2012/01/21

告白の祈りで胸を叩くことについて

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回はミサでの動作に関する質問で、2011年12月13日の記事から(原文はコチラ)。
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質問
 英語版ローマミサ典礼書の新しい翻訳で、告白の祈りの箇所に特定すべきものが欠落していることに疑問を感じています。ミサ典礼書によれば、告白の祈りを唱えるものは「わが過ち、わが過ち、わがいと大いなる過ちによって(”through my fault,through my fault, through my most gravious fault”)」と言う時に胸を叩くこととなっています。わたしは公会議前には三度胸を叩いていたことを覚えている年齢ですが、この慣習がローマミサ典礼書を使う他の言語グループによって、カトリック教会の他のどこかの場所で保持されているのかどうか気になっています。この慣習は一般的なものでしょうか?それとも新しいミサ典礼書で明確に回数が特定されていないのは、一度だけ胸を叩くことが望まれていることをただ意味しているのでしょうか?(米国、ペンシルバニア州ガリツィン、A.L.さん)

回答
 もとのラテン語の典礼規則には「自らの胸を叩き(”percutientes sibi pectus”)」とあり、はっきりと回数の特定が欠けています。他方で特別形式では胸を三回叩くべしと明記されています。

 しかし、この典礼規則を翻訳する際、小さいが、しかしはっきりと分かる変化が加えられています。以前の翻訳では、過ちを1度だけ告白し、信者は「その胸を叩く(strike their breast)」べきだとしていました。従って、叩く回数は1回と特定されていました。現在の翻訳では、過ちを三度告白する前に、「胸を打ちながら、唱える(striking their breast, they say)」となっています。

 ここで動名詞が用いられていること(訳注:訳文にstrikingが用いられていること)は継続した動作を示していますから、典礼規則に数が明確に示されていないなら、継続する動作を示す表現が指し示すところは、胸を叩く回数は個人的な過ちを告白する回数に対応しているのだと思います。これは、どんな場合でも大部分の人にとって自然と納得できることでもあると思います。

 これはスペイン語やイタリア語を使用する国では慣習によって確認されています。これらの国では罪の告白のときに三度胸を叩くことは常に保持されています。スペイン語のミサ典礼書は典礼規則を「golpeandose el pecho,dicen:」と翻訳しており、それは1回又は複数回を意味しています。これらの国では司祭も信者も胸を三度叩くことは広く行われている慣習でもあります。

 第二ヴァチカン公会議は「不要な繰り返し」の削除を求めていますが、全ての繰り返しが不要であるとは言われていないはずです。意思疎通の形式には「重複性」、つまり外側からの干渉を克服し、重要性を強調するために厳密に必要とされているよりも、意味を伝える動作を繰り返すこと、と専門的に呼ばれているものを必ずもちいるものがあります。

 告白の祈りで言葉と動作を三度繰り返すことはそのような場合に当たるのでしょう。以前の翻訳では胸を叩く動作を省くこと又はその意味に十分関心を示さないことがかなり容易でした。三度の繰り返しはその重要性を強調し、私たちが唱えていることの内面的な意味に集中することを助けてくれます。

 しかしながら、上述の議論は完璧なものではありませんし、一度胸を叩くことは典礼法規の有効な解釈でもあるということは認めなければなりません。

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(感想)
 日本における告白の祈りはラテン語規範版のそれに大きく変更を加えているのが現状である。動作の点でいえば、今回話題になっている胸を叩くという動作が全くない。さらに祈りの言葉から「わが過ち、わが過ち、わがいと大いなる過ち」が削除されている。

 ミサの目的は罪の赦しを神に願うことであると、聖トマス・アキナスがどこかで定義していたと思う。だから、告白の祈りは単に外面的でなく、内面的に深められるべきものだが、今の日本語の告白の祈りは余りに簡素化しすぎて、注意を相当集中させていないと、あっという間に過ぎ去ってしまう。

 私の知っている司祭は工夫して、告白の祈りの中で、「私は思い、言葉、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました」と唱えた後に長いポーズを取り、沈黙の時間を作り、罪の自覚を促そうとしている。初めは儀式が中断した感じがしたが、後からその司牧的な配慮に感心したものである。

 特別形式のミサで告白の祈りで「mea culpa,mea culpa, mea maxima culpa」と唱えながら、三度胸を叩くたびに、本当に自分は同じ誤りを繰り返したのだなぁと感じることがしばしばある。そして三度胸を叩くミサを一度でも経験すると、通常形式のミサの告白の祈りでも同じように心を静め、内面に向かうことができるのが不思議だ。
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2012/01/16

