2011/03/09

司祭不在時の主日の集会祭儀について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUP。今回は2011年1月11日の記事から(原文はここをクリック)。なお回答中に引用されている『司祭不在のときの主日の集会祭儀指針』は英語版からの私訳である。

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質問
 今年の初め、主任司祭がしばらく不在にすることがありました。主任司祭は出かける前に主日にミサを行う司祭を探したのですが、彼が言うには、土曜の前晩のミサのための司祭を見つけることができなかったそうです。それで、この事実を私たちに伝える代わりに、助祭に説教と音楽を伴う御言葉の祭儀を行わせ、ご聖体を信者に配らせました。その助祭はこれは有効であると言います。いつもは日曜の朝ミサに与るのですが、家族の用事があったので、土曜の前晩のミサに出席しました。司祭が不足しておらず、受け持ちエリアの広い大司教区で私たちは暮らしており、ミサに容易に与れる範囲に多くのカトリック教会があります。私は御言葉の祭儀に参加する前に、このことを知らせてほしかったです。というのも主任司祭は知っていたのですから。主任司祭は戻ってくると、こうしたことは他の場所でも起きているものであり、有効であると言います。御言葉の祭儀でなく、ミサに与る十分な機会があるのだから、この場合は有効でないと思いますが、正しいでしょうか?(米国ニュージャージー州、Newark、J.Pさん)

回答
 今回の問題に関する原則は聖座が1988年に出した『司祭不在のときの主日の集会祭儀指針』の中にあります。これらの原則は普通、司教評議会に諮られ、より具体的なガイドラインも示されています。米国の場合、最新の指針は2007年に示されました。

 各司教は自司教区でこの指針を適用するかどうかを判断し、そのような主日の集会祭儀が許されるのか、いつ許されるのかを定める規則を示してよいことになっています。

 この主日の集会祭儀が許される一般的な条件について、1988年の指針は明確に以下のように述べています。

 18項 主日にミサを行うことができない所では、信者が感謝の祭儀に与るために近傍の教会に行くことができるのかどうかを先ず確認しなければならない。この解決方法はそれが有効な限り、勧められるべきものであり、維持されるべきものであるが、信者は主日の祭儀について十分な理解を持つよう正しく教えられ、善意の気持ちを持って新しい事態に対応することを求めるものである。

 21項 この集会祭儀が代用的な性質をもつものだということを信者が理解するよう教えなければならない。つまり、この祭儀が新しい困難な状況に対する最善の方法であるとか、又はただ便利さへの屈服であると捉えられるべきではない。従って、ミサが既に行われた若しくは行われる予定のある場所又は前晩の土曜日にミサが行われた場所においては、たとえミサが別の言語で行われたとしても、主日にこの種の集会を行うことは決してできない。またこの種の集会を日曜日に繰り返して行うことは正しくない。

 24項 司教評議会の見解を打診したのち、感謝の祭儀を伴わない主日の集会祭儀を自司教区で定期的に行うかどうかの判断は司教に委ねられている。関係する場所及び人を考慮し、このような祭儀の一般及び個別の規則を定めることも司教に委ねられている。それ故、司教の召集によってのみ、主任司祭の司牧的役務のもとにおいてのみ、この集会祭儀は執り行われることになっている。

 25項 「感謝の祭儀に根を持たず、それを中心に据えないならば、いかなるキリスト教徒の共同体も成立することはできない」。だから、感謝の祭儀を伴わない主日の集会祭儀の導入を司教が判断する前に、小教区の実態把握(5項参照)に加え、直接司牧を担当しない司祭(修道会の司祭)の活用ができないか、小教区や各種教会のミサの参加状況等が検討されなければならない。特に主日において、感謝の祭儀が他のいかなる司牧的活動に優先することを大切にしなければならない。


 上記の21項は司祭を伴わない集会祭儀はミサが週末にあげることができない場合の例外であると極めて明確に述べています。それは特にミサに代わるものとして意図されていませんし、一般的な状況において、有効にミサに出席する代わりとなるものではないでしょう。

 しかし、状況は多岐にわたるので、基本的な方針と併せて、具体的に様々な選択ができるよう、24項では司教に広い行動の自由が与えられています。ある司教区では例えば、毎日曜日にこの種の集会祭儀を一度きりにすべきという規定を尊重する一方で、大きな小教区においては例外を認めています。

 別の司教区では緊急と便利さの間の違いを明確にしています。緊急とは病気又は他の状況により、司祭が突然不在となった場合で、代わりを見つけることも出来ず、信者に説明し、信者が代替策を調整する余裕をとることができない場合を指します。そのような状況において、主日の集会祭儀を用いることは正当化できるでしょう。

 便利さ、例えば司祭がある時間にはいないが、別の時間ではミサを行うことができるという場合にはこの集会祭儀を行うことは正当化されません。

 これらの理由から、今回の状況を鑑みるに、ミサを司祭不在時の主日の集会祭儀で代用したという選択は正しくなかったといえます。

以上

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(感想)
 私の周りではこの集会祭儀はあまり出くわさないが、京都にいた時には時々与ったことがある。聖変化がない寂しい印象しか受けなかった。

 この種の集会祭儀が今後増えてくることは避けられないが、マクナマラ神父も言うように、この集会祭儀はミサの代用にはなりえないということを信者はしっかり知ることが大切だと思うし、教会側も信者に十分な情報提供をしてもらいたい。何の連絡もなく、ミサに出かけたら、集会祭儀でしたということがないように。

 毎日曜日にミサに与れるというのは本当にお恵みなのだ。
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