていることを皆さんは信じています。約束された通り、世の終わりまでイエズスが皆さんとともにおられる喜びを感じることができますように。

他方で来年からの復興した会衆のための祈りでは、四旬節第一主日で以下のように祈ります。

主よ、私たちは祈ります、惜しみない豊かな祝福があなたの民の上にありますように。艱難において希望が育ち、誘惑において美徳が強められ、永遠の贖いが確実なものとなるために。私たちの主キリストをとおして。

以上

(感想)
 寄せられた質問にある、派遣の祝福時の跪きは、マクナマラ神父ははっきりと答えていないが、特別形式の典礼における動作を一般形式のミサに取り入れたものなのか、昔からの習慣がそのまま残っているのかのどちらかなのだろう。質問者がこの美しい慣習に好意的なのかどうか分からないが、私はこのような慣習がある小教区は素晴らしいものだと思う。

 今回の記事の翻訳で、実はミサ典礼書のラテン語規範版の第三版に、「会衆のための祈り(Oratio super populum)」が復興したことを実は初めて知った。伝統回帰が今や典礼の最新の流行であるようにすら思える。日本におけるカトリック教会がこの流行に敏感になってほしいと強く願うところである。
2011/07/23

侍者服と祭壇布の色について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は2010年2月9日の記事から(原文はコチラ。)

質問1
 侍者と大人の奉仕者が司祭や助祭の祭服とあった色のスータンを着ることは今は適当なのでしょうか?私は今日行った教会で、大人の奉仕者(朗読者)が白のアルバではなく、緑のスータン(司祭と助祭の祭服に合わせるため)に、白色の短衣を着て、上から緑色のケープを羽織っているのを見つけました(この小教区は色を合わせるためにあれこれ買ったのかと思うと、ゾッとしました)。まるで聖公会のようです。現在、こういったものは「流行」しているのでしょうか?奉仕者が白のアルバとチングルム以外の服を着ることが認められているのはどこでしょうか?(米国オクラホマ州、バートルズビル市、K.S.さん)

質問2
 祭壇布はいつも白色ですが、ミサ聖祭や他の典礼のために祭壇に別の色の布を用いることは許されているのでしょうか?(インド コヒマ市、R.G.さん)

回答
 これらの質問は装飾に関するものなので、これら2つを一緒に回答します。

 ローマミサ典礼書総則119項cと339項は現在の規定を簡潔に要約しています。119項では以下のように書かれています。

「香部屋において、司祭、助祭及び他の奉仕者の祭服(参考、337項から341項)は様々な儀式の形式に応じて準備されなければならない。(中略)c.他の奉仕者についてはアルバ又は正式に法で認められた祭服を用意する。アルバの形態により必要でない場合を除き、アルバを着るものは全てチングルムとアミクトゥスを使用すべきである。」

 これらの規定はアメリカ合衆国司教協議会による1994年6月の指針の最新版により、最近、少し緩められました。

「この指針は司教区で作成中の指針の土台として用いても構わない。6番『侍者、祭壇奉仕者、朗読者、その他の信徒奉仕者はアルバ又は他の適当な祭服又は品格のある服装を着用して構わない(ローマミサ典礼書339項参照)。全奉仕者は同じ祭服を着用すべきである。』」

 アルバとチングルムはどこでも使用して構わないとなっていますが、普遍的規定及び各国ごとの規定は共に、意図的に現地の習慣に門戸を開いたままにしています。これらは地域によって様々であり、各司教は自身の司教区向けに規則を定めても構いません。

 大部分の地域では、大人の奉仕者は、アルバ又は一般には白又はオフホワイトの同じような服を使用しています。スータンと白い短衣を使用する地域もあります。子供の奉仕者ではもっと様々です。例えば、イタリアでは大部分の子供の侍者は白または赤のスータンに白い短衣をを使用しますが、「タルチシアン」を使用する地域もあります。これは一種のアルバで、色はオフホワイトで肩から足元にかけて赤い二本の縦じまが走り、古代ローマのチュニックを思い起こさせるものです。

 ポーランドやバルト海諸国の一部では、大人も子供も普段着の上に白い短衣だけをまとってミサ仕えをしているのを見ることがあります。

 私は緑色のスータンを見たことは決してありませんし、奉仕者の祭服を典礼の季節に合わせようとする努力も見たことがありません。これはある地域で確立された慣習なのか、新しい試みかのどちらかです。これが新しい典礼の流行であるかは大変疑わしいと思います。主任司祭に疑問をぶつける前に規則について司教区の典礼に関する部署に相談することが必要でしょう。

