2018/05/08

「プロテスタントは聖体を拝領できない」はもう古い?

日本がゴールデンウィークのあいだ、またもやドイツ司教団と教皇フランシスコがカトリック教会に深刻な問題を引き起こしている。東京大司教区と関係の深いケルン大司教区のライナー・ウオルキー枢機卿もこの件に深くかかわっておられるので、教皇や司牧者が聖霊の声に聴き従うことを祈る必要性があることを痛感。

まず時系列に経緯を紹介。
なお、経緯はアメリカのカトリック系メディア「National Cathlic Register」の記事によるもの。

2018年2月22日
カトリック信者と結婚をしたプロテスタント信者に対して、一定の条件の下、聖体拝領を許す指針案を三分の二以上の賛成でドイツ司教団が可決。この案で示された一定の条件というのは、司祭又は司牧の責任を負う者と一緒に「真剣な良心の究明」を行い、「カトリック教会の信仰を認め」、「深刻な霊的痛みに終止符をうつこと」を希望し、「聖体に対する飢えを満たしたいという望み」をもつ場合とされている。ドイツ司教団によれば、このドラフトの指針は非カトリック信者の聖体拝領を規定した教会法の規定(844 § 4)に反しないもので、適用される事例はごく少数だとのこと。
(参考にした記事はコチラ

(参考)教会法(844 § 4)(私訳)
死の危険がある場合、または他のさし迫った重大な必要がある場合、カトリック教会と完全な交わりがなく、自身の共同体の教役者に近づくことができず、自発的にこれらの秘蹟(注、聖体、ゆるし、病者の塗油)を求める他のキリスト信者に対し、彼らがこれら秘蹟に関するカトリックの信仰を表明し、適切な用意がされていることを条件に、教区司教又は司教協議会の判断に従い、カトリックの教役者はこれらの秘蹟を合法的に授けることができる。



2018年4月4日
上記の指針案はカトリックの教義に反するとして、ケルン大司教のライナー・ウオルキー枢機卿(1956年生)を含む7名のドイツ司教がバチカンの裁定を求めて上訴。これに対して、上記指針案の賛成派でドイツ司教団議長のマルクス枢機卿(1953年生)はドイツの司教に書簡を送り、指針は教義にも教会法にも抵触しておらず、指針案は「教皇フランシスコのエキュメニズムにおける次の一歩をすすめる取組」の結果であると表明。
(参考にした記事はコチラ

(参考 バチカンの裁定を求めた7人の司教)
ケルンのライナー・ウオルキー枢機卿
バンベルグのLudwig Schick大司教(1949年生)
パッサウのStefan Oster司教(1965年生)
 ※現在ドイツ司教団でもっとも若い司教
レーゲンスブルグのRudolf Voderholzer司教(1959年生)
ゲルリッツのWolfgang Ipolt司教(1954年生)
アウグスブルグのKonrad Zdarsa司教(1944年生)
アイヒシュッテットのGregor Maria Hanke司教(1954年生)



それでバチカンから、ドイツ司教団の話を聴く機会が設定され、ローマで5月3日に打ち合わせがもたれたが、
2018年5月3日
バチカンは裁定せず、ドイツ司教団に判断を差し戻し。「全会一致できるまで」指針を再考することを求める。なお、当日の打ち合わせには教皇フランシスコは出席しなかったが、その意向が伝えられたという。
(参考にした記事はコチラ

ドイツ司教団で解決できないものをバチカンが裁定しないなら、バチカンの役割放棄と言わざるを得ない。プロテスタントの配偶者に聖体拝領させたい司祭たちは、ドイツ司教団の決定が決まっていないことをいいことに、自分たちのしたいことを「緊急避難」と称してやり始めることは容易に想定できる。そして、今度はカトリック信者と結婚をしていないプロテスタントから「なぜカトリック信者と結婚をしているか、していないかで差別するのだ」という声にこたえて、それらのプロテスタントにも改宗なしで聖体の拝領を許すようになるだろう。