1月15日の特別形式ミサの感想

 周知していたローマ典礼の特別形式ミサは無事に終わることができた。今回は侍者の一人としてミサに参列する機会を得た。感じたことを色々書かせてもらう。

 まず司祭に奉仕することで、儀式自体への参加意識を強く感じた。

 次に祭壇に近いことで、ミサの神秘を五感で体感できた。今回は香炉担当だったが、司祭がオッフェルトリウムの時に祭壇に献香する時にそれを強く感じた。香炉から立ち上る香り、司祭の動き、聖歌が響く中で香炉の鎖がチャリンとなる音。五感で感じる全てが、まさにミサは唯一の犠牲を神秘的な形で奉げるものだと自然に感じさせてくれた。

 最後にミサで司祭の祈る姿。特別形式ミサでは司祭の挙止振る舞いには必ず祈りが伴う。例えば、香を香炉に司祭が加える時も、祭壇に香炉を振る時も司祭は会衆席には聞こえいない程度の声で祈りを唱える。そうした所作を近くで見、謙遜な気持ちになった。神と人との垂直の関係。それが特別形式ミサでは明瞭に示されている。

 今回のミサには常連さんに加え、初めて見かける顔が多かった。小さな子供を連れた親子、外国人のグループもいた。ミサ後の懇親会で池田神父も参加者が増えていることを大変喜んでおられた。この辺りは教区ニュースでミサの案内が掲載された効果なのかもしれない。

 人手不足で案内が十分でなかったという反省点もあった。ミサに参列した人が喜びを周囲に伝えるような環境作りに来月も取り組んでいきたい。


0115 ミサの様子
ミサの様子

19聖変化

オッフェルトリウム

0115 説教
説教する池田神父
2012/01/15

特別形式によるミサの案内(2012年1月)

若葉修道院長フランチェスコ赤波江謙一神父の寛大なる許可により

ウナ・ヴォーチェ・ジャパン主催

ローマ典礼の特別形式による歌ミサのお知らせ

公現後第二主日

公現祭

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司式アウグスチヌス池田敏雄神父(聖パウロ会)

1月15日(日) 午後3時より

プログラム
2時 開場
2時半より ロザリオの祈り
3時より ローマ典礼の特別形式による歌ミサ
ミサ後、ウナ・ヴォーチェ会員との懇親会があります。どなたでも歓迎します。

場所:若葉修道院(東京都新宿区若葉1-5) 地図はコチラ
最寄駅:地下鉄四ツ谷駅

By kind permission of Rev Fr Francis Kenichi Akabae,
Prior of Wakaba SSP house:

Missa Cantata in the Extraordinary Form of the Roman rite

2nd Sunday After Epiphany

池田神父_説教
by Fr.Augustine Toshio Ikeda,S.S.P.

Organised by the Una Voce Japan(UVJ)

Sunday 15th January,3pm

Programme:
2pm:Open
2.30pm: Rosary
3pm: Sung Mass in the Extraordinary Form of the Roman rite
Refreshments with UVJ members will follow in nearby restaurant. All people welcome.

Location: Wakaba SSP house, 1-5 Wakaba, Shinjuku-ku, Tokyo. Find location here.
Nearest underground: Yotsuya
2012/01/14

ミサで小型ミサ典書を用いることについて

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は小型ミサ典書(Hand Missal)に関する質問で、2011年10月25日の記事から(原文はコチラ)。
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質問
 会衆は小型ミサ典書を用いて、朗読も含めた典礼を追いかけるべきでしょうか?主の御言葉は聴かれることを意図されており、読まれることを意図していないという司教や神父もいます。小型ミサ典書はただミサの他の箇所のためのものなのでしょうか?(米国、ロードアイランド州、グリーンビル、M.R.さん)

回答
 これは自由に議論をしてよい論点なのですが、一般的な好みとして(ミサに)参加を促す手段として本を使用することはすすめられていないということも事実です。

 1998年にアメリカ司教協議会の典礼委員会は『参加を促す手段の出版に関する指針(Guidelines for the Publication of Participation Aids)』という素晴らしい文書を出しています。ことばの典礼に関して、同文書はこう述べています。

 ミサで宣べ伝えられる神のみ言葉によって、聖霊は「私たちが外で聴いたことが内面にその効果をもたらされる」(『ミサの朗読に関する概略紹介』8項)。しかし、このことが起きるのは、聖書朗読がよく聞こえ、明瞭で、知的になされる場合(前掲書14項)、十分なマイク設備が用意されている場合(前掲書34項)に限られるだろう。

 神のみ言葉を典礼に参加する全員が明瞭に聴くことができることは明らかに望ましいことである。というのは、「神のみ言葉を聴きながら、教会は建設されていったから」(前掲書7項)。このため、み言葉が効果的に宣べ伝えることが不可能な状況でないなら、参加を促す手段として聖書朗読箇所や公式祈願の印刷はすすめられない。しかし、こうした状況(訳注:み言葉が効果的に宣べ伝えることが不可能な状況)においても、会衆に朗読箇所の印刷されたものを配る手段に訴えることよりも、聖書が効果的に宣べ伝えることを確保するための手段をとることが望ましい。