 2番目の質問に関して、ローマミサ典礼書総則304項の米語訳にある以下の規定は、アメリカ合衆国での適用に特に向けられているものですが、多くの他の地域でも等しく適用できると思います。季節ごとに色を変えるアンテペンディウム(又はフロンターレ)はラテン典礼において昔から続く慣習であり、典礼の季節感を示すことを助けるために使用することが許可されています。

 主の記念を執り行うことへの敬意から、またこの記念が行われる祭壇の上で主の御体と御血が奉献される宴席への敬意から、白い布が少なくとも一枚あるべきであり、その形状、大きさ、装飾は祭壇のデザインとあったものにする。アメリカ合衆国の司教区においては、祭壇布に加えて、他の布が使用される場合、のある白い布が少なくとも一枚あるべきである。食卓を覆う一番上の布(つまり、祭壇布自身)が常に白色であるならば、他の布の色はキリスト教的尊敬又は祝祭の意義を持つ色を用いても構わない。

以上

(感想)
 侍者服については小教区ごとの特色が出て、その共同体の典礼に対する考え方や美意識が分かるので見ていて面白い。修道服を似せた侍者服を着る共同体もあれば、典礼色に合わせたリボンをチングルム代わりに着用する共同体もある。侍者の服装が見苦しい共同体は、やはり典礼もお粗末に感じるのは私だけだろうか。
2011/07/19

中国政府公認教会のミサについて

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は2008年4月29日の記事から(原文はコチラ)。

質問
 私は1カ月ほど、中国の上海に滞在する予定です。カトリック教会は私が中国政府公認のミサに行き、聖体を拝領することを許しているのでしょうか?(アメリカ、ジョージア州アセンズ、T.W.さん)

回答
 中国の政府公認教会の状況は非常に複雑になっていますが、カトリックの旅行者は現在の教会の不幸な状況に対して特別の承諾を示すことなしに、その教会のミサに出席し、聖体拝領を行うことができます。

 『エキュメニズム新指針 その原則と規定の適用』(1993年)ではカトリック信者が正教会又は聖座と一致していない東方諸教会の典礼で聖体を拝領することを許しています。

 中国の「公式」カトリック教会は、不法な状況にあるにもかかわらず、ほとんど常に教皇様と完全な一致を望んでいます。普段はミサで教皇様のために祈っています。そして、この教会の中には中国政府と聖座の両方から何らかの方法で認められてきた場合もあるのです。だから、こうした教会のミサで聖体を拝領することは可能になります。

 教皇様の中国のカトリック信者に宛てた2007年5月の手紙で示されたように、聖座は中国の教会との和解を図り、全ての中国のカトリック信者と適切な関係を築くことができるよう、中国政府との理解を進める道を探そうと積極的に働きかけています。

 中国を旅行するカトリック信者は確かに聖座と完全に一致している共同体のミサに出席するべきです。しかし、これは必ずしも可能又は賢明ではないので、「公式教会」に出席することを選んでも構いません。けれども、主日の義務を果たすためにそうする義務はありません。

 教会の長い歴史を見れば、司牧者と信徒が教会への忠誠と政府への忠誠との間で選択せざるを得ないという状況がしばしばありました。例えば、フランス革命の間、全ての聖職者は法によって、「聖職者基本法」に忠誠の宣誓を行うことを強いられました。

 革命の信念から宣誓を受け入れたものもいましたが、恐怖からそうしたものも多く、また戦争と危機の時代に自らの信徒が秘跡を受ける機会を取られたままにならないようにするため、宣誓を行ったものもいました。変化は主に規律的なものであって、教義的な性格ではなかったので、取るべき正確な態度について教会当局にも混乱がありました。

 勇敢にも宣誓を拒否したものは国家から科せられる法的な罰則が増えていくことを受け入れました。最初は罰金と自らの司教区や小教区から追い出されることであったのですが、革命がテロルへと進行するにつれ、宣誓を拒否したものは亡命、投獄及び処刑へと急速に直面することになりました。

