2011/09/24

列聖と不可謬権について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は列聖に関する質問で、2011年8月23日の記事から(原文はコチラ)。

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質問
 去る2月にヴァチカン宮殿で、グィド・マリア・コンフォルティやルイジ・グゥアネッラやボニファチア・ロドリゲス・デ・カストロのために行ったように、教皇が3人の福者の列聖調査に関する公開の通常枢機卿会議を開いている場合、福者を聖人とするという枢機卿会議での宣言は不可謬の宣言なのでしょうか?(米国ペンシルバニア州、ヴィラノヴァ、R.Jさん)

回答
 「否」又は、少なくとも「まだです」というのが、簡単な答えになります。理由は枢機卿会での決定はその性質が法的なものであって、神学的なものではないからです。

 公開の枢機卿会議とは特定の目的のために教皇によって召集される枢機卿の集まりです。他の人々、例えば司教座首席秘書、ローマ控訴院の監査人、他の高位聖職者も公開の枢機卿会議に出席しても構いません。その目的は一般的には新しい枢機卿を昇格するためか、又は、少なくとも技術的に、福者の列聖に関する枢機卿の意見を聞くためです。

 技術的にと私が書いたのは、一般的に枢機卿はすでに自らの意見を述べており、列聖は既に決定したことだからです。ですから、今日では枢機卿会議は皆で儀式的に賛意を示すある種の法的なフィクションになっています。枢機卿会議の終わりに教皇は枢機卿の意見を受け取り、列聖式の日取りを伝えます。

 枢機卿会議の法的な性質は福者ヨハネ・パウロ2世の教皇としての行為の一つから伺えます。2005年2月に教皇は自分が出席できなかった枢機卿会議に関して国務長官に手紙を送っています。

 「私は福者の列聖調査の最終判断のために今日、2月24日に公開の通常枢機卿会議を祝うために、ローマ在住の枢機卿、大司教及び司教を招集していました。体を気遣うために、テレビを通じて私の住まいからこの会議を見守るよう言われています。枢機卿殿、予定している会議を私の名前で終える権能を与えるので、この会議の議事運営をお願いします。

 それ故、世界中の枢機卿達から、ローマ在住の大司教及び司教から書き物ですでに示された好意的な意見に従い、以下の5名の福者の列聖式の日を2005年10月23日の日曜日に設定するつもりであることを伝えたい。その福者とは、福者ヨゼフ・ビルウィスキ司教、福者ガエタノ・カタノソ司祭(ヴェロニカ姉妹会、聖顔宣教会の創設者)、福者ジグムント・ゴラドフスキィ司祭(聖ヨゼフ姉妹会の創設者)、福者アルベルト・ヒュルタド・クルチャガ神父(イエズス会)及び福者ニコシアのフェリクス(俗名はフィリッポ・ジャコモ・アモロソ)(カプチン会の修道士)・・・

 公開の通常枢機卿会議の出席者と祈りのうちに一致し、枢機卿殿、私は全員に使徒的祝福を送りますので、六時課の典礼を行うようお願いします。」


 ご存知のように、聖体に関するシノドスの閉会のミサの中でこれらの福者を最終的に列聖したのが、ベネディクト16世でした。

 それ故、枢機卿会議が不可謬権の行使であることを示していないのは明らかです。まず教皇は一人の枢機卿に宣言することを付与しています。次に宣言は列聖式の日取りの発表であって、列聖自身ではありません。

 教皇自身がある人を聖人であると宣言する時にのみ不可謬権は行使されます。宣言はラテン語の式文で行われます。翻訳すると大意は以下の通りです。

「長期にわたる熟考、幾たびの神へのとりなしの祈り、ローマの兄弟たちの多くへの意見聴取の末、聖なる三位一体を記念し、カトリック信仰の称揚及びキリスト教的生命の増進のため、私たちの主イエズスキリストの権威、使徒聖ペトロ及びパウロ、並びに他の聖人の権威により、朕は福者某を聖人であると宣言し、彼(彼女)の名を聖人録に含め、全教会によって彼らが聖人たちの中で敬虔に祝われることとする。」