 それ故、神のみ言葉や公式祈願に沿って読むことよりも、それらを注意深く外的及び内的に聴くことが理想となります。小型のミサ典書を使用することは、今日、特別形式のミサと呼ばれているミサに与るために、もともと20世紀の初めに広く普及しました。小型のミサ典書はラテン語のミサ式文と国語によるそ翻訳を載せ、信徒の手に齎すことで、それを用いることが典礼運動の中での前進を示したのでした。

 通常形式のミサが国語で聴こえる形で現在普通に行われていることは、小型ミサ典書をただ脇に置くべきだと言うことを意味しません。ミサの前に朗読箇所や祈りを黙想しながら読書することで、小型ミサ典書は積極的な参加を準備するための素晴らしい手段となります。それはまた儀式や祈りの中にある考え方を把握し、それ故、集中を維持することを助けるためにも用いられるでしょう。

 主観的な要素もあります。様々な正当化できる理由のために注意深い外的及び内的な聴きとりという理想の状態に達成することが難しい人々も少なくありません。カトリック信者がミサの間、小型ミサ典書を用いることで霊的な益があるなら、それを使うことは自由であると私は思います。

 アメリカ司教協議会の典礼委員会がこのような指針を必要と感じた事実からして、彼らが小型ミサ典書や他の参加を促す手段の使用をただ廃止したいとは思っていないことの証拠です。

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(感想)
 私が典礼に関心を持つことになったのは、ある小型ミサ典書を手にしたことがきっかけだった。その意味で小型ミサ典書に関する思い入れは人一倍ある。いまや私の手元には6種類の小型ミサ典書がある。半分は通常形式のもので、半分は特別形式のものである。

 私が最初に手にしたのは、デルコル神父編『ミサの友』(世の光社、1985年)だった。この本は私が見聞きしている典礼の形よりも、オリエンス宗教研究所『聖書と典礼』が紹介するものよりも、何十倍も豊かな典礼が存在することを私に教えてくれたものだ。

 今では『毎日のミサの友』(サンパウロ、2003年)を日本語の通常形式の小型ミサ典書として使っているが、デルコル神父の方は、一部ではあるが、ラテン語原文の式文を掲載していたり、日本語版と規範版の相違箇所を教えてくれるので傍に置いている。

 私自身の小型ミサ典書の使い方は、やはりミサ前後の予習・復習用がメインだ。通常形式でも特別形式でも小型ミサ典書の文字を追いながら、ミサを追いかけるのは私にとってはミサで祈った感じがしないから控えている。この辺はマクナマラ神父も最後に書いているとおり、好みの問題なのだろう。

 小型ミサ典書はカトリック信者にとって大いに益のある書物なのにもかかわらず、日本で現在入手できるものは極めて限られている現状は大いに問題だと思う。先にあげた『毎日のミサの友』もamazonでは新刊では購入できないようだ。特別形式については状況はもっとひどく、日本語対訳が載っているものでは、チーグレル『彌撒典書』バルバロ『毎日のミサ典書』があるが、いずれも絶版となって久しく古本屋でも見つけることが難しくなっている。

 信仰年を迎えた2012年。通常形式でも特別形式でも日本語の小型ミサ典礼書が整備される年になってほしい。
2012/01/06

主日ミサの移動又は代替について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は主日ミサに関する質問で、2009年1月6日の記事から(原文はコチラ)。
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質問
 私たちが住むここネパールの状況は非常に変わっています。というのもこの国では日曜日は通常の労働日だからです(多くのアラブ諸国でもそうだと思います)。だから、長年(30年以上)、日曜日のミサは全て土曜日に、この日は人々が完全に参加することのできる唯一の日だからなのですが、移動しています。しかし、このことはいくつか混乱を起こしています。というのは土曜日にミサに与ることで主日の義務を果たしたと感じることが難しいという人々がいるからです。また日曜日にはどのミサをあげるのかという別の問題もあります。同じミサを繰り返すところもあれば、主日に土曜日のミサを奉げているところもあります。このような状況のため、しばしば土曜日に祝う祝日がなくなっています。私は個人的には土曜日のミサが大好きです。というのも両方の日にミサを奉げることに慣れているからです。これらに加えて、この国の暦はグレゴリオ暦と異なっています。月がグレゴリオ暦の月のおよそ半分ぐらいの所から始まります。公式の行事ではすべてこの暦を使わなければならないのですが、ほとんどの人々もまたこの暦を用いています。いくつかのケースで私たちは議論をしてきました。例えば、月の初金はいつになるのか?ネパール暦によるのか、グレゴリオ暦によるのか?(ネパール、カトマンズ、P.P.さん)

