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2011/07/17

ミサで様々な姿勢をとる理由について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は2009年5月19日の記事から(原文はコチラ)。

 なお、手元に公式訳がないため、翻訳文中で引用されている『ローマミサ典礼書総則』は拙訳である。

質問
 私はカテキスタ(教理の先生)で、若者にミサを教えています。いつも出くわす質問で、それについて何の情報も見つからないものが、ミサの中で共同体がとる様々な姿勢があり、唱えられる祈りによってとる姿勢が決まっているのは何故かというものです。この姿勢がある特定の時に取られる理由を多くの人が尋ねます。姿勢の中には明確なものもあります。例えば、ミサの始まりで、立つことはイエズスを代表している司祭を迎えることを意味していると思います。しかし、中には明確でないものがあります。だから私たちの司教区で使用されている姿勢のリストを送りますので、多くの若者や子供が尋ねる様々な質問に答えるのを助けてください。私が間違っていないことを確かめるために、明確になっているものも含めています。(マルタ、T.B.さん)

回答
 質問者は自分の司教区で採用されている姿勢のリストを提供してくれました。各々の姿勢について個々に答えることはこのコラムの紙面を超えてしまうでしょうから、同じ目的に役立つと思える別の方法で答えることを許してもらいたいです。

 ローマミサ典礼書総則43項にミサで会衆が取るべき姿勢は以下のようになっています。

 会衆が立つべき箇所は以下の通りである。つまり、入祭唱の始めから、または司祭が祭壇に近づいていく間から、集会祈願の終わりまで。福音書の前のアレルヤ唱の間。福音朗読の間。信仰宣言及び共同祈願の間。奉納祈願の前の招き「Orate,fratres」から、ミサの終わりまで(但し、以下で示す箇所は除く)。

 座るべき箇所は以下の通りである。福音書の前の聖書朗読の間。答唱詩編が唱えられている間。説教の間。奉納の準備の間。また状況が許す場合、聖体拝領の後の聖なる沈黙が守られている間、会衆は座る又は跪いても構わない。

 会衆は聖変化の間、エピクレーシスから信仰の神秘まで跪くべきである。アメリカ合衆国の司教区においては、サンクトゥスを歌う又は唱え終わった後から、奉献文の終わりまで会衆は跪くべきである。但し、健康上の理由、場所の不足、会衆が大規模に参加している場合、またはその他の重大な理由によって跪けない場合は別である。跪かないものは司祭が聖変化の後に跪くとき、深く礼をすべきである。地元司教が別に決定しない限り、アニュスデイの後、会衆は跪く。

 同一のミサにおける動作と姿勢の統一という観点から、助祭、信徒の奉仕者又は司祭がミサ典礼書で指示されていることに基づき指示することに会衆は従うべきである。


 アメリカ合衆国の司教区のために特別に言及されていること、つまり奉献文の間中及びアニュスデイの後に跪くことは、既に会衆の慣習として確立している他の地域でもふさわしく保持されても構いません。聖座からの最終的な承認が下りるまでの間、現地の司教協議会は現地の必要性に対して特別の適応を行うことができます。

 見てきた通り、典礼における基本の姿勢は立つことです。立つことは権威に対する敬意を示す自然な姿勢です。このため、司式者の入堂及び退堂時、福音が読まれる間、ちょうどイスラエル人が神の御言葉を聞く時まっすぐ立っていたように、会衆は立ちます。実際、立つ姿勢はユダヤ人の祈りにおいて通常の姿勢であり、この習慣がキリスト教にももたらせたことはカタコームにある壁画からも判ります。

 今日、ミサにおける荘厳な祈りと関連する時はいつでも、会衆はほとんど立ったままです。まっすぐ立つことは黙示録の7章9節及び15章2節で見られる通り、天国の選ばれた人々の姿勢です。教父たちはこの姿勢を神の子たちの聖なる自由をあらわすものとみなしてきました。聖バジリオは聖霊に関する論文の中で以下のように述べています。

「週の始めの日、私たちは立って祈るが、その理由を全て知っているわけではない。復活の日(又は「再び立つこと」。ギリシャ語の「アナスタシア」)に、立って祈ることで私たちに与えられた恩寵を思い出す。それはキリストともに立ち、『上にあるものごとを求める』ことを私たちが義務づけられているからだけではなく、その日が私たちにとってある意味、私たちが望んでいる時代のイメージのように見えるからである・・・」(27章)

 御復活との関係から、ある種の祈り、例えば聖人の連祷は立ったまま祈り、主日であっても復活節の間でも跪くことはしないと典礼は規定しています。

 座る姿勢は博士が教える姿勢、司式するものの姿勢であるので、司教は自分のカテドラに座ったまま説教を行うことができます。他方で、それは注意深く聴く人の姿勢でもあります。だから、ある場面で、例えば福音書以外の聖書朗読の間、説教の間、奉納の準備の間、望むなら、聖体拝領の後、会衆は座るように招かれています。古代や中世の教会の大部分は会衆席がなかったのですが、会衆は聖書朗読や説教の間、床に座るよう招かれており、使徒行録20章9節やコリントの教会への第一の手紙14章30節で見られるように、使徒の時代から習慣なのでしょう。

 跪く姿勢は、聖ステファノが殉教へと倒れる前に跪いていたように、元来はとりわけ強烈に個人的に祈るための姿勢とされていました。また聖ペテロや聖パウロが通常の祈りや瞑想の時にこの姿勢をとっていたことも知られています(使徒行録9章24節、20章36節及びエフェソの教会への手紙3章14節)。

 しかし、典礼においては、悔い改めの姿勢の場合以外、この姿勢は最初のうちは採用されていませんでした。ニケーア公会議(325年)は悔悛者が主日に跪くことを禁じており、聖バジリオは私たちが跪くのは罪が私たちを地面近くまで投げ付けいることを行為で示すためだと述べています。徐々にこの姿勢がとりわけ内包する悔い改めの意味を失い、特に中世において、跪く姿勢に深い尊敬と崇拝の意味が追加され、今日に至っています。このようにすることで、ミサにおける跪く姿勢はまっすぐ立つ姿勢によって表現された感情や態度を強化するようになっています。

 もう一つの姿勢がお辞儀する姿勢で、この姿勢は尊敬と敬意を意味し、崇拝を意味する文化もあります。頭を下げてお辞儀することの招きは会衆に対する祝福や祈りに先行して行われます。ミサの間、グロリアでイエズスの御名が読まれる時、信仰宣言で受肉の秘儀が読まれる時、全会衆は頭を下げてお辞儀をします。このようにすることで、この姿勢は典礼の式文で言及された秘儀の重要性を強調します。

以上

(感想)
 カトリック教会のミサにおける姿勢についておさらいするつもりで今回はこの記事を訳した。この記事でミサにおける普遍的な決まりでは、とるべき姿勢は4つあること、つまり立つこと、座ること、跪くこと、頭を下げてお辞儀する、があり、それぞれにどのような意味があるかが簡潔にまとめられているよい記事だと思った。

 跪きやお辞儀と比べ、立つことや座ることが立派な意味をもったミサにおける姿勢であることを忘れてしまいがちである。だが、立つ姿勢こそミサにおける祈りの基本的な姿勢なのだから、でだらしなく立たないよう注意しなければならない。暑い季節が続く時期こそ、自戒の意味を込めて。
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