 上記の場合、ベネディクト16世はヨハネパウロ2世によって決められた日の列聖式の計画を進めました。少なくとも理論的には、ベネディクト16世は延期にしたり、前倒しにしたり、列聖式を中止にすることさえできました。そのような仮説的でありえないようなケースでは、列聖の手続きはすでに終わっているので、未来の教皇は列聖式のために別の日を設定できただろうと私は思います。しかし、実際の列聖式が終わるまで、福者は聖人の称号も典礼的な名誉も付与されることはできないのです。

 列福は教会の関与の度合いが同じであることを示していませんが、ベネディクト16世がヨハネパウロ2世によって既に決まっていた列福を無期延期したことは注目に値します。これは列福予定者に関する確かな新情報がその間に浮上したからで、ベネディクト16世は列福を進める前に白黒をはっきりさせる必要があると考えたからです。

以上

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(感想)
 日本ではあまり話題にならない列聖に関する質問であった。日本ではなぜか列聖の運動と言うのはあまり熱が入っていないような気がする。聖人は教会の精華であり、聖人に関心のない共同体はやはり霊的にも関心のない共同体だと私は思うのだが。

 数年前に長崎で江戸時代のキリシタンの列福式が盛大に執り行われたが、彼らの列聖運動については東京で暮らしていると全く伝わってこない。反原発や平和を求める何とかのチラシや署名簿は教会に余りある一方で、尊い日本の福者へのとりなしを求めるカードなんかは用意されていない。

 「Credo in Sanctorum Communionem(聖徒の交わりを信じる)」と日々宣言する日本のカトリック信徒が、この翻訳を読んで聖人への関心を持ってくれれば幸いである。
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2011/09/19

ミサの中心について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回はミサと祭壇に関する質問で、2011年8月16日の記事から(原文はコチラ)。
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(質問)
 ミサにおいて、中心となるものはどこでしょうか?誰なのでしょうか?何なのでしょうか?祭壇ですか?聖櫃ですか?司式者ですか?私がこう質問するわけは、とりわけ、不和(不満)が生じ、私たちの小教区の一つで深刻な対立が起きているからです。司祭の入れ替わりの激しいことも会衆の混乱を助長しています。というのはそれぞれ自身の信念や確信に基づいて、ある人はこう言い、別の人はああ言うからです。私がこう質問する別の理由は、しばしばサンクチュアリの設えが違うことがよくあるからです。私たちのケースで言うと、聖櫃は祭壇に向かって右手にあるので、香部屋から司式者の椅子、祭壇及び朗読台に達する前に祭壇の前を通り過ぎます。どうか最新の典礼の考えとあなたの見解を教えてください。(リベリア、モンロビア市、V.C.さん)

(回答)
 感謝の祭儀における真の唯一の中心はキリストとその救いの神秘であり、残りすべてはその周りをまわっています。

 キリストが中心であることはミサの中で様々な方法で表現され、それは教会建築の構造においても表現されています。

 建築的観点から言えば、祭壇が中心であるべきです。アメリカ司教協議会は『生きる石で造られた(Built of Living Stone)』という文書の中で祭壇の中心性を説明しています。

§56 聖体において、典礼に集う人々はキリストの生と死と復活を記念し、現存させる儀式的な犠牲の食事を祝い、「主が来られるまでその死を」述べ伝える。祭壇は「聖体が全うされる感謝の中心」であり、その他の儀式がその周りに位置づけられる中心点である。カトリック教会は「祭壇はキリスト」であると教えているため、祭壇の構成は主が体現されていた高貴さ、美しさ、力強さ、単純さを反映すべきである。新しい教会ではただ一つの祭壇だけを設け、「信者に一人のキリストと教会の唯一の聖体を表すようにする」。

§57 祭壇は内陣において自然と焦点となり、「司祭がその周りを歩きやすいよう独立して立っているべきであり、ミサは会衆と向き合って奉げるべき」である。一般的には祭壇は床に固定された土台をもち、生きた石(ペトロの手紙一 2章4節)であるイエズス・キリストを示すために、自然石でつくられた机の部分をもつ。机の脚(支え)は「ふさわしく強固なものである限りはどんな種類の素材で」作っても構わない。アメリカでは固定式祭壇に自然石以外の素材を使っても構わない。ただし、それらの素材が価値のあるもので、強固で、適切に作られおり、地元裁治権者のさらなる判断におかれる限りにおいてである。新しい教会を建立する小教区は祭壇の種類や新しい祭壇に適した素材に関する司教区の指示に従わなければならない。