 神は被害を受けたものの犠牲に報われました。フランスの教会は革命の灰から立ちあがり、ほとんど100年にわたって成長を享受します。その成長を特徴づけていたものは、多くの新しい修道会や国際的な慈善団体の設立、強い宣教熱、聖体と聖心への刷新された信心、そして多くの聖なる人々、例えばジャン・ヴィアンネ、アントワーヌ・フレデリック・オズマン、リジューのテレジアでした。

 弱い人々への最終的な審判は神のみが下せます。多くの人にとって、宣誓は革命の過酷さから保護するものにはなりませんでした。きっと多くの場合、殉教者は弱い人々のためにも死に、彼らが悔い改め忠実さへの道に帰るために、恩寵を勝ち得たのでしょう。

 中国で起きていることは一部分でしか同じでなく、その被害はずっと長引いているのですが、十字架のもつ救いの考え方はもう一度実りを生み、忠実なもののの犠牲は無駄にはならないと私たちは確信できます。

以上

(感想)
 中国で滞在している日本人カトリック信者も少なくないだろうから、この翻訳記事で安心した人がいれば幸いである。 
 
 今回の記事ではフランス革命時のカトリック教会を取り上げていた点が面白いと思った。時の政府の干渉によって教会が迫害され、引き裂かれそうになっている事態は過去にもあったこと、そして神の恩寵は迫害のゆえに増し加えられ、豊かな実りをもたらすという事実は、キリシタンの歴史を持つ日本のカトリック信者にとっては実感できるものではないだろうか。
2011/07/17

ミサで様々な姿勢をとる理由について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は2009年5月19日の記事から(原文はコチラ)。

 なお、手元に公式訳がないため、翻訳文中で引用されている『ローマミサ典礼書総則』は拙訳である。

質問
 私はカテキスタ(教理の先生)で、若者にミサを教えています。いつも出くわす質問で、それについて何の情報も見つからないものが、ミサの中で共同体がとる様々な姿勢があり、唱えられる祈りによってとる姿勢が決まっているのは何故かというものです。この姿勢がある特定の時に取られる理由を多くの人が尋ねます。姿勢の中には明確なものもあります。例えば、ミサの始まりで、立つことはイエズスを代表している司祭を迎えることを意味していると思います。しかし、中には明確でないものがあります。だから私たちの司教区で使用されている姿勢のリストを送りますので、多くの若者や子供が尋ねる様々な質問に答えるのを助けてください。私が間違っていないことを確かめるために、明確になっているものも含めています。(マルタ、T.B.さん)

回答
 質問者は自分の司教区で採用されている姿勢のリストを提供してくれました。各々の姿勢について個々に答えることはこのコラムの紙面を超えてしまうでしょうから、同じ目的に役立つと思える別の方法で答えることを許してもらいたいです。

 ローマミサ典礼書総則43項にミサで会衆が取るべき姿勢は以下のようになっています。

 会衆が立つべき箇所は以下の通りである。つまり、入祭唱の始めから、または司祭が祭壇に近づいていく間から、集会祈願の終わりまで。福音書の前のアレルヤ唱の間。福音朗読の間。信仰宣言及び共同祈願の間。奉納祈願の前の招き「Orate,fratres」から、ミサの終わりまで(但し、以下で示す箇所は除く)。

 座るべき箇所は以下の通りである。福音書の前の聖書朗読の間。答唱詩編が唱えられている間。説教の間。奉納の準備の間。また状況が許す場合、聖体拝領の後の聖なる沈黙が守られている間、会衆は座る又は跪いても構わない。

 会衆は聖変化の間、エピクレーシスから信仰の神秘まで跪くべきである。アメリカ合衆国の司教区においては、サンクトゥスを歌う又は唱え終わった後から、奉献文の終わりまで会衆は跪くべきである。但し、健康上の理由、場所の不足、会衆が大規模に参加している場合、またはその他の重大な理由によって跪けない場合は別である。跪かないものは司祭が聖変化の後に跪くとき、深く礼をすべきである。地元司教が別に決定しない限り、アニュスデイの後、会衆は跪く。

 同一のミサにおける動作と姿勢の統一という観点から、助祭、信徒の奉仕者又は司祭がミサ典礼書で指示されていることに基づき指示することに会衆は従うべきである。


 アメリカ合衆国の司教区のために特別に言及されていること、つまり奉献文の間中及びアニュスデイの後に跪くことは、既に会衆の慣習として確立している他の地域でもふさわしく保持されても構いません。聖座からの最終的な承認が下りるまでの間、現地の司教協議会は現地の必要性に対して特別の適応を行うことができます。