私はエキュメニズムの道具に、カトリック信者が大切にしている聖体を使ってほしくない。なぜプロテスタント信者がカトリック教会で聖体を拝領できないかは既に明確である。聖体に対する考えを巡って、カトリックから分かれてプロテスタント教会ができたにもかかわらず、宗派を変えずにカトリックの信仰の中心である聖体を当然の権利のように要求するプロテスタントの甘えと、その甘えにすり寄る弛緩派聖職者の存在に深い悲しみを覚える。

他方で、ドイツ司教団の中でも反対の声をあげている7人の司教様の存在、バチカンの裁定差し戻しはおかしいと声をあげられたオランダ・ユトレヒトのウィレム・ジャコブス・エイック枢機卿(1953年生)のような勇気のある人たちの存在に大いに励まされるのである。

(参考)エイック枢機卿 バチカンの差し戻しに反対意見を表明(2018年5月5日)
http://www.ncregister.com/blog/edward-pentin/cardinal-eijk-pope-needed-to-give-clarity-to-german-bishops-on-intercommuni

2018/05/02

独バイエルン州における公共施設での十字架掲示命令に反対する枢機卿はやっぱりあの人

十字架の礼拝

ドイツ南部のバイエルン州政府は州政府所管の公共施設でキリスト教の十字架を掲示すべしという命令(decree)を4月末に公布した(施行日は6月1日)。マルクス・ゼーダー州首相によれば、十字架は「宗教のシンボルとしてではなく、バイエルンのアイデンティティとキリスト教価値観の明確な表明として捉えられるべき」とコメントした。この命令により、バイエルン州の公立学校や裁判所には十字架が掲示されることになる。
(引用はBBCのサイト

バイエルン州のカトリックの反応は分かれている。この命令に反対しているのが、ミュンヘン及びフライジング大司教のラインハルト・マルクス枢機卿。彼によれば、この命令は分断を引き起こすもので、十字架は暴力、不正、罪や死への反対の印であり、人を除外する印ではないという。一方で賛成を表明しているのが、レーゲンスブルグ司教のルドルフ・フォ―ダ―ホルツアー司教。彼によれば、十字架は西洋文化の縮図であり、愛、あわれみ、肯定の文化の表現であるという。
(引用はイギリスの雑誌カトリックヘラルドの記事

このドイツのニュースが日本に関係あるのか、といえば大いにありうる。というのは、上述のマルクス枢機卿はフランシスコ教皇の側近として、8名からなる枢機卿評議会のメンバーであり、2014年に新設された財務評議会議長でもある。権力者である上、信仰における弛緩主義者としても有名。ネットでニュースを拾ってみると、「教会は同性愛者に謝罪すべき」とか「再婚者の聖体拝領は許される」とか発言し、、最近では「カトリック信者と結婚したプロテスタントの配偶者は改宗しなくても、聖体拝領が許される」という指針を出して物議を出しているような人物。

マルクス枢機卿がバイエルン州政府の新たしい命令に反対するのは彼のこれまでの言行から驚きではないが、このような人物がバチカンの高位聖職者にいることは日本でも注意すべきである。なぜなら、日本における弛緩主義者にとって、マルクス枢機卿の言動は「世界の教会(またはバチカカンの最新の考えはこうだ」と示せるものになるからである。

マルクス枢機卿は十字架が分断を引き起こすことを懸念しているが、そもそも十字架とはそういうものである。聖書ではパウロはこう述べている。

わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えているからです。つまり、わたしたちが宣べ伝えているのは、ユダヤ人には人をつまずかせること、異邦人には愚かなことです。
(一コリント1章22-23)



バイエルン州政府が十字架の印を掲げる以上、かれらはキリスト教を意識していることはカトリック信者でなくても大いに利益があると思う。というのは、仮にバイエルン州政府が今後人道に背くようなことをとろうとしたとき、彼らに対して、バイエルンのアイデンティティたる十字架に背くと批判できるからだ。

