2011/06/18

無味乾燥した典礼について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は2009年5月12日の記事から(原文はコチラ
*********
質問
 今日、典礼の精神が機械的で儀式的なパフォーマンスに陥っているように思います。私たちの典礼が余りに無味乾燥としているので、神への崇拝が自発的で有意義であり、礼拝への一体感と満足感を与えてくれるプロテスタントの教会に、多くのカトリック信者が行くようになっている地域がいくつもインドにはあります。あなたに寄せられる質問やあなたの回答の中には、魂に訴えかけないように思えるものがあります。現地の文化や必要性という観点から、有意義な典礼を広めていくことを考えるべきではないのですか?(インド、ディンディグル市、P.Jさん)

回答
 典礼の目的や特質に関する根本的な問題に触れる、この種の質問を時々受けます。

 何年にもわたって、このコラムでは典礼について多くの点を述べてきました。その中には、一見して技術的なもの、雲の上の話のようなものさえありました。しかし、私は常に読者の疑問を疑ってかからないようにし、彼らの疑問は教会のこころに従って典礼を捧げたいと言う真摯な望みから生じているのだと思っています。

 正確にミサを奉げると当然の結果として魂のこもらない機械的な儀式になるとは思いませんし、ルブリカ(ミサの規則)に対して無頓着な態度をとることが真正のキリスト教の当然の証になるとも思いません。両方の態度には良い信仰と偽善の両方があるのでしょう。しかし、これらは問題の核心に触れない個々人の欠点なのです。

 はっきりとカトリックとわかる典礼、それはキリスト自身からのもので、諸聖人の通功という大きな流れの一部なのですが、信者はそれに参加できる権利があると信じているがゆえに、私は典礼の規則に忠実であることを強く擁護します。

 質問者の誠意を疑いませんが、カトリックの典礼に関してプロテスタントの礼拝を特徴続けるやり方には私は異議を唱えなければなりません。私は外面的な形式よりもっと深くいく問題を前にしていると考えています。問題の核心は私たちの別れた兄弟にわくわくするような礼拝があるということではなく、私たちが信者にミサ聖祭と聖体に関する基本的なカトリックの教義を教え損なっているということなのです。

 どんなカトリック信者もミサ聖祭に出席することが意味するものをほんの少しでも感じています。つまり、それは主の受難、死及び復活に立ち会うことであり、不滅の御父に奉げられた信者の祈りが、キリストの至高の犠牲と合わさることができることであり、天からのパンを分かち合う機会を持つことであります。たとえプロテスタンの礼拝によりよい音楽やよりよい説教があったとしても、そのようなカトリック信者はこの特権をプロテスタントの礼拝と比較することができましょうか?

 同時にまた教会の典礼は現地の司教協議会によって決定されるように、現地の特性に容易に対応することができる柔軟性と豊かさを既にもっています。典礼教育の欠如という根本的な問題は別に、わたしたちの典礼を美しく深い精神的な経験へと変えることができる多くの宝、古いものも新しいものもありますが、それを使うことを放棄する又はほとんど使わないという問題があります。

 真のカトリックの典礼がもつ全ての可能性が用いられる時、ミサはどんなカトリックでない礼拝よりも一体感があり、自発的で有意義なものになります。違いは典礼において、ちょうどスポーツにおけるのと同じように、本物の自発性、参加、創造といったものはルールの範囲内で見出されるものであって、ルールの外側ではありません。

 典礼とは別に、カトリシズムには多くの祈りの形と信心会、それは歴史的なものから現代のカリスマ運動や教会運動まで、があります。これらの様々な表現はあらゆる形の魂の感受性や一体となる望みをプロテスタントのどんな個々のグループよりも満たすことができると信じしています。

 だからもしカトリック信者がプロテスタンの団体に移ってしまったなら、私たちは典礼を責めるのではなく、むしろ努力を倍にして、典礼を適切に行い、偉大な信仰の神秘という真実を告げ知らせるべきであると思います。

以上
*********
(感想)
 ローマミサ典礼書通りにミサを行うことを真っ向から擁護したものとして今回はこの記事を取り上げた。「本物の自発性、参加、創造といったものはルールの範囲内で見出されるものであって、ルールの外側ではありません。」というマクナマラ神父の言葉に強く共感する。
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント