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2012/01/06

主日ミサの移動又は代替について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は主日ミサに関する質問で、2009年1月6日の記事から(原文はコチラ)。
* * *
質問
 私たちが住むここネパールの状況は非常に変わっています。というのもこの国では日曜日は通常の労働日だからです(多くのアラブ諸国でもそうだと思います)。だから、長年(30年以上)、日曜日のミサは全て土曜日に、この日は人々が完全に参加することのできる唯一の日だからなのですが、移動しています。しかし、このことはいくつか混乱を起こしています。というのは土曜日にミサに与ることで主日の義務を果たしたと感じることが難しいという人々がいるからです。また日曜日にはどのミサをあげるのかという別の問題もあります。同じミサを繰り返すところもあれば、主日に土曜日のミサを奉げているところもあります。このような状況のため、しばしば土曜日に祝う祝日がなくなっています。私は個人的には土曜日のミサが大好きです。というのも両方の日にミサを奉げることに慣れているからです。これらに加えて、この国の暦はグレゴリオ暦と異なっています。月がグレゴリオ暦の月のおよそ半分ぐらいの所から始まります。公式の行事ではすべてこの暦を使わなければならないのですが、ほとんどの人々もまたこの暦を用いています。いくつかのケースで私たちは議論をしてきました。例えば、月の初金はいつになるのか?ネパール暦によるのか、グレゴリオ暦によるのか?(ネパール、カトマンズ、P.P.さん)

 私たちの国では非常に頻繁に小教区の祝日を日曜日に祝います。例えば、聖ユダ教会なら、聖ユダの祝日という具合に。これは正しいのでしょうか?もし主日の聖書朗読箇所が読まれずに、祝日に固有の別の箇所が朗読された場合、それは正しくないと思うのですが。(スリランカ、コロンボ、M.Jさん)

回答
 両方の質問共に主日の典礼に関わることなので、両方を一度に答えようと思います。

 最初のケースですが、キリスト教徒にとって主日は移動できる祝日ではないということを思い出すことが重要です。1世紀から3世紀の間、日曜日が労働を行う通常の日であったにもかかわらず、キリスト教徒は日曜日に集まっていました。キリスト教徒の多くは大きなリスクをとった奴隷たちでした。このことはしばしば早朝に起きだすことや、夕方に忍び出ることを意味しました(もちろん、私たちもキリスト教徒であるというだけで痛みを伴う死につながってしまう可能性のある時代にいます)。古代の殉教者たちのある集団は自分たちに判決をくだした裁判官に「わたしたちは日曜日なしには生きていくことができません」と言ったことは有名です。

 主日のミサはカトリック信者の生活にとってその価値又は重要性をいささかも失っていませんし、最近の出来事が示す通り、自分たちの信仰を守ることで現代のカトリック信者が昔ほど英雄的でなくなっているわけでもありません。ただ同時に、カトリック信者の生活の現在の状況や、できるだけ多くの民の精神的な必要性を手当てしたいという教会の思いがいくつかの革新を生むことができます。

 ではネパールやアラビアにおける主日の状況や同じような別の状況は何なのでしょうか?

 まず主日は常に主日のままですから、その日に固有の典礼が常に祝われるべきです。同じように信者は可能な限り主日又は土曜日の夕方のミサに出席すべきです。必要かつ有用であれば、司祭は通常でない日にミサを自ら進んで奉げるべきです。

 日曜日が通常の労働日であるため金曜日又は土曜日の朝に主日の典礼を行う許可が与えられているケースでは、これが主日を別の日に移動したケースではないということをが大切になります。むしろ、これは土曜日の夕方又は日曜日にミサに与ることが不可能であるカトリック信者が3年サイクルによる聖書朗読と祈りによって与えられる豊かさを失わないようにするための司牧的な配慮です。

 法的に言えば、日曜日のミサに出席することが客観的にできない人々は法の規定の対象から外れますので、実際、金曜日又は土曜日にミサに出席する義務はありません。そういった人々が出席する場合、非常によいことを行ったことになります。そして司牧者が典礼的な最上の食物を与えることで、霊的な必要性に応えるよう行動する場合、主日を他の日に移動しゃいたという印象を避けるように注意深くいることは共通しています。

 質問者が示した通り、このことは土曜日に当たるいくつかの祝日を失うことにつながります。共同祈願や説教で祝日に言及すれば十分な場合もあるでしょうし、日曜日の朗読箇所を使用する代わりに土曜日の朝に祝日を祝うことは司牧的に言ってより役立つ可能性がある場合もあるでしょう。

 地元の暦が異なる場合、従うべき適正な暦が何かというもう一つの質問は難しい問題です。このような場合、地元司教が決定を下す人になるでしょう。必要なら、司教はグレゴリオ暦に結びついたある種の典礼上の祝日、例えば聖心の祭日、の日を変更する許可を聖座に願い出るかもしれません。

 初金又は初土のような慣習は信心によるものであり、公式な典礼の行為ではないので、地元の必要にこの習慣を調整することは何ら困難がないように思います。

 最後にスリランカの質問者に対して答えます。小教区の守護聖人は小教区内では祭日にランクされますので、できるだけ多くの教区民がミサに出席できるようにミサをもっとも近い日曜日に移動することは許されています。

* * *
(感想)
 日本は明治政府がグローバルスタンダードであったグレゴリオ暦を採用したおかげで、日曜日は休みであり、主日のミサを本来の曜日に祝える。日本のキリスト教徒の人口に占める割合を考えると、キリスト信者にとって非常に恵まれている環境にあるのだろう。とはいえ、サービス業に従事する人が増えるにつれ、日曜日だけでなく土曜日も休めない人が増えてきているのではないかと思うが。

 いずれにしろ、主日のミサに与ることができるというのはそれ自体が恵みであるのだから、ミサを奉げる司祭と会衆が主日を大切にし、よく準備することが必要なのであろう。

 マクナマラ神父の記事によれば、初代教会の信者は日曜日が休み出なかったにも関わらず、非常なリスクを冒してでも、日曜日に集会を持ったのだという。この箇所が今回の翻訳の中で一番印象に残った。
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コメント

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主の日

最近ヨハネ・パウロ二世の使徒的書簡「主の日」を読みました。

その中でも、初期の時代では「なぜ信者たちが日の出前に集まらなければならなかったのか」ということが書いてあり、とても驚きました。
てっきり、あちらでは初めから日曜日は休みだと思ってたので(^-^;

日曜が休みではない時代や地域の方たちの、熱心な姿勢に頭が下がります。
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