 §58 祭壇の大きさ又は形に決まったものはないが、それは教会と調和のあるものであるべきである。大きさや形は祭壇の性質を、つまり犠牲を奉げる場所として、キリストが共同体を養うためにその周りに共同体を集めた食卓として、反映されるべきである。祭壇の寸法について考える際に、小教区として内陣ある他の主な造作が祭壇とと調和しているのかを確かにしたいところだろう。祭壇の机の部分は司式司祭、助祭、そこで奉仕する侍者が集まれるだけの大きさがあり、ローマミサ典礼書とホスチア及び葡萄酒が入っている祭器具を支えることができるようにすべきである。効果や中心となる品質は祭壇の位置、大きさ又は形だけが関係しているのではなく、祭壇のデザインとその設計が価値のあることも関係している。祭壇は内陣の中心に、そして教会の中で注意の中心となる所に設置すべきである。

 §59 感謝の祭儀の間、祭壇は教会のあらゆる場所から見えなければならないが、祭壇の位置を高くして典礼に集う人々から視覚的又は象徴的分断を引き起こすほどであってはならない。祭壇をどう高くするかは、車いすが必要な奉仕者又は他の障害を持った奉仕者が祭壇に近づくことができるかのかという点から見出すことができるだろう。

 §60 教会の歴史と伝統の中で、祭壇はしばしば聖人の墓の上に設置されたり、聖人の聖遺物が祭壇の下に安置されてた。祭壇に聖人の聖遺物が存在することは、祭壇の上で祝われる聖体は聖人たちに聖性をもたらした恩寵の源であるという教会の信仰を証言している。殉教者又は他の聖人の小さい聖遺物を祭壇石に置き、それを祭壇の机に安置するという慣習は第2ヴァチカン公会議以降変更された。殉教者や他の聖人の聖遺物は祭壇の下に安置しても構わない。ただし、聖遺物の大きさは人体の一部であると認識できるほどの大きさであり、疑いのない真正なものに限られる。聖遺物は祭壇の上や祭壇の机の上の祭壇石の中に安置されることはもはやない。


 この文書はアメリカに適用されるものですが、この点に関する教会の普遍的な教えや指針を反映しています。

 ミサの間、中心となる他の場所も祭壇に関連付けらています。御言葉の祭儀では朗読台や感謝の祭儀のために祭壇に登る前後に祈りで共同体を導く場所である司祭席があります。

 聖櫃はミサの間、関心が向けられる中心ではありません。たとえミサ以外の崇拝のために聖櫃は教会建築の中で目立った場所、中心をしめるべきでものであるとしてもです。ミサの間、聖櫃が内陣の中に位置している場合、ローマミサ典礼書総則274項はこう示しています。

 司祭と助祭及び他の奉仕者は祭壇に近づく時と祭壇から離れている時にひざまずく。ただし、ミサの祭儀そのものが行われている間は除く。

 もし聖櫃が内陣にあり、祭壇の後ろにない場合、奉仕者は聖櫃に向かって跪きます。

 司祭はキリストのペルソナを通じて働くのですが、必ずしもミサの中心ではありません。司祭が自分に注意が向くことを避け、キリストの神秘に会衆を導こうとする時、司祭は実際最も印象的に見えます。事実、祭服や聖歌の使用、特別な位置は司祭自身と言うよりむしろ司祭の奉仕職を強調することを意味しています。司祭は神と人とをつなぐ橋(pontifex)であり、橋は遠目からは称賛を受けるものかもしれませんが、役に立つのは私たちが橋を踏みつける時だけなのです。

以上
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(感想)

