2011/07/08

解説者の役割について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は2008年6月24日の記事から(原文はコチラ)。

 なお、手元に公式訳がないため、翻訳文中で引用されている『ローマミサ典礼書総則』は拙訳である。

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質問
 解説者の役割について洞察を与えていただけませんか?ここ合衆国では解説者は極めて一般的であるのですが、各教会での解説者の役割がばらばらであるように見えます。例えば、私の小教区ではミサの始まる前に、解説者が会衆に挨拶をし、会衆に誕生日や記念日を迎える人がいないか、訪問者はいるのか尋ねます。それから、普通は誕生日の歌や記念日の歌があって、解説者は5~6分の黙想を行い、新しい週のための助言の言葉を与えます。ミサの間は解説者はサンクチュアリ(聖域)の中に座り、手の合図で会衆に座るべきか、跪くべきか、立つべきかを指示し、会衆が歌おうとする歌の先唱等々を行います。ミサの終わりに、最後の祝福のまえに解説者は連絡事項を読み上げ、説教についてコメントを述べ、会衆に感謝を伝えます。私はこの解説者の役割はちょっと度が過ぎるように思いますが、私の主張を助けてくれるものを『ローマミサ典礼書』総則で見つけることができませんでした。助けていただけませんか?(米国ハワイ州 ケアアウ M.P.さん)

回答
 私はあなたが正しいと思いますし、この解説者の役割は少し度が過ぎていると思います。

 解説者の典礼における役割は、香部屋係、案内係、献金係と並んで、『ローマミサ典礼書』総則105項で以下のように述べられています。

 解説者は(中略)会衆をミサ聖祭に招き、それをよりよく理解する準備を行うという目的で、会衆に適宜、短い説明やコメントを行う。解説者の解説は細心に準備され、簡潔明確でなければならない。この役目を果たすために、解説者は会衆と向き合って適切な場所に立つが、それは聖書朗読台の上であってはならない。

 総則の352項は準備の必要性を強調しています。

但し、ミサの色々な部分に様々な選択肢が用意されているため、助祭、朗読者、詩編朗読者、先唱者、解説者及び聖歌隊はミサが始まる前に、各々が担当する式文はどれを使用すべきか明確にし、即席で間に合わせることがないよう注意をすることが必要である。調和がとれ、準備されたミサ聖祭は、信者が感謝の祭儀に参加する気にさせることを大いに助けるであろう。

 解説者について述べられている箇所はこれだけです。解説者が「適宜」介入するということは、何か特別なとき、例えば堅信又は叙階といった何か説明がいるときにこの役割は最も適当であると解釈できるでしょう。

 この解説者の役割は細心に準備されなければならず、特に人々がミサ聖祭に生きることを助けることに向けられているということが強調されているので、解説者の自発的な介入や説教に関する準備のないコメントは除外されるように思えます。

 総則の31項は特に、儀式の説明や結びの要約の仕事を司式司祭に割り当てており、解説者にではないこともまた忘れてはいけません。

 集まった会衆を司式するという役割において、儀式自身の中に定めれらている、ある種の説明を行うことも司祭の仕事である。(中略)加えて、司祭は信者に対して、当日のミサについては最初の挨拶の後、回心の儀式の前に、御言葉の祭儀については朗読の前に、奉献文については叙唱の前に、簡単な招きを行っても構わないが、奉献文の中では決して行ってはならない。司祭はまたミサの終わりの前にミサ全体についてまとめのコメントを行っても構わない。

しかし、総則の50項では当日のミサについて、短い言葉で招くことを信徒の奉仕者にも割り当てることができるとも定められています。

 確かに聖歌の歌いだしを行ったり又はミサの最後で通常のアナウンスを行うことは解説者の特別な役割ではありませんが、サンクチュアリ(聖域)にいる人の数を増やさないようにするためにはそれは実際的な方法です。それでもやはり、定めれた儀式への介入を制限するために歌を指揮するための別の手段を見つけることがよりよいことだと思います。

