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2011/08/21

洗礼前の告解について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は告解に関する質問で、2011年3月22日の記事から(原文はコチラ)。
 なお、記事の中で引用した「病者の塗油の秘跡の執行者に関する覚え書き」は公式訳からの引用である。

質問
 教会で13歳の女の子が私のところに告解に来ました。これが最初の告解だというので、告解が何なのかを知っているか尋ねたところ、知らないというのです。それで洗礼は受けているのか尋ねると、彼女は「いいえ」と答えるので、私は彼女に洗礼を受けていないのだから当然、告解の秘跡を受けることはできないと伝えたのです。すると彼女は要理教室の先生が求道者として3ヶ月が経過して、復活祭に洗礼を受けるのだから、私の所に行けと言ったのだと言います。私は彼女に秘跡とは何かを説明しようと試みましたが、彼女が驚いたことには、まったくこうしたことは全く知らないというのです。彼女は去り、後で彼女は小教区の主任司祭のところに告解をするために行ったのだと分かりました。私はこのことについて後で主任司祭と会ったのですが、彼は実際に彼女に身受洗だけれども告解に行けと言ったことを認めました。彼の理屈はこうです。「復活祭の前に彼女の告解を聞いてあげる時間がなさそうなので、復活祭の後まで待ってもらうよりは今告解をすることの方が彼女にとってはよりましだと思ったからですよ」。私の司祭歴のほとんど40年間、このような奇妙な事態に直面したことがなかったものなので、こうした状況は私にとって新奇なものでした。これについて何か見解がおありですか?(カナダ、オンタリオ州、J.B.さん)

回答
 その主任司祭は和解の秘跡と洗礼の秘跡の本質について何か誤解しているように見えます。

 まず、洗礼の秘跡は他の秘跡に通じる扉となるもので、それ以前にはいかなる秘跡も有効に受けられることはできません。次に、洗礼の主たる効果の一つは秘跡を受ける前に犯した全ての罪を完全に赦し、拭い去ることです。

 これら両方の理由ゆえに、洗礼の前の告解は不可能かつ不必要であります。

 プロテスタントの教会で既に洗礼を受け、カトリック教会に受け入れられる予定のある人については別ケースです。この場合、正式に教会に受け入れられ、堅信を受ける前に告解をすることは勧められています。

 大人の求道者で色々な過去を持ち合わせている人が司祭と告解風の対話の中で良心の重荷を軽くすることによって、洗礼に向けた準備を望むことはまた可能です。司祭は司牧的な方法としてそのような対話を受け入れても構いませんが、それは和解の秘跡ではないこと、罪の赦しは対話に伴わないことを明確にすべきです。

 この質問に関して、関連する以前のテーマをとりあげたいです。以下の質問は、助祭が病者の塗油を行うことができない理由について書いた記事に寄せられたものです。(2011年2月15日の記事参照)。

 ある助祭からの質問です。「私には大人を洗礼する権能があります。この行為は罪を赦すものではないのですか?臨終の際、平信徒が洗礼を行う場合、この行為も罪を赦すものではないのですか?罪の赦しと司祭職とのつながりは排他的なものではないです」

 法の共通原則に「時を識別し、法と時を一致させよ」というのがあります。言いかえれば、各秘跡はそれ自身のコンテクストの中で取り上げなければならなく、ある秘跡について正しいことは必ずしも他の秘跡について正しいとは限らないということです。

 それ故、上で見てきたように、洗礼の効果の一つが罪の完全な赦しでありますが、これは秘蹟自身によるのであって、執行者によるものではありません。助祭と司祭はこの秘跡の通常の執行者ですが、緊急の場合は平信徒でさえ有効に洗礼を授けることができます。洗礼において執行者が罪を赦すのではありません。執行者は洗礼を授け、秘蹟自身が罪を赦す効果をもっているのです。

 しかし、洗礼後の大罪について、罪のゆるしを与える通常の唯一の執行者は司祭です。小罪は祈り、償い、犠牲、その他キリスト的愛徳の業によっても赦されます。そのうえ、深刻な必要性がある場合で、司祭が見つけられない場合、神自身が完全に悔悛した人の大罪をお赦しになるだろうとすることは正しいことです。これは赦しをもたらす通常の流れが司祭の行為を通してくるという基本を変更しません。