十字架を背負うこと、それを外に見える形で示すことはおおきな重荷を主と共に背負うことである。それをバイエルン州政府が命令の形で示したことはカトリック教会として共通善の観点から歓迎すべきことであり、分断の印となるなどという理由で反対することはただの弛緩主義にすぎない。

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2017/12/16

菊地大司教の紋章とそのモットーについて

今日(12月16日)に東京カテドラルで菊地大司教の着座式ミサに与った。1時間前に到着したが、すでにパイプ椅子席を含め空席はないほど、早くから多くの人が詰めかけているのに大変驚いた。パイプ椅子に座っていた知人にきくと、ミサ開始の1時間半前の時点で木の椅子席はすべて埋まり、聖堂の端にあるパイプ椅子席しか空いていなかったという。多くの人が新しい大司教に寄せる並々ならぬ期待感を肌で感じることができた。

今日は菊地大司教の紋章とそのモットーを取り上げることで、新しい大司教の考えについてあれこれ想像してい見たいと思う。
まずは紋章から。
これが菊地大司教の紋章である。

IMG_1813.jpg

菊地大司教の紋章の第一印象は伝統回帰である。
それは紋章のモットーがラテン語に戻ったことや、中央のラテン十字と盾の配置が伝統的な形になったことから分かる。
ちなみに菊地大司教の前任者の紋章は以下のとおり。

土井枢機卿
土井枢機卿
白柳枢機卿
白柳枢機卿
岡田大司教
岡田大司教

こうしてみると、岡田大司教の紋章がかなり特殊というべきかもしれない。

さて、紋章につけられたモットー「Varietate Unitas」について。
このラテン語のモットーとその日本語訳には、違和感がある。

Varietateは名詞「Varietas(多様性)」の奪格、Unitasは名詞「Unitas(一致)」の主格である。
奪格の用法は様々だが、一番多い使用例の一つが方法・手段を表し、「~によって」という訳になる。
だから、このモットーを直訳すると、「多様性による一致」となる。

一方で、日本語のモットー「多様性における一致」
「~における」という日本語をラテン語で普通に翻訳すると「Unitas in varietate」となり、前置詞「in」がいる。
前置詞なしの奪格だけでも、「~における」という意味での使用例があるのかもしれないが、ちょっと違和感を感じた。

前置詞「in」のあるなしで、意味は微妙に異なる。
「多様性による一致」という意味であれば、多様性を手段として「一致」の状態を得るという意味なる。。
「多様性における一致」という意味であれば、一見バラバラにみえるけれども、実は「一致」しているという意味になる。
前者は動的、後者は静的とでもいえようか。

だが、カトリック教会という文脈に即していくと、実は「多様性による一致」でも、「多様性における一致」も意味の差は薄くなる。それは、一見バラバラで共通項を見出せないような人々は、キリストにつながること(つまりカトリック教会と結ばれること)で一致を得るだけでなく、その多様性が相互補完的となり、さらに一致を深めると解せるからである。

こう考えると、菊地大司教は「多様性による一致」と「多様性における一致」の二義性をもたせるため、敢えてラテン語モットーに「in」を加えなかったのかもしれない。一度本人に聞いてみたいと思う。

最後に菊地大司教の着座式の記念カードの後ろに引用されている聖書の箇所を紹介し、この日記を終えたいとする。菊地大司教が聖霊に聴き従うことができますことを祈念して。

わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
(ローマ人への手紙12章4・5節)


2016/01/21

ユスト高山右近が福者に

日本のキリシタン大名の一人、ユスト高山右近が福者になることがどうやらきまったらしい。

産経
http://www.sankei.com/west/news/150703/wst1507030052-n1.html
日経
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG22H2N_S5A620C1CR0000/
読売
http://www.yomiuri.co.jp/world/20160120-OYT1T50068.html?platform=hootsuite