 必要な時はいつでも、会衆がとる姿勢を示す職務は伝統的には助祭または、先唱者のものでした。通常は特別な儀式、例えば叙階式の間の聖人の連祷、が行われる時にのみそれは必要となります。しかし、総則の43項ではこの役割は必要であるならば別の信徒の奉仕者に割り当てることが許されています。

 一つの同じ儀式における挙止動作の統一を保つ目的で、ミサ典礼書で指示されているものに従って助祭又は信徒の奉仕者又は司祭が与える指示に従うべきである。

 私はこのような指示は普通、特別な儀式、例えば叙階式における聖人の連祷、が行われる時、又は世界の様々な地域からの訪問者、そのような人々は別の習慣に慣れ親しんでいるものですが、が頻繁な場所においてのみ必要であると思います。

 別の言い方をすれば、一般の主日のミサにおいて舞踏術の動作や指示は脇に置いておいた方がよいと私は思っています。これらは確かに改革が始まった時期、人々が新しい儀式になれるまで必要であったのかもしれません。しかしほとんど40年近くの実践を経て、大部分のカトリック信者はいつ跪き、座り、立つのかを今や知っていると思います。

 同じようなことは詩編の1節が終わるたびに、又は共同祈願の祈りが終わるたびに先唱者が手を挙げる又は「答えましょう」という長く続いている習慣についても言えます。詩編の応唱が取りなしの祈りが目新しかった時には非常によかったのですが、今や少し劇のようで、気をそらせることもままあります。

 そのような動作はローマでの教皇様のミサでは入念に避けられているということは述べるに値します。沈黙、音楽が鳴りやむこと、又はオルガンの音によって、信者は答えるべき適切なタイミングが容易に分かるものです。

以上
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(感想)
 私は所属教会で解説者の奉仕グループに入っている。その奉仕の当番が回ってくる前に、解説者の役割を整理しておきたかったので、今回の記事を翻訳した。マクナマラ神父の考えに従えば、普通の小教区のミサでは稀にしか必要性がないというになるのだろうが、私は日本のような布教地では解説者の役割はあってもいいのかなと思う。

 解説者がミサの中でどのような役割を果たすかは、解説者の行動によって得られる効果と、解説者の行動によって失われる効果の比較することが望ましいように思われる。

 例えば、聖書朗読の度に解説者が「第一朗読」と呼びかけることで得られる利益は非常に少なく、逆にミサの流れを余計な言葉で遮ってしまうデメリットが大きい。他方で、会衆の聖体拝領の前に「聖体拝領はカトリック信者に限られる」とアナウンスすることは、聖体を汚聖から守るというメリットが大きいので、許されると思う。
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コメント

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配慮も過ぎると…

≪解説者≫というのは「配慮」の表れなのでしょうが…
具体的な「誰かのため」の配慮ではなく、「未信者が」「子供が」「外国人が」「他教派・他宗教の人が」「障害者が」などといった「●●●な人が参加しやすいように」という事で対象があくまでも想定なんですよね。
だから「こんな人が来た場合」「あんな人が来た場合」と想定範囲が広がる一方。臨時の聖体奉仕者と同じで、必要なければやらなければいいわけです。
仕事柄「福祉・介護」で例えると・・・
「必要以上の支援は対象者を堕落させる、出来る事を出来なくさせる」というのがあります。
各人の努力する機会を奪い取ることにもなりますね。
Rickからすれば≪解説者≫に語らさなくても良いように「御ミサの前晩に朗読箇所くらい予習しておけよ」くらいに思いますし、司祭が語れば良い事。
仰るように会衆の聖体拝領の前のアナウンスは必要かつ有効だと思いますが・・・御ミサ中に「お立ちください」「座りましょう」などと言われると、「跪いたらアカン!」と言われているようで、これは何だかウザイです。

コメントありがとうございます

>Rick 様

誰のために必要なのかという視点は大切ですね。

アンケートを取ると、案外「解説者なんていらないよ」という意見が
多数になるかも。