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2011/03/26

紙製のプリフィカトリウムは問題ない?

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUP。今回は2010年1月26日の記事から(原文はコチラ

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質問

 私たちの主任司祭はリネン製のプリフィカトリウムの代わりに「高品質の」紙タオルを使っています。これによって、共同体の一部に強い困惑を生じています。おそらく紙タオルは週に一度燃やされているようです。この点について、主任司祭はこの慣習を変えたくないようです(主任司祭と典礼担当の司祭が交渉中)。この慣習は合法でしょうか?少なくとも、主を侮辱しているように見えますし、最悪の場合、聖体の価値に間違っているだけでなく、正確でないメッセージを与えるように思えます。(米国ニューヨーク州、T.A.さん)

回答

 ローマミサ典礼書総則には祭壇リンネル(訳注:祭壇周りで用いるリネン製の祭具一般をさす言葉)の材質について詳細な指針がありませんが、348項に一般原則を示しています。
 
 348 特定の素材を指定されている祭器及び祭服とは別に、他の備品類で厳格に典礼での使用を予定しているもの、又は他の目的のために教会に受け入れられているものについてはそれぞれの用途にふさわしく適したものであるべきである。 

 少なくともいえるのは、紙タオルは主の御体に触る用途に「ふさわしく適したもの」か、紙タオルを教会の典礼に従って祝別できるものなのか、議論の余地のあるところです。

 指針『贖いの秘跡』(訳注、2004年に典礼秘蹟聖省から発出)の57項及び120項にこのテーマについて詳細に言及している個所があります。

 57 特に主日の礼拝において(中略)規定に従って、威厳があり清潔な祭壇、祭服および祭壇リンネルが常に備わっていることはキリスト信者の共同体の権利である。
 
 120 祭壇に用いられる祭壇リンネル、特に御聖体・御血を受け取るものは常に清潔に保たれ、伝統的な方法で洗濯されるよう主任司祭は注意を払うべきです。伝統的な洗濯方法として、手づから下洗いした水を教会のサクラリウム(訳注:香部屋等に備えられている専用の流し台のこと)または適切な場所の地面に注ぐことは賞賛すべきことである。下洗い後のの洗浄は通常の方法で行うことができる。


 この指針では祭壇リンネルは適切な布で作られていることを明確に想定しています。また御聖体・御血に触れるもの全てに払われなければならない尊敬と注意を示しています。

 先ほどの文書ほど法的権威のないものですが、米国司教協議会の文書に、このテーマについて公式の文書類を非常に簡潔にまとめたものがあります。簡潔で使い勝手がいいので、全文を引用する価値があります。

 近年、典礼局は祭壇リンネルの管理・洗浄について複数の照会を受けているところである。以下の文書は2001年3月19日の典礼委員会で採択されたものであるが、祭壇リンネルを管理する人々に情報を与えるものである。

 典礼のために用いられるものは何であれ、それらが受ける祝別ゆえに、かつそれらが果たす用途ゆえに、ある聖的な性質を帯びる。であるから、感謝の祭儀の中で祭壇で使用する祭壇リンネルは聖なる神秘の準備と執行に使用されるのだから、注意深く敬意をもって取扱われるべきである。
 
 この簡潔な声明は典礼で用いられるがゆえに特別の尊敬を受けるに値する祭壇リンネルを尊敬を持って取扱うことが重要であることを反映している。これらの祭壇リンネルは派手でけばけばしいことは避けなければならないが、とはいえ美しく上質のもので作らるべきである。祭壇布、コルポラーレ、ブリフィカトリウム、マヌテルギウム及びパラは決して紙でなく、吸収性のある布で作られるべきである。

 祭壇リンネルは典礼に使用する聖具の祝別儀式書に従って、適切に祝別される。そのような聖具を多く祝別することはミサの中で、または信徒が参加しても構わない、独立した祝別式の中で執行されてもよい。

祭壇布について

 祭壇がキリストの生きた石であるように、祭壇布は主の記念と御体をお与えになる祝宴を祝うことを畏れ敬いながら、ちょうど祭服が司祭や奉仕者を荘厳に飾り立てるのと同じように、祭壇の尊厳さを増し加えるに美と形式によって使用される。とはいえ、そのような祭壇布は実用的な役目ももち、御血や他の聖なる要素からこぼれたものは何であれ吸収できなければならない。だから、祭壇布の材質は吸収性があり、容易に綺麗にできるものでなければならない。

 襞をとったもの又はフロンターレの形をとっている祭壇布もあるが、その形、サイズ、装飾は祭壇の様式に合わせるべきである。もし祭壇布が御血でしみができていないなら、サクラリウムでそれを洗う必要はない。しかしながら、注意を払い、祭壇布の美しさを保つために適切な洗浄法が用いられるべきである。祭具類や祭服、その他典礼で用いる備品を管理するの係の者が祈りを添えて仕事を行うことが適当である。

