2011/08/13

ミサの間の告解について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は2008年6月3日の記事から(原文はコチラ)。

質問
 ミサの間に告解を聴くことについての一般的見解を教えてくださいますか?(スウェーデン、マルメ市、M.G.さん)

回答
 これは司祭の間でしばしば激論がかわされる問題です。この習慣を批判する司祭は信者の注意をミサ自身から容易にそらせてしまうからだと言い、他方で信者が大人数出席しており、行きやすいからという理由で告解に行くので、秘跡を与える素晴らしい機会としてこの習慣を熱心に擁護する司祭もいます。

 文化的要素もまた関係します。アイルランド系、アングロ・サクソン系、北ヨーロッパの文化圏から来た司祭や信者は全般的に2つの秘跡を分けることに慣れています。一般的にこの司祭たちはミサの間に告解を行えるようにすることに後ろ向きです。

 この習慣はイタリア系、ラテン系、ポーランド系の共同体では、普遍的ではないのですが、より一般的です。そして多くの信者が、告解は別の時間に行われるのですが、ミサの間に告解に行きます。

 規則の観点から必ずしも禁じられていません。2001年に聖座はこの問題に関して、典礼秘跡省の広報誌『ノティティエ』の6~7月号に書簡の形で公式の回答を与えています。

 回答の中で典礼秘跡省はミサと別に悔悛の秘跡を行うことが望ましいと述べる一方で、「悔悛の秘跡は一日の間いつでも授けてよい(Reconciliatio penitentium omni tempore ac die celbrari potest)(悔悛の秘跡書 13項)」という教会法の規定から、ミサの間に告解を聴くことを特別に許しています。また大人数の信者が参列するミサの間では、告解にあずかれるようにするため、共同司式をすることを控える司祭もいるように勧めています。

 この回答から、次のように言うことができます。信者が感謝の祭儀を完全に与ることができるよう、告解とミサ聖祭は別の時間に分けて行うほうがよいことが明確になっています。このことは信者が行くことができる時間に告解の時間を設定することをほのめかしています。

 ミサの間の告解は具体的な司牧上の必要性に対応すべきです。例えば、その必要性とは、普段の悔悛者の数が定期的な告解の時間で対応できない場合、一人の司祭が複数の小教区に出席しなければならない場合、その他司牧的に望ましくさせるような状況を指します。

 明確にするためミサの間の告解ということで、私が意味するものは一人ないし数人の司祭が告解を聴く一方で、別の司祭がミサを行うことを指しています。

 明らかなように思えますが、私は司祭が朗読の間に司祭の席で告解を聴いているのを目撃したことがあります。このような習慣は司牧的な熱情からのようにも見えますが、場違いであると私は思います。

 司祭は会衆に無関係であるかのように振る舞うべきではありません。司祭は祈りの中で叙階の恩恵によるだけでなく、自らの模範を示すこと、この場合、司祭自身にも直接向けられている神の御言葉を注意深く聴くという模範によって、会衆を先導します。

 司祭自身が朗読に注意を払っていないならば、会衆が朗読に注意を払うことを期待することは難しいでしょう。

 同じように、和解の秘跡とミサ聖祭は合わさって単一の儀式を形成することは決して許されていないことを記憶にとどめるべきでしょう。

以上

(感想)
 告解について調べ物をすることがあったので、告解に関する過去の記事を翻訳した。告解にも様々な濫用があるようなので、典礼学者のマクナマラ神父の考えを紹介していきたいと思う。

 ミサの間の告解は、日本では「共同告解」という名前で、待降節や四旬節に提供されることが多い。私はこの共同告解の習慣が嫌いだ。日本では司祭の数が少ないため、告解を聞くためにミサが説教の後、1時間近く中断するからだ。告解を手軽にする必要は理解できるが、定期的な告解の時間を土曜日に設けるとかして対応してもらいたいものだ。
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