 ミサで焦点が当たるべきはキリストとその救いの神秘であるが、モノでいえばそれは祭壇である。なぜなら祭壇はキリストの犠牲をつうじた救いが実現される場であるからだというのが上の記事のエッセンスだろう。完全に同意である。第2ヴァチカン公会議後の典礼改革で、ほとんどの教会で祭壇が新造されたが、「主が体現されていた高貴さ、美しさ、力強さ、単純さを反映」したように見える祭壇の少ないこと!この記事を読んだ方が祭壇への関心を持ってくれれば幸いである。
2011/09/11

産後感謝式(Churching)について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は伝統的な祝福の儀式に関する質問で、2011年7月26日の記事から(原文はコチラ)。
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(質問)
 私の妻は、神の御旨により、まもなく最初の子供を産みます。かつては一般的であった「産後感謝式(churching)」として知られる儀式のことを考えています。これが廃れてしまった理由はこの儀式が妊娠と出産を「不浄」と見なす考えを表し、それ故に女性の尊厳を損ねているという捉え方のためなのだろうと思っています。儀式的な清めに関する現代の誤解全般に立ち入らずに、この敬虔な慣習を司牧的にずっとためになるものへと奨励することができたように思います。驚異的なこと、すなわち一人の新しいキリスト教徒を世に送り出したことですが、それを成し遂げた女性が、感謝を奉げ祝福を受けるために神の祭壇に近づく。これのどこが悪いのでしょうか?(宗教的実践から遠ざかっている人々にとって、これは教会と関係をもつ機会としても赤ん坊の洗礼後の教育の機会としても役に立つでしょう)私の見る限り、儀式の中で、それを行いたい主任司祭を禁じるものは何もありません。おそらく何かコメントをいただけるのでしょう?(アイルランド、ダブリン市、P.C.さん)

(回答)
 最初に私からのお祝い申し上げ、新しい生命の贈物のためにお祈りします。20世紀初頭のカトリック百科事典によると、産後感謝式とは以下のようなものです。

 (産後感謝式とは)出産から回復した母親に教会が与える祝福である。この祝福の対象者は、合法な婚姻関係において出産したカトリック信者の女性で、カトリック教会の外で子供が洗礼を施されることを許可しなかった場合である。教義ではないが、母親が家を離れることができるようになるとすぐ自分自身で教会に赴き、幸いなる贈物を神に感謝し、司祭の祝福によって子供をキリスト教的に育てるのに必要な恵みをえることは敬虔で称賛に値する慣習であり(ローマ儀式書)、初代教会の時代にまで遡るものである。式文によればこの祝福は母親の善益のためにのみ向けられているので、子供を連れてくる必要は必ずしもないが、多くの地域で、子供を神に特別にささげる敬虔で確立した習慣が広まっている。というのは、ちょうどキリストの母が御子を神殿で永遠なる御父に奉げるために連れて行ったように、キリスト教徒の母親は自らの子供を神に奉げ、子供のために母親に与えられる祝福を得ることを切に願っているからである。この祝福は、通常の形では、変更又は削除せずに、母親に与えることになっている。それはたとえ子供が死産の場合、または洗礼を受けずに子供が亡くなった場合でもある。

 産後感謝式は厳密には主任司祭の役割ではないが、礼部聖省は1893年11月21日付けで主任司祭がそれを求められた場合、そうしなければならず、別の司祭がこの儀式の執行を依頼された場合、教会や私設でない礼拝堂の上長に知らせれば、司祭はそこで儀式を行っても構わないということを決定した。この祝福は教会又はミサが行われる場所で与えなければならない。というのはど産後祝別式(Churching)という言葉自身が教会への感謝の巡礼を示すものであり、典礼規定が「教会に行きたいという気持ち」、「司祭は母親を教会に導く」、「母親は祭壇の前で跪く」という表現の中で示しているからである。それ故に、第二バルチモア総会はミサが行われていない場所での産後祝別式を禁じている(246項)。