 病者の塗油の効果の一つが洗礼後の告解をしていないあらゆる罪の赦しであるので、この秘跡の有効な執行者は司祭のみということになります。

 この教義は2005年2月11日に教理省からヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿の署名のある「病者の塗油の秘跡の執行者に関する覚え書き」で確認されました。覚え書きにはこう書いてあります。

「教会法第1003条第1項(東方教会法第739条第1項参照)は、トリエント公会議(第14総会第4条:DS 1719。『カトリック教会のカテキズム』1516も参照)が表明した、司祭(司教および司祭)だけが病者の秘跡の執行者であるという教義を正確に繰り返して述べている。」

「この教義は「確定的なものとして保持すべき」(definitive tenenda)である。それゆえ、助祭も信徒もこの奉仕職を行うことはできないし、また、助祭や信徒がそのような行為を行うことは秘跡の偽装となる。」

 この覚え書きに添付された書簡では付言にある神学的な論理を説明し、幾つかの点について詳らかにしています。

「最近の数十年間、病者の塗油の秘跡の執行者は「すべての司祭、かつ司祭のみである」(est omnis et solus sacerdos)という教義を疑問視する神学的主張が現れてきた。この問題は通常、司牧上の実践の観点から論じられる。すなわち、とくに、世界の中で、司祭の不足によりこの秘跡を適時に執行することがむずかしい地域について考察する場合である。そこで、終身助祭や、権限を与えられた信徒にまでも、この秘跡の執行者となることを認めれば、この問題が解決できるという提案がなされる。」

「教皇庁教理省のこの覚え書きは、こうした主張に対して注意を喚起することを意図している。それは、こうした主張が実行に移されて、信仰を損ない、また、まさに助けが与えられることを必要とする人々である病者に対して、重大な霊的害を与えることがないようにするためである。」

 この教義を歴史的に概観したのち、文書はこう締めくくっています。

「病者の塗油の秘跡の執行者は「すべての司祭、かつ司祭のみである」という教義は、この教義を「確定的なものとして保持すべき」教義として位置づけるべきであるほどに、神学的に確実なものである。もし助祭あるいは信徒がこの秘跡を執行しようと試みるならば、病者の塗油の秘跡は無効となる。また、そうした行為は、秘跡の執行における偽装という、教会法第1379条(東方教会法第1443条参照)に従って処罰しうる、教会法的犯罪を構成する。」

「結論として、司祭は、与えられた秘跡の力によって、教会の頭であるわれらの主イエス・キリストを、まったく特別なしかたで現存させるということを思い起こすことが適切である。」

「諸秘跡を執行するとき、司祭は「頭であるキリストの代わりに」また「教会に代わって」行為する。病者の塗油の秘跡において、働いておられるのはイエス・キリストである。司祭は、その生きた、目に見える道具である。司祭はキリストを再現するとともに、またキリストを特別なしかたで現存させる。だから、この秘跡は、準秘跡と異なる、特別な尊厳と効果を有するようになる。こうして、病者の塗油の秘跡に関する、霊感を受けた神のことばが述べている通り、『主がその人を起き上がらせてくださいます』(ヤコブ5・14)。」

「司祭はまた「教会の代わりに」行為する。「教会の長老」(ヤコブ5・14)の祈りは、全教会の祈りを含むものである。聖トマス・アクィナスがこう書いているとおりである。「かの祈りは、司祭が自らの人格をもって行うものではなく、・・・・全教会に代わって行われるものである」(『神学大全』補遺第31問第1項第1異論解答****)。そのような祈りが聞き入れられるのである。」

以上

(感想)
 司牧的必要性という言葉のもと、どれほど伝統、教え、典礼が傷つけられたことであろう。記事で取り上げられたような事態(洗礼の前に告解を聞く)はさすがに日本でも珍しいと思うが、注意は必要である。
 
 記事の後半で引用された教理省の覚え書きで注意を受けている神学的傾向、つまり司祭不足という事態に際して、「司牧的必要性」から終身助祭や平信徒が司祭のようにふるまうことを是認する傾向、は日本にも確実に存在する。いや既に現れているのであろう。東京にいると気付きにくいのだが。

 私が平信徒としてすべきことは、まず正統な教えは何かを把握し、理解すること、そしてそれを周りに広めることだと思う。常に祈りのうちに行う。悲しいことに司祭が言うことが必ずしも正しい時代ではないのだ。今回の記事の翻訳が参考になれば幸いである。

 
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