2012/01/14

ミサで小型ミサ典書を用いることについて

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は小型ミサ典書(Hand Missal)に関する質問で、2011年10月25日の記事から(原文はコチラ)。
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質問
 会衆は小型ミサ典書を用いて、朗読も含めた典礼を追いかけるべきでしょうか?主の御言葉は聴かれることを意図されており、読まれることを意図していないという司教や神父もいます。小型ミサ典書はただミサの他の箇所のためのものなのでしょうか?(米国、ロードアイランド州、グリーンビル、M.R.さん)

回答
 これは自由に議論をしてよい論点なのですが、一般的な好みとして(ミサに)参加を促す手段として本を使用することはすすめられていないということも事実です。

 1998年にアメリカ司教協議会の典礼委員会は『参加を促す手段の出版に関する指針(Guidelines for the Publication of Participation Aids)』という素晴らしい文書を出しています。ことばの典礼に関して、同文書はこう述べています。

 ミサで宣べ伝えられる神のみ言葉によって、聖霊は「私たちが外で聴いたことが内面にその効果をもたらされる」(『ミサの朗読に関する概略紹介』8項)。しかし、このことが起きるのは、聖書朗読がよく聞こえ、明瞭で、知的になされる場合(前掲書14項)、十分なマイク設備が用意されている場合(前掲書34項)に限られるだろう。

 神のみ言葉を典礼に参加する全員が明瞭に聴くことができることは明らかに望ましいことである。というのは、「神のみ言葉を聴きながら、教会は建設されていったから」(前掲書7項)。このため、み言葉が効果的に宣べ伝えることが不可能な状況でないなら、参加を促す手段として聖書朗読箇所や公式祈願の印刷はすすめられない。しかし、こうした状況(訳注:み言葉が効果的に宣べ伝えることが不可能な状況)においても、会衆に朗読箇所の印刷されたものを配る手段に訴えることよりも、聖書が効果的に宣べ伝えることを確保するための手段をとることが望ましい。


 それ故、神のみ言葉や公式祈願に沿って読むことよりも、それらを注意深く外的及び内的に聴くことが理想となります。小型のミサ典書を使用することは、今日、特別形式のミサと呼ばれているミサに与るために、もともと20世紀の初めに広く普及しました。小型のミサ典書はラテン語のミサ式文と国語によるそ翻訳を載せ、信徒の手に齎すことで、それを用いることが典礼運動の中での前進を示したのでした。

 通常形式のミサが国語で聴こえる形で現在普通に行われていることは、小型ミサ典書をただ脇に置くべきだと言うことを意味しません。ミサの前に朗読箇所や祈りを黙想しながら読書することで、小型ミサ典書は積極的な参加を準備するための素晴らしい手段となります。それはまた儀式や祈りの中にある考え方を把握し、それ故、集中を維持することを助けるためにも用いられるでしょう。

 主観的な要素もあります。様々な正当化できる理由のために注意深い外的及び内的な聴きとりという理想の状態に達成することが難しい人々も少なくありません。カトリック信者がミサの間、小型ミサ典書を用いることで霊的な益があるなら、それを使うことは自由であると私は思います。

 アメリカ司教協議会の典礼委員会がこのような指針を必要と感じた事実からして、彼らが小型ミサ典書や他の参加を促す手段の使用をただ廃止したいとは思っていないことの証拠です。

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(感想)
 私が典礼に関心を持つことになったのは、ある小型ミサ典書を手にしたことがきっかけだった。その意味で小型ミサ典書に関する思い入れは人一倍ある。いまや私の手元には6種類の小型ミサ典書がある。半分は通常形式のもので、半分は特別形式のものである。

 私が最初に手にしたのは、デルコル神父編『ミサの友』(世の光社、1985年)だった。この本は私が見聞きしている典礼の形よりも、オリエンス宗教研究所『聖書と典礼』が紹介するものよりも、何十倍も豊かな典礼が存在することを私に教えてくれたものだ。

 今では『毎日のミサの友』(サンパウロ、2003年)を日本語の通常形式の小型ミサ典書として使っているが、デルコル神父の方は、一部ではあるが、ラテン語原文の式文を掲載していたり、日本語版と規範版の相違箇所を教えてくれるので傍に置いている。

 私自身の小型ミサ典書の使い方は、やはりミサ前後の予習・復習用がメインだ。通常形式でも特別形式でも小型ミサ典書の文字を追いながら、ミサを追いかけるのは私にとってはミサで祈った感じがしないから控えている。この辺はマクナマラ神父も最後に書いているとおり、好みの問題なのだろう。

 小型ミサ典書はカトリック信者にとって大いに益のある書物なのにもかかわらず、日本で現在入手できるものは極めて限られている現状は大いに問題だと思う。先にあげた『毎日のミサの友』もamazonでは新刊では購入できないようだ。特別形式については状況はもっとひどく、日本語対訳が載っているものでは、チーグレル『彌撒典書』バルバロ『毎日のミサ典書』があるが、いずれも絶版となって久しく古本屋でも見つけることが難しくなっている。

 信仰年を迎えた2012年。通常形式でも特別形式でも日本語の小型ミサ典礼書が整備される年になってほしい。
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