 母親は玄関ホール又は教会の中で跪つき、火のついたロウソクを持ったまま、司祭を待ち受ける。司祭は白色の短衣と白色のストラを着用し、灌水器を使って聖水を十字に振りかける。詩篇23の「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住む者は主のもの」を唱えたのち、司祭は母親にストラの左の端を与え、母親を教会の中に導きながら、「神の神殿に汝は入り、汝に子の実りを賜れた幸いなる童貞マリアの御子を崇拝せよ」と言う。母親は祭壇の一つの前に進みいで、その前で跪く。その間に司祭は母親の方を向き、祝福の目的を表現する祈りを唱え、再び聖水を十字に振りかけ、「全能の神、父と子と聖霊からの平和と祝福が汝の上に降り、永遠にとどまらんことを。アーメン」と言って儀式を終える。


 儀式自身には儀式的な清めの要素は全くないのですが、ユダヤの習慣、特に聖母マリアの御清めと関連付ける地域もあります。これは義務的なものではなく、儀式が行われる時と場所によってこの慣習は地域ごとに様々です。

 この慣習がほとんど廃れた理由はいろいろあります。出産と穢れの長々とした関係よりむしろ、廃れたのは出産に伴う危険が現代社会では格段に減じたとうことのためであるだろうと思います。

 かつては出産後数時間以内、又は数日以内に新生児に洗礼が施されることも一般的でした。ですから母親たちはその洗礼にしばしば立ち会えなかったのです。この状況は今日かなり珍しいものとなっています。

 こうした新しい状況のため、改訂された幼児洗礼の儀式書では出産後の母親の祝福(望むなら産後感謝式)は洗礼式の終わりの儀に統合されています。父親の祝福も含まれているのは、子供をキリスト教徒として育てる責任から何人も除外されていないからです。

 祝福に関する儀式書にはまた「出産後の母親の祝福の儀式」があります。この祝福は洗礼式に参加できなかった母親にのみ授けられます。この儀式の導入では「洗礼式の中で母親と全出席者に新生児の恵みを神に感謝することを促した祝福から母親が善益を汲み取る機会を与えるために、特別な儀式をもつことは適っている」とあります。

 この祝福は必ずしも教会の中で行われておらず、司祭、助祭又は認可された信徒の奉仕者によって与えられても構いません。

以上
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(感想)
 今回「産後感謝式」と翻訳した「Churching」という祝福式を初めて知ったが、実によい習慣だと思う。今は子供の洗礼式の中で両親の祝福を行うようになっているが、分離して別に産後感謝式を行った方が、母親本人にとっていい機会になると思う。次に子供が生まれた場合は是非司祭に産後感謝式を頼んでみよう。ラテン語でやってくれるかな?
2011/09/02

交唱とローマ昇階唱について

カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は聖歌に関する質問で、2011年7月19日の記事から(原文はコチラ)。

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質問
 今、ミサの入祭唱と拝領唱を英語に翻訳し、5線譜標記するプロジェクトに取り組んでいます。どんな歌い手でも、たとえ単旋律の理論や伝統に暗い人でさえ、これらの美しい宝にある音楽的な真理と霊的な力を見出すことができること、これが私の望みです。作業の中で、現在アメリカで用いられているミサ典書にある式文と『ローマ昇階唱(Graduale Romanum)』のそれとに多くの不一致があることに気付きました。例えば、『昇階唱』における典礼年A年の復活節第6主日の拝領唱は「Non vos relinquam orphanos(わたしはあなた方をみなしごにしておかない)」ですが、アメリカのミサ典礼書では「Si diligitis me(あなた方はわたしを愛しているなら)」となっています。ミサ典礼書ではいずれの典礼年においても、この拝領唱を使っています。この場合、両方の式文は復活節第6主日の福音(ヨハネ14章15~21節)に見出すことができますが、典礼年B年とC年では当てはまりません。そこでは『昇階唱』は福音書から引用していますが、「Si diligitis me」はそうではありません。『昇階唱』掲載の式文はほとんど常にミサ典礼書のものよりも聖書や特定のミサのテーマにより関連のあるものです。もっと他の例を引用することもできますが、こうなった理由と顛末にとても関心があります。新しいミサ典礼書ではこれが正されているのでしょうか?(アメリカ、シカゴ市、E.Lさん)

回答
 新しい翻訳でもまたこの日曜日のために「あなた方は私を愛しているなら」がありますが、それはローマミサ典礼書の規範版に対応しているためです。伝統的にラテン語のミサ典礼書では、一般的に福音書のテーマに関連した拝領唱を一つだけしか載せていません。