産経のニュースが一番詳しく記事を書いている。

ユスト高山右近は殉教者として福者になるので、奇跡は不要となったが、聖人になるためには奇跡が最低一つは必要となる。奇跡が起きるためには、信者が何よりユスト高山右近にとりなしの祈りをする必要がある。ユスト高山右近の崇敬は日本の中でも、関西と金沢が中心となるだろうけれど、その地域の人々の熱心な祈りが期待される。

ユスト高山右近が与ったミサは、今日の日本語のミサと同じではない。今日、特別形式のミサと呼ばれているミサこそが400年前にユスト高山右近が与ったミサに他ならない。今週の日曜日には東京では赤羽教会と新宿の若葉修道院で特別形式のミサが行われる。ユスト高山右近の列福(福者になること)が決まった今週に、特別形式のミサに与ることは意味があることだと思う。

以下はウナ・ヴォーチェ・ジャパンのサイトからの引用(読みやすくするため、若干編集)

【特別形式歌ミサ】2016年1月24日(日)、赤羽教会(東京都北区)
【日時】平成二十八年(2016)年一月二十四日(日)
  午後2時〜 ロザリオの祈り(告解)
  午後2時20分頃~ 灌水式、特別形式の歌ミサ(七旬節の主日、二級、紫)
【場所】カトリック被昇天聖母赤羽教会(東京都北区2−1−12)
【司式司祭】モンシニョール・デビッド・リンク(米国カリフォルニア、オークランド司教区司祭、エルサレムの聖墳墓騎士修道会騎士。オークランド司教区において、ローマ典礼のミサ(通常形式及び特別形式)とメルキト・ギリシア典礼のミサを捧げられています。)

【特別形式歌ミサ】2016年1月24日(日)、若葉修道院(東京都新宿区)
【日時】平成二十八年(2016)年一月二十四日(日)
 午後1時 開場
 午後1時30分より ロザリオの祈り・告解
 午後2時頃より 灌水式、ローマ典礼の特別形式の香付き歌ミサ、聖体降福式(Benediction)
【場所】 聖パウロ修道会若葉修道院(東京都新宿区若葉1-5)
【司式司祭】 アウグスチヌス池田敏雄神父(聖パウロ修道会)
2014/10/27

『希望の丘』70号の巻頭言を読んだ感想

 聖パウロ修道会の会誌『希望の丘』70号に興味深い記事があったので、ぜひ紹介しておきたい。もとは池田神父からぜひ読んでみてくれと紹介を受けたものだが、それは聖パウロ会管区長の鈴木神父の「モナスティックと召命」と題されたコラムである。

 鈴木神父が6月に南仏の修道院を訪れたときの様子が語られており、コラムの後半からフランスの修道院の召命事情が語られる。かつては100人、200人いた4つの伝統ある修道院は大きく様変わりし、どこも「召命の少なさ、高齢化、そして国際化」を感じるものだったという。

 他方で比較的歴史の浅い(50年程度)の2つの修道院はベネディクト会の男子と女子の修道院だったそうだが、、最初の4つの修道院とちがって、修道者が「どちらも若者であふれていた」そうだ。この二つの修道院の共通点は「どちらもラテン語で祈り、伝統的な修道者の服装をし、カトリックのかつての伝統を大切にしていること」だという。

 記事を読んで、第2ヴァチカン公会議以前の修道生活が若者を引き付けていることを中立的な立場から語ることで、それが説得力をもって伝わってくるという印象を受けた。かつてベネディクト16世が特別形式ミサについて語った言葉を改めて思い出したい。ウナ・ヴォーチェ・ジャパンが日本で特別形式ミサを普及に努めている理由はここに全て言い尽くされているといってよいと思う。

 典礼史には、成長や発展はあっても、決して断絶はありません。過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。わたしたちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与えなければなりません。(教皇ベネディクト十六世の全世界の司教への手紙(2007.7.7))