コルポラーレについて
 聖体や御血をいれた聖具は常にコルポラーレの上に置かねばならない。コルポラーレは助祭又は他の奉仕者によって、奉納と祭壇の準備の中で、広げられる。共同司式者が祭壇から聖体を拝領する場合、コルポラーレは全てのカリス及びパテナの下に置かれる。最後に、コルポラーレは脇机の上に、ミサの後に清めるために置かれている祭具類の下に置くことが望ましい。

コルポラーレの役割の一つは聖変化したホスチアのどんな小さなかけらをも受け止めることなのだから、祭具の間で聖変化したホスチアを必ず、コルポラーレの上で行うよう注意を払うべきである。コルポラーレは白色で、少なくとも主となるカリス及びパテナがその上に完全に置くことができるだけの十分な大きさをそなえるべきである。必要であるなら、一枚以上のコルポラーレを用いてもよい。コルポラーレの材質は吸収性があり、容易に洗うことができるものであるべきである。

聖体拝領が終わった後、コルポラーレの上に残った聖体のどんな小さなかけらもカリスの洗浄の過程で消化されるべきである。

 コルポラーレを洗う場合、まずサクラリウムで下洗いし、その後始めて洗濯石鹸で通常の方法で洗うべきである。感謝の祭儀の終わりに残っているどんな小さなご聖体の欠片をも包むことに役立つよう、折り目をハッキリつけて、コルポラーレはアイロンがけすべきである。

プリフィカトリウムについて

 プリフィカトリウムは通常、カリスとともに祭壇に運ばれ、カリスの口から御血を拭きとることやカリス類をきれいにするために使用される。その色は白であるべきである。御血がカリスから拝領され、付属の容器に注がれ、時にこぼれた時はいつでも、プリフィカトリウムはこぼれた御血を吸収するのに使用すべきである。その材質は吸収性があり、容易に洗濯できるものであるべきである。その材質は決して、紙や他の使い捨てることができる素材であってはならない。

 このような役割のため、プリフィカトリウムは常に御血で染みがつく。だから、まずサクラリウムで下洗いし、その後始めて洗濯石鹸で通常の方法で洗うべきである。プリフィカトリウムはカリスの口を拭うために使用しやすいようにアイロンがけすべきである。

マヌテルギウムについて

 ミサの規定によれば、奉納と祭壇の準備の間に司式司祭は手を洗うことになっている。この時に洗うのは(旧ミサのように)指だけでなく、手全体を洗うので、マヌテルギウムは十分に大きく、手を乾かすのに十分な吸水性があるべきである。手拭き布の色や材質は共に指示されていないが、「皿拭き布」、「バスタオル」又は純粋に世俗的に用いられる他の布の外見をさけるように努力を払うべきである。

その他の布類について

 その他の布類もミサで用いられても構わない。御血に虫やその他の異物が入らないようにミサでカリスを覆うためにパラを用いても構わない。パラを染み一つなくきれいに保つために、パラはきちんとした材質でできた着脱可能なカバーで出来ていなければならない。そうすればサクラリウムで容易に下洗いができ、洗濯できる。その日の典礼色又は白色のカリスベールはカリスが準備される前及びカリスが洗浄された後にカリスを覆うために適切に用いても構わない。

擦り切れたリネン類の処分について

 典礼で用いられるために祝別されたものを処分するときと同じく、擦り切れた兆候が見られ、もはや使用することができないリネン類は埋めるか、又は燃やすことで普通は処分されるべきである。

結語

 私たちが聖なるもの(たとえカリス、パテナ、典礼で用いる備品といったものほど重要がないものでも)を取扱う作法は神が感謝の祭儀の度に自らの教会に賜う恩寵に対して私たちが心を開いていることを養い表現するものである。だから、祭壇リンネルを懇切丁寧に扱うことで、教会はキリストの祭壇から受ける価の付けられない贈物への喜びを表すのである。


 この記事が示している通り、たとえその品質がどうであれ、祭壇で用いるために紙製のタオルを用いることで主任司祭は誤りを犯しています。もし主任司祭が説得を拒むようであれば、本件は司教にあげる必要があるかもしれません。

以上

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(感想)
 侍者や香部屋係を担当すると、必ずこの祭壇リンネルの扱いに最初戸惑うものだ。私がかついていた東京・瀬田カトリック教会はフランシスコ会の修道院・神学校が併設されていることもあってか、この祭壇リンネルの管理が極めて厳格で、取り扱いを間違って怒られたことを思い出した。

 祭壇リンネルの扱いが細かすぎるというきらいもあるが、それは全て、御聖体・御血に対する尊敬と謙遜を適切に表すためのものと思えば理屈はつく。人は体と魂をもったものだから、ただ気持ちの上で尊敬していれば、約束事を無視して取扱っても構わないというのは暴論だろう。
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