 私たちの国では非常に頻繁に小教区の祝日を日曜日に祝います。例えば、聖ユダ教会なら、聖ユダの祝日という具合に。これは正しいのでしょうか?もし主日の聖書朗読箇所が読まれずに、祝日に固有の別の箇所が朗読された場合、それは正しくないと思うのですが。(スリランカ、コロンボ、M.Jさん)

回答
 両方の質問共に主日の典礼に関わることなので、両方を一度に答えようと思います。

 最初のケースですが、キリスト教徒にとって主日は移動できる祝日ではないということを思い出すことが重要です。1世紀から3世紀の間、日曜日が労働を行う通常の日であったにもかかわらず、キリスト教徒は日曜日に集まっていました。キリスト教徒の多くは大きなリスクをとった奴隷たちでした。このことはしばしば早朝に起きだすことや、夕方に忍び出ることを意味しました(もちろん、私たちもキリスト教徒であるというだけで痛みを伴う死につながってしまう可能性のある時代にいます)。古代の殉教者たちのある集団は自分たちに判決をくだした裁判官に「わたしたちは日曜日なしには生きていくことができません」と言ったことは有名です。

 主日のミサはカトリック信者の生活にとってその価値又は重要性をいささかも失っていませんし、最近の出来事が示す通り、自分たちの信仰を守ることで現代のカトリック信者が昔ほど英雄的でなくなっているわけでもありません。ただ同時に、カトリック信者の生活の現在の状況や、できるだけ多くの民の精神的な必要性を手当てしたいという教会の思いがいくつかの革新を生むことができます。

 ではネパールやアラビアにおける主日の状況や同じような別の状況は何なのでしょうか?

 まず主日は常に主日のままですから、その日に固有の典礼が常に祝われるべきです。同じように信者は可能な限り主日又は土曜日の夕方のミサに出席すべきです。必要かつ有用であれば、司祭は通常でない日にミサを自ら進んで奉げるべきです。

 日曜日が通常の労働日であるため金曜日又は土曜日の朝に主日の典礼を行う許可が与えられているケースでは、これが主日を別の日に移動したケースではないということをが大切になります。むしろ、これは土曜日の夕方又は日曜日にミサに与ることが不可能であるカトリック信者が3年サイクルによる聖書朗読と祈りによって与えられる豊かさを失わないようにするための司牧的な配慮です。

 法的に言えば、日曜日のミサに出席することが客観的にできない人々は法の規定の対象から外れますので、実際、金曜日又は土曜日にミサに出席する義務はありません。そういった人々が出席する場合、非常によいことを行ったことになります。そして司牧者が典礼的な最上の食物を与えることで、霊的な必要性に応えるよう行動する場合、主日を他の日に移動しゃいたという印象を避けるように注意深くいることは共通しています。

 質問者が示した通り、このことは土曜日に当たるいくつかの祝日を失うことにつながります。共同祈願や説教で祝日に言及すれば十分な場合もあるでしょうし、日曜日の朗読箇所を使用する代わりに土曜日の朝に祝日を祝うことは司牧的に言ってより役立つ可能性がある場合もあるでしょう。

 地元の暦が異なる場合、従うべき適正な暦が何かというもう一つの質問は難しい問題です。このような場合、地元司教が決定を下す人になるでしょう。必要なら、司教はグレゴリオ暦に結びついたある種の典礼上の祝日、例えば聖心の祭日、の日を変更する許可を聖座に願い出るかもしれません。

 初金又は初土のような慣習は信心によるものであり、公式な典礼の行為ではないので、地元の必要にこの習慣を調整することは何ら困難がないように思います。

 最後にスリランカの質問者に対して答えます。小教区の守護聖人は小教区内では祭日にランクされますので、できるだけ多くの教区民がミサに出席できるようにミサをもっとも近い日曜日に移動することは許されています。

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(感想)
 日本は明治政府がグローバルスタンダードであったグレゴリオ暦を採用したおかげで、日曜日は休みであり、主日のミサを本来の曜日に祝える。日本のキリスト教徒の人口に占める割合を考えると、キリスト信者にとって非常に恵まれている環境にあるのだろう。とはいえ、サービス業に従事する人が増えるにつれ、日曜日だけでなく土曜日も休めない人が増えてきているのではないかと思うが。

 いずれにしろ、主日のミサに与ることができるというのはそれ自体が恵みであるのだから、ミサを奉げる司祭と会衆が主日を大切にし、よく準備することが必要なのであろう。

 マクナマラ神父の記事によれば、初代教会の信者は日曜日が休み出なかったにも関わらず、非常なリスクを冒してでも、日曜日に集会を持ったのだという。この箇所が今回の翻訳の中で一番印象に残った。
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