2011/04/18

年に1回の告解の必要性

カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUP。今回は2010年2月16日の記事から(原文はコチラ

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質問

司祭の多くが、教会の第二の掟(「少なくとも一年に一度罪を告白すること」『カトリック教会のカテキズム』2042番参照)にあるように、信者に年に少なくとも1回の告解を勧めています。

 しかし、ある司祭は教会法989条で「分別のつく年齢に達したすべての信者は、重大な罪を少なくとも1年に1回忠実に告白する義務を有する」とあるように、もし大罪がないなら、これは必要ではないというのを聞きました。理屈でいえば、この判断がもたらすものは最初の告解(初聖体の前の)の後、もし大罪がないなら、この秘跡を受ける必要はもうないということになります。

 実際、大罪を犯していないので、何年もこの秘跡を受けていない信者もいます。カトリック教会のカテキズム1457番は上述の教会法、「すべての信者は、分別の年齢に至った後は、重大な罪を少なくとも1年に1回忠実に告白する義務を有する」に言及しています。ここでは、告解は大罪にのみ義務的であると指摘しています。

ご存知のように、教会法989条は法的義務のものですが、カトリック教会のカテキズム2041番では教会の5つの掟も義務的な性格をもつことが指摘されています。教会法989条の法的義務と、教会の第二の掟の司牧的義務を区別するなら、矛盾はないと私は解釈しています。定期的で頻繁な告解を促すことを全く支持しているのですが、厳密に言うと、大罪がある場合にのみ、教会の第二の掟は義務的な性格をもつのでしょうか?(香港、G.M.さん)

回答

 この難問は文脈を見ることで解決できると思います。まず最初に教会法989条は前条の988条を直接受けているものです。

988条1項
 キリスト教徒の成員は洗礼後に犯し、教会の権能によって直接免じられておらず、かつ懸命な良心の究明の後、個別告解の場で認めていない全ての大罪を、種類と数において告白する義務を有する。
2項 
キリスト教徒は小罪もまた告白することを勧められている。


 そういうわけで、教会法989条は988条1項にある義務を果たすための最長期間は1年であるということを示しています。この理由のため、年に1回告白するという教会法989条の告解に関する厳格な義務は大罪に関するものであると考える教会法の専門家たちもいます。ある人がいかなる大罪も犯していないと想定した場合、この教会法は適用されないということになるでしょう。

 この観点から見ると、カトリック教会のカテキズム1457項が教会法989条を引用しているのは、聖体拝領前に大罪を告白する必要性を取扱っているからです。

 カトリック教会のカテキズム2042項では、脚注で教会法989条に言及していますが、「人間の召命、霊における生活」というタイトルでこの問題を取り扱っています。質問者が指摘されたように、カテキズムでは教会の第二の掟を守ることは、霊的成長にとって最低限要求されていることとしています。

 このため、教会の第二の掟は大罪に言及せず、大罪があろうとなかろうと、義務を課しているのです。そうすることで、年に1回の告解は「回心のわざと洗礼によるゆるしのわざとを継続させるゆるしの秘跡を受けることによって、エウカリスチアへの備えをさせてくます」とカテキズム2042項では述べられています。ここで、ゆるしの秘跡(告解)は大罪を免じるための義務的な手段ではなく、霊的成長のための一般的で、必要でさえある手段の一つとして捉えられています。

 カトリック教会のカテキズム要約もまた大罪のための必要性について触れていません。だから、同432.2項ではこの教会の掟を「罪を告白するために、最低年に1回はゆるしの秘跡を受けるもの」としています。

 かくして、カテキズム及びカテキズム要約は教会法理論という高みの世界から、キリスト教徒の生活という現実に降りてくるのです。

 年に1回という教会法の義務は大罪がある場合にのみ、義務を課すという考えは髪の上では良くても、多くの霊魂の導き手の経験によれば、1年またはそれ以上の期間にいかなる大罪も犯さないというのはめったにないことです。

 事実、何年もの間を通して大罪を避けられているというのは、定期的に頻繁に告解を行い、良心と神への愛に対する敏感さにおいて成長するために、ゆるしの秘跡を利用する霊魂にほとんど常に起きているものです。そのような霊魂はまた霊的成長のための他の手段、例えば、定期的な祈り、頻繁な聖体拝領、愛徳のわざを行う傾向があります。

 義務は年齢、障害、その他のよい理由で義務を果たすことのできない人には課されないということも思い出しておく必要があります。

 おそらく、問題は大罪という観念が薄まっているので、もはやそれが気づかれないということから生じているのでしょう。たまに罪は第六戒(訳注、「姦淫してはならない」)の違反にだけ限定されています。しかし、私たち司牧者は信者、そして自分たち自身にも、死にいたる罪は7つあること(高慢、物欲、色欲、憤怒、貪食、妬み、怠惰)、それぞれがそれぞれの方法で魂に毒を盛ることを思い出させる必要があります。

以上

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(感想)

 告解という秘跡が半ば義務的に頻繁に与えられていた時代は終わったとしても、キリスト信者が罪が昔と比べて犯さなくなったというわけではあるまい。言葉に出して自分の罪をいうことは何より自分の無力さを自覚させてくれる。ほぼ無条件に与えられる赦しほど、神の愛を感じられる瞬間はない。月1回受けている告解をこれからも続けていくことができますように!

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コメント

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月に一回の告解

告解を年一回で良いと解釈する方たちの気持ちがわかりません。
しかしそれが現実なのでしょう。

僕も月に一回告解をします。
しかし正直に言うと、毎回入念な良心の究明ができているわけではありません。
それでも、月に一回自分の「罪」を見直す習慣をつけることは、『自分の罪深さ否定する作業』『神への、自分への言い訳』から解放され、とても楽になります。
自分のうちに罪を探すことを重荷に感じることもありますが、告解をして許しを受けたとき、いつも心が軽くなるのを、イエス様に癒されていくのを実感します。

告解は聖体の秘跡とならんで、カトリック信徒に与えられた大きな宝ですね。
これからも月に一回の告解を続けられるよう、僕も祈ります。

コメントありがとうございます

りゅうさん、コメントありがとうございます。

>告解は聖体の秘跡とならんで、カトリック信徒に与えられた大きな宝で>すね。

同感です。

告解を大事に使って、霊的な成長に励みましょう!