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2011/03/06

新旧典礼形式の混交について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUP。今回は2011年2月15日の記事から(原文はここをクリック)。

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質問
 私は小教区でローマ典礼の両形式(訳注:トリエントミサと現行のミサ)を行っており、両形式に関する典礼法規について詳しく知っているよう努めております。「明示的に禁じられていないものは許される」という原則の下、特別形式(訳注:トリエントミサ)の要素を通常形式(現行のミサ)に導入しようとする動きがあることに少し当惑しております。ブログの中には「明示的に禁止されなかったものは求められている」という主張を表明しているように見えるものもあります。通常形式におけるマニプルスの使用についての問題や、パラの置き方、接吻の再現といった厳しい問題が頭に思い浮かびます。私がトリエントミサで目撃した「濫用」、そこでは司祭的な祈りが聖体の制定の御言葉を忠実に暗唱することに圧縮された(残りの部分の祈りはその瞬間(訳注:聖変化)にとって副次的なものとなっている)例を思い起こすと、「典礼文を祈ること」より「ルブリカを行うこと」を優先することにに慎重にならないならば、同じような事態の進展に私たちは直面することになってしまうのでしょうか?(米国ペンシルバニア州、Allentown、W.S.さん)

回答
 自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」の中で、ベネディクト16世は以下のように述べられています。

第1項 パウロ六世が発布したローマ・ミサ典礼書はラテン典礼カトリック教会の「祈りの法(Lex orandi)」の通常の表現である。これに対して、聖ピオ五世が発布し、福者ヨハネ二十三世があらためて発布したローマ・ミサ典礼書は、同じ「祈りの法」の特別な表現と考えるべきであり、このあがむべき古くからの典礼の使用に対してふさわしい敬意が払われなければならない。これらの教会の「祈りの法」の二つの表現は、決して教会の「祈りの法」の分裂をもたらしてはならない。なぜなら、これらは唯一のローマ典礼の二つの使用だからである。

ですから、同じローマ典礼の中に、2つの慣行、2つの形式、2つの別なミサ典礼書があります。これら2つの形式に対して敬意を払う唯一の態度は互いのものに敬意を払い、各々のミサ典礼書にある指示に従うというものです。例えば、新しいミサ典礼書はマニプルスの使用を禁じていませんが、だからといって、それを使っても良いということにはなりません。パウロ6世のミサ典礼書はミサに用いる祭服を列挙していますが、これらは使用すべきものであり、これ以上もこれ以下もありません。同じことは動作や他の儀式についても言えるはずです。

もう一つの質問は一方の形式の要素がもう一つの形式に組み入れることができると考える人々を引き合いに出しています。特別形式の美しい奉納の祈りを通常形式に再興すること又は、2つの典礼歴や朗読箇所のサイクルを統合することを提唱する人々もいます。これらは確かに議論のポイントとなるものですが、どちらの形式においても教皇様のみが永続的な変更を行う権威を持っておられます。

特別形式のより精緻な規定を通常形式に見られる緩やかな指示を解釈するための指針として用いること、これはまた別です。様々な典礼の場面での適応を考える時、常識も伴うならば、原則的にこれは有効なやり方であると言えます。特別な教会法上の義務を生みだすことなく、経験則のようなものを示してくれるでしょう。

通常形式において特別の言及がない場合、それは柔軟性を許す意図がある場合が多いということも忘れてはいけません。質問者はパラ(リネンを貼った正方形状の祭具で、埃や虫が中に落ちないようにするためにカリスの上に置く)を例に挙げていましたが、通常形式では、司式者が時と場所の状況に応じてパラを使用するかどうかを決めることができるとしています。通常形式において、司式者がパラを使用するかどうかを決める場合、、なんらの義務を課すことなく、パラをいつ置き、いつ除くのかといったことについて特別形式の規定は参考になります。

何度かの機会に私自身の見解を披露してきたところですが、「明確に禁じられていないものは許される」という原理は典礼を解釈するための道具としては有効でないと思います。それはまた危険なもろ刃の剣となるかもしれません。ちょうどマニプルスの使用が禁じられていないように、司祭が顔にペイントを施し、赤鼻をつけて「道化ミサ」を行うことも禁じられていません。典礼の規則はあらゆる可能性の禁じることはできません。この規則は性質上、必ず行うべきことを記述するものであり、足すことも減らすこともなく、書かれてある通りに執行されることを意味しているものです。

最後に、本当の礼拝は「ルブリカを行うこと」と「典礼文を祈ること」を対比させることはできないと言いたいです。典礼は根本的に言葉と行いによる儀式的な行為であり、その両方が一緒になって、単一の崇拝の行為を形作ります。ローマ典礼のどちらの形式でも司式者の意向はルブリカと典礼文を祈ることです。尊敬と礼儀正しさをもって儀式的動作を執り行うことは、御言葉をポーズをおいて、落ち着きながら唱えて祈る人の行為と同じです。つまり、その人はこの瞬間に偉大な業が起きたのだということを心から信じているのです。

以上

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(感想)
私はミサは司式者の創造性が発揮される場でないと思う。なぜなら、ミサは教会の祈りであって、個人の裁量で勝手なことが許される場ではないのだから。その意味で、私はマクナマラ神父の意見に共感するところが多かった。
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