 『ローマ昇階唱』はミサで用いられる聖歌を内容とする公式の典礼書です。『昇階唱』はミサ典礼書にあるテキストだけに限定されることなく、様々な音楽の選択肢を幅広に提供しています。

 この二つの書籍にある不一致、そう呼ぶことができるのであれば、それはおそらく出版された時代の違いのためでしょう。『昇階唱』は1974年、つまりミサ典礼書と新しい3年周期の朗読を導入した朗読集が出てから4年後に出版されました。『昇階唱』の編集者はそれ故に各年の朗読に適した新しい歌を提供できるだけの十分な時間がありました。他方でミサ典礼書のテキストはA年に限っていました。

 選択肢についてはローマミサ典礼書総則の48項と87項で概略されています。

48 入祭の歌は聖歌隊と会衆が交互に、あるいは先唱者と会衆が交互に、あるいは会衆または聖歌隊のみが全部を通して歌う。アメリカの司教区においては入祭の歌には4つの選択肢がある。(1)ミサ典礼書の交唱又はローマ昇階唱に記載された曲または別の曲をつけたローマ昇階唱の詩編(2)簡易昇階唱の季節の交唱と詩編(3)詩編と交唱を内容とする別の聖歌集で司教協議会又は司教によって認可されたものの中の聖歌(4)同じように司教協議会又は司教によって認可されたもので、典礼に適当な歌。

 入祭に当たって歌を歌わない場合、ミサ典礼書の中にある交唱を会衆、または信者の幾人か、あるいは朗読者が朗唱する。そうでなければ司祭自身が唱える。その場合、司祭は初めの勧めのことば(31参照)としてそれを適応させることもできる。

87 アメリカの司教区では拝領の歌のために、4つの選択肢がある。(1)ミサ典礼書の交唱又はローマ昇階唱に記載された曲または別の曲をつけたローマ昇階唱の詩編(2)簡易昇階唱の季節の交唱と詩編(3)詩編と交唱を内容とする別の聖歌集で司教協議会又は司教によって認可されたものの中の聖歌、答唱又は韻律の形で編集されている詩編を含む(4)上記86と調和のとれた典礼に適当な歌。

聖歌隊だけ、または聖歌隊もしくは先唱者と会衆とによって歌われる。歌われない場合には、ミサ典礼書にある交唱を、信者によって、または幾人かによって、あるいは朗読者によって朗唱することができる。そうでなければ、司祭自身が、拝領してから信者にキリストの体を授与する前に唱える。


 上述の通り、典礼規則は拝領の歌について、『昇階唱』またはミサ典礼書のどちらかに用いられているものを含めて、様々な選択肢を許容しています。こうした多様性があるため、ミサ典礼書自身に別の交唱を載せることは不必要であると考えられたのでしょう。しかし、3年周期に合わせた別のものを用意しているミサ典礼書の翻訳もあります。

 音楽家が他所から歌を導入すると言う安易な方法ではなく、公式の典礼のテキストに優先順位をつけているのをみてたいへん嬉しく思います。このようにして会衆はミサで歌うのではなく、ミサを歌うことを熱望できるのです。

 クリストフ・テイエッツェ著『典礼暦年のための入祭唱』(2005)では、入祭唱の歴史の素晴らしい研究と、ミサで使用するために入祭唱と韻律を踏んだ詩編を組み合わせるという提案が行われています。

以上
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(感想)
 今回の記事の中でマクナマラ神父の「会衆はミサで歌うのではなく、ミサを歌うことを熱望できる」という言葉が大変印象に残った。世俗的で抒情的な曲ではなく、カトリックのミサが何より聖書的であるなら、入祭唱、奉納の歌、拝領唱で用いるべきは聖書の詩編や福音書からの章句であると思う。それもその日のミサの福音やテーマと関係のあるものがいい。

 感傷的な歌詞に平易な曲をつけた聖歌が目立つ昨今、グレゴリオ聖歌のように祈りがそのまま歌となるような、日本語の聖歌の登場を願ってやまない。
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