 見てきた通り、典礼における基本の姿勢は立つことです。立つことは権威に対する敬意を示す自然な姿勢です。このため、司式者の入堂及び退堂時、福音が読まれる間、ちょうどイスラエル人が神の御言葉を聞く時まっすぐ立っていたように、会衆は立ちます。実際、立つ姿勢はユダヤ人の祈りにおいて通常の姿勢であり、この習慣がキリスト教にももたらせたことはカタコームにある壁画からも判ります。

 今日、ミサにおける荘厳な祈りと関連する時はいつでも、会衆はほとんど立ったままです。まっすぐ立つことは黙示録の7章9節及び15章2節で見られる通り、天国の選ばれた人々の姿勢です。教父たちはこの姿勢を神の子たちの聖なる自由をあらわすものとみなしてきました。聖バジリオは聖霊に関する論文の中で以下のように述べています。

「週の始めの日、私たちは立って祈るが、その理由を全て知っているわけではない。復活の日(又は「再び立つこと」。ギリシャ語の「アナスタシア」)に、立って祈ることで私たちに与えられた恩寵を思い出す。それはキリストともに立ち、『上にあるものごとを求める』ことを私たちが義務づけられているからだけではなく、その日が私たちにとってある意味、私たちが望んでいる時代のイメージのように見えるからである・・・」(27章)

 御復活との関係から、ある種の祈り、例えば聖人の連祷は立ったまま祈り、主日であっても復活節の間でも跪くことはしないと典礼は規定しています。

 座る姿勢は博士が教える姿勢、司式するものの姿勢であるので、司教は自分のカテドラに座ったまま説教を行うことができます。他方で、それは注意深く聴く人の姿勢でもあります。だから、ある場面で、例えば福音書以外の聖書朗読の間、説教の間、奉納の準備の間、望むなら、聖体拝領の後、会衆は座るように招かれています。古代や中世の教会の大部分は会衆席がなかったのですが、会衆は聖書朗読や説教の間、床に座るよう招かれており、使徒行録20章9節やコリントの教会への第一の手紙14章30節で見られるように、使徒の時代から習慣なのでしょう。

 跪く姿勢は、聖ステファノが殉教へと倒れる前に跪いていたように、元来はとりわけ強烈に個人的に祈るための姿勢とされていました。また聖ペテロや聖パウロが通常の祈りや瞑想の時にこの姿勢をとっていたことも知られています(使徒行録9章24節、20章36節及びエフェソの教会への手紙3章14節)。

 しかし、典礼においては、悔い改めの姿勢の場合以外、この姿勢は最初のうちは採用されていませんでした。ニケーア公会議(325年)は悔悛者が主日に跪くことを禁じており、聖バジリオは私たちが跪くのは罪が私たちを地面近くまで投げ付けいることを行為で示すためだと述べています。徐々にこの姿勢がとりわけ内包する悔い改めの意味を失い、特に中世において、跪く姿勢に深い尊敬と崇拝の意味が追加され、今日に至っています。このようにすることで、ミサにおける跪く姿勢はまっすぐ立つ姿勢によって表現された感情や態度を強化するようになっています。

 もう一つの姿勢がお辞儀する姿勢で、この姿勢は尊敬と敬意を意味し、崇拝を意味する文化もあります。頭を下げてお辞儀することの招きは会衆に対する祝福や祈りに先行して行われます。ミサの間、グロリアでイエズスの御名が読まれる時、信仰宣言で受肉の秘儀が読まれる時、全会衆は頭を下げてお辞儀をします。このようにすることで、この姿勢は典礼の式文で言及された秘儀の重要性を強調します。

以上

(感想)
 カトリック教会のミサにおける姿勢についておさらいするつもりで今回はこの記事を訳した。この記事でミサにおける普遍的な決まりでは、とるべき姿勢は4つあること、つまり立つこと、座ること、跪くこと、頭を下げてお辞儀する、があり、それぞれにどのような意味があるかが簡潔にまとめられているよい記事だと思った。

 跪きやお辞儀と比べ、立つことや座ることが立派な意味をもったミサにおける姿勢であることを忘れてしまいがちである。だが、立つ姿勢こそミサにおける祈りの基本的な姿勢なのだから、でだらしなく立たないよう注意しなければならない。暑い季節が続く時期こそ、自戒の意味を込めて。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。