2013/08/15

『ナザレのイエス』を読んで

 先ごろ日本語版で名誉教皇ベネディクト16世の『ナザレのイエスⅡ 十字架と復活』を読んだ。この本を読んで、ますますミサに与りたくなったので少しこの本を紹介したい。

 ベネディクト16世のこの本の特徴は史料批判的な歴史的聖書学の視点と神学的な視点のバランスを取りながら、聖書のテクストに沿ってイエス・キリストの事跡を追い、その事跡がイエス・キリストを信仰する者にとって意味することは何かを説明していることにある。歴史学的な視点ゆえに決して確実性のない仮説によって、信仰の対象になりえない貧弱なイエス像、そんな歴史的聖書学が示すイエス像に飽き飽きしつつも、聖書に対する文献批判を全く認めない原理主義的なものの見方にもついていけない人にとってこの本は読んでためになると思う。

 この本によれば、イエス・キリストが人類に対して行ったことは、「人々に神をもたらした」ことであり、それはイエス・キリストの十字架上での死とその復活、昇天によって完成された。さらに、イエス・キリストが制定した、パンを割くこと、つまり後のミサはユダヤ教の神殿での動物犠牲を伴う神礼拝に代わる真の神礼拝であり、最初からキリスト信者達の神礼拝の場はミサであった。パンを取りながら「これは私の体である」と告げる、ミサの聖変化において、主キリストは賜の形で私たちの方に来て、「『主が来られる日まで』世界に向けて両手を大きく広げて迎え入れてくださる。」

 イエス・キリストを通した神と私たちの出会いの場としてミサ。こう考えると、特別形式のミサはまさにイエス・キリストの出会いを意識させてくれるよう巧みに作られていて感嘆するばかりだ。例えば、

・目線。司祭も会衆も視線は同じ方向を向き、神と相まみえることを助けてくれる。

・司祭の挙止動作。跪く、十字を切る、目を上げる、祈る。司祭の絶え間ない動作を見ていると、司祭は祭壇を通じて司祭とは別の人格と向き合っていることを意識させる。

・沈黙、司祭の唱える耳に聞こえない祈り。神は無口だ。神は沈黙を通して語る。この沈黙が私たちの口を閉じさせ、神の声を聴く態度を作り、私たちが内面において神と向き合える場をつくる。

 特別形式のミサの素晴らしさを語るには私の言葉は余りにも拙く、そして足りない。来週の日曜日はウナ・ヴォーチェ・ジャパンの特別形式の主日ミサが四ツ谷である。百聞は一見に如かず。是非多くの人が特別形式のミサに与り、神との出会い、癒しを分かち合いたいものだ。
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