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2011/06/26

ミサでホスチアを分割する箇所について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は2010年10月5日の記事から(原文はコチラ

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質問
 制定の叙述の中で、聖変化の言葉の前に、司祭は「(パンを)割って、弟子に与えて」と言いながらも、ホスチアを割らないのは何故でしょうか?つまり、なぜ司祭はホスチアを割ることを「アニュス・デイ」まで待つのでしょうか?この疑問が頭の中で鳴り響いている司祭がいると思っています。道理が通るようにと、実際、制定の叙述の間にホスチアを割る司祭がいるのはこういうわけなのでしょう。どうか私に手助けしてもらえませんか?(フィリピン、ケソン市、X.A.さん)

回答
 ホスチアをその時(訳注:制定の叙述の時のこと)に割るべきではない理由について話す前に、この習慣が訓令『レデンプティオニス・サクラメントゥム』の55項で特に言及されていたことを思い出しました。

「いくつかの地域ではミサ聖祭の聖変化の時に司祭がホスチアを割るという濫用がある。この濫用は教会の伝統に反している。これは非難されるものであり、すぐに正すべきである。」

 ラテン典礼の伝統では上述の時に儀式的にホスチアを割らない理由はいくつかありますが、それらの一部を説明しようと思います。

 制定の叙述はキリストの4つの行為、つまりパンをとること、感謝と賛美を奉げること、パンを割くこと、それを弟子に与えること、を描いています。これら4つの出来事が、聖公会の典礼学の大家であるグレゴリー・ディックスが感謝の典礼の「形」と呼んだものを構成しています。

 事実、ラテン教会は感謝の典礼と聖体拝領の典礼をこれら4つの出来事の周りに儀式的に組み立てています。パンを取ることはとりわけ奉納の儀式(訳注、「パンを供える祈り」のこと)によって示されています。感謝と賛美をささげることは奉献文の最も重要な特徴です。パンをを割くことは(アニュスディの時の)ホスチアの分割で行われ、パンを弟子に与えることは聖体拝領の時に行われています。

 制定の叙述は奉献文の中にあり、それ故に父なる神に感謝をささげるという文脈の中にあります。感謝と賛美をささげるための至高の行為とはキリスト、すなわち肉となった御言葉、の過ぎ越しの神秘です。制定の叙述の中で、教会は父なる神に永遠なる御子の業とこれを記念として行えという御子の御旨を物語ります。この効果ある記念によって、聖変化が起きるだけでなく、キリストの死、復活及び昇天を思い起こすことで救済の全神秘をも現わすのです。父なる神へのいかなる賛美と感謝の業も感謝の祭儀の間に起こることと等しくすることはできません。

 奉献文の目的が父なる神への賛美と感謝を奉げることなので、信者に対して劇的な動作、例えばホスチアを割ること又は「皆、これを取って」と言いながら何かを与えるような仕草をすることは場違いであり、この瞬間のミサの根本的な意味から遠ざけてしまいます。

 上で述べた議論は司祭がホスチアとカリスを手に取り、それを聖変化の後に信者に示すというラテン典礼の習慣もひとしく場違いであることも示唆していると提示されるかもしれません。神学的に言えば、聖体奉挙の動作は厳密には聖変化の有効性にとって必要ではありません。ホスチアとカリスの奉挙は歴史的に言えば、聖体を見たいという信心からの望みに応えるために導入されたということもまた事実です。

 しかし、その起源にもかかわらず、聖体奉挙はほとんど1000年以上にわたり教会の普遍的な典礼として賛同を博し、結果として何世紀にもわたり、真の実在の信仰を導き育ててきました。それゆえ、それは正当な典礼の有機的発展と見なされるに違いありません。聖変化の前にホスチアを割る仕草は同じ観点から見ることはできないし、それが特別に非難される理由はそれだけではないと思います。

 ローマ典礼では、聖体を分けることを奉献文の後で、「アニュスデイ」の歌と共に行われるようにしていますが、それは私たちが分かち合うのはただ普通のパンではなく、私たちの贖い主であるキリストであるということを強調しています。私たちは犠牲の宴に参加しています。慈悲と平和を求める私たちの願いはこの信仰によって強められます。聖変化の前に、すなわち感謝と賛美が終わる前にホスチアを分けることはこの意味に影響を及ぼします。

 最後の議論は、より弱くなりますが、儀式の論理という観点から行うことができるでしょう。もし「(パンを)割って」という御言葉が必然的に儀式的にその動作を行うことを暗示しているということを受け入れるなら、同じことが「弟子に与えて」という御言葉にも等しく適用されるでしょう。そうなると私たちは聖変化のための言葉を告げる前にホスチアを全員に分け与えなければならないでしょう。カリスを授けることをどう取り扱うのか想像ができません。

 もちろんこの議論はばかげており、ただ全ての儀式での言葉が動作を伴う必要はないことを、とりわけ典礼自身が御言葉のもっとも深い意味を十全な方法で説明している時にはそうであるということを指摘するのに役立つだけのものです。

以上

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(感想)
 今日はカトリック教会の大祝日である「キリストの聖体の祝日」に当たるので、聖体に関するこの記事を選んだ。私は今回の記事を読んで改めてミサ典書の素晴らしさを認識した。つまり、ミサ典書で決められている祈りと動作はすべて深い意味があるということ。その意味を知れば知るほど、ミサ聖祭に主体的に参画でき、ミサ聖祭を愛することができるということを。これからはアニュスデイの時、より一層意識的に祈ることができる気がする。

 最後に聖体の分割のシーンを描いた珍しい切手を紹介する。下の画像をクリックすると別ウィンドウで拡大した画像を見ることができる。

img098_圧縮3

 これは1968年にコロンビアのボゴタ市で開催された「第39会国際聖体会議」を記念したコロンビアの切手の初日カバーである。切手の中で、司祭の左腕にマニプルスが着けられている。マニプルスは一般形式のミサでは廃された祭服であるが、1968年という時代は典礼改革の移行期だったからまだ着用されていたのだろう。
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