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2013/08/07

In montem sanctum tuum

カトリック教会の暦では、8月6日は「主のご変容の祝日」にあたる。イエス・キリストが弟子たちに自らの受難を語った後、高い山に弟子のペトロとヤコブ、ヨハネだけを連れて登り、父なる神との強いつながりの中でもつ栄光を垣間見せたというできごとを祝う日である。

今年も8月6日が巡ってきたが、このご変容を伝えるマタイ福音書(マタイ17章1-7)にある「高い山」に注目したい。聖書では山は預言者と神が出会う場所とされている。イエス自身も度々山に一人で退かれ、そこで祈られていた。神が山に預言者を連れていく理由を、私の好きな作家、パウロ・コエーリョは『第五の山』の中でエリアの語る言葉として実に分かりやすく説明してれている。

高い所にいると、私たちにはすべてのものが小さく見えるからだ。私たちのつまらぬ見栄や悲しみは、その重要性を失ってしまう。私たちが征服したものもすべて、下に残っている。山の高みから見れば、世界がいかに大きいか、地平線がいかに広いか、わかるのだ。(山川絋矢、山川亜希子訳)

山つながりでいうと、特別形式のミサのいわゆる階段祈祷で有名な詩編42で、悲しみに打ちひしがれた詩編作者は神の光とその真理が自分を神の聖なる山に(in montem sanctum tuum)導いてくれることを歌っている。

ところで日本では8月6日は広島原爆忌として知られている。この日は人類の歴史の中で忘れられてはならないだろう。だが、毎年日本のカトリック教会でこの時期、「平和旬間」として反核・反戦の活動が行われているのを見聞きするにに、何か強い違和感をもってしまう。一方でカトリック教会の反核・反戦運動を「政教分離の原則に反する」「親左翼だ」「国家には自衛権がある」等といってネット上で気炎を上げているカトリック信者達にも共感できない。それらはあまりにも地上的すぎるのだ。神と出会いに山にのぼり、その山から見下ろした時、この原爆投下という歴史上の事実を見る視点が教会の言説には欠けているし、ネットの議論も同様に皮相的なのだ。

原爆が絶対悪であるなら、何故、全能の神はそれを許したのか?原爆が絶対悪であるということを後世の我々が悟るために、神は何十万人という人が悲惨の中に突き落とす必要があったのか?神の正義とは何なのか?原爆投下の神学的な意義に正面からとりくもうとする言説は実は日本のカトリック教会ではほとんど聞かない。大昔に自身も被ばく者であった永井博士が「原爆投下による悲劇は世界大戦という人類の悪を神に贖うためであった」と正面からこの問題に向き合ったきりだ。

とはいえ私は永井博士のこの回答が正解なのかは分からない。だが、原爆投下をキリスト教徒として取り組んだその勇敢な姿勢を日本のカトリック教会は聖職者だけでなく、信者も含めてもう一度見直す必要があるように思う。原爆という悲劇をなぜ神は許されたのか?それこそが日本のカトリック教会にとっての原爆忌、8月6日なのではないだろうか。
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