2012/01/14

ミサで小型ミサ典書を用いることについて

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は小型ミサ典書(Hand Missal)に関する質問で、2011年10月25日の記事から(原文はコチラ)。
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質問
 会衆は小型ミサ典書を用いて、朗読も含めた典礼を追いかけるべきでしょうか?主の御言葉は聴かれることを意図されており、読まれることを意図していないという司教や神父もいます。小型ミサ典書はただミサの他の箇所のためのものなのでしょうか?(米国、ロードアイランド州、グリーンビル、M.R.さん)

回答
 これは自由に議論をしてよい論点なのですが、一般的な好みとして(ミサに)参加を促す手段として本を使用することはすすめられていないということも事実です。

 1998年にアメリカ司教協議会の典礼委員会は『参加を促す手段の出版に関する指針(Guidelines for the Publication of Participation Aids)』という素晴らしい文書を出しています。ことばの典礼に関して、同文書はこう述べています。

 ミサで宣べ伝えられる神のみ言葉によって、聖霊は「私たちが外で聴いたことが内面にその効果をもたらされる」(『ミサの朗読に関する概略紹介』8項)。しかし、このことが起きるのは、聖書朗読がよく聞こえ、明瞭で、知的になされる場合(前掲書14項)、十分なマイク設備が用意されている場合(前掲書34項)に限られるだろう。

 神のみ言葉を典礼に参加する全員が明瞭に聴くことができることは明らかに望ましいことである。というのは、「神のみ言葉を聴きながら、教会は建設されていったから」(前掲書7項)。このため、み言葉が効果的に宣べ伝えることが不可能な状況でないなら、参加を促す手段として聖書朗読箇所や公式祈願の印刷はすすめられない。しかし、こうした状況(訳注:み言葉が効果的に宣べ伝えることが不可能な状況)においても、会衆に朗読箇所の印刷されたものを配る手段に訴えることよりも、聖書が効果的に宣べ伝えることを確保するための手段をとることが望ましい。


 それ故、神のみ言葉や公式祈願に沿って読むことよりも、それらを注意深く外的及び内的に聴くことが理想となります。小型のミサ典書を使用することは、今日、特別形式のミサと呼ばれているミサに与るために、もともと20世紀の初めに広く普及しました。小型のミサ典書はラテン語のミサ式文と国語によるそ翻訳を載せ、信徒の手に齎すことで、それを用いることが典礼運動の中での前進を示したのでした。

 通常形式のミサが国語で聴こえる形で現在普通に行われていることは、小型ミサ典書をただ脇に置くべきだと言うことを意味しません。ミサの前に朗読箇所や祈りを黙想しながら読書することで、小型ミサ典書は積極的な参加を準備するための素晴らしい手段となります。それはまた儀式や祈りの中にある考え方を把握し、それ故、集中を維持することを助けるためにも用いられるでしょう。

 主観的な要素もあります。様々な正当化できる理由のために注意深い外的及び内的な聴きとりという理想の状態に達成することが難しい人々も少なくありません。カトリック信者がミサの間、小型ミサ典書を用いることで霊的な益があるなら、それを使うことは自由であると私は思います。

 アメリカ司教協議会の典礼委員会がこのような指針を必要と感じた事実からして、彼らが小型ミサ典書や他の参加を促す手段の使用をただ廃止したいとは思っていないことの証拠です。

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(感想)
 私が典礼に関心を持つことになったのは、ある小型ミサ典書を手にしたことがきっかけだった。その意味で小型ミサ典書に関する思い入れは人一倍ある。いまや私の手元には6種類の小型ミサ典書がある。半分は通常形式のもので、半分は特別形式のものである。

 私が最初に手にしたのは、デルコル神父編『ミサの友』(世の光社、1985年)だった。この本は私が見聞きしている典礼の形よりも、オリエンス宗教研究所『聖書と典礼』が紹介するものよりも、何十倍も豊かな典礼が存在することを私に教えてくれたものだ。

 今では『毎日のミサの友』(サンパウロ、2003年)を日本語の通常形式の小型ミサ典書として使っているが、デルコル神父の方は、一部ではあるが、ラテン語原文の式文を掲載していたり、日本語版と規範版の相違箇所を教えてくれるので傍に置いている。

 私自身の小型ミサ典書の使い方は、やはりミサ前後の予習・復習用がメインだ。通常形式でも特別形式でも小型ミサ典書の文字を追いながら、ミサを追いかけるのは私にとってはミサで祈った感じがしないから控えている。この辺はマクナマラ神父も最後に書いているとおり、好みの問題なのだろう。

 小型ミサ典書はカトリック信者にとって大いに益のある書物なのにもかかわらず、日本で現在入手できるものは極めて限られている現状は大いに問題だと思う。先にあげた『毎日のミサの友』もamazonでは新刊では購入できないようだ。特別形式については状況はもっとひどく、日本語対訳が載っているものでは、チーグレル『彌撒典書』バルバロ『毎日のミサ典書』があるが、いずれも絶版となって久しく古本屋でも見つけることが難しくなっている。

 信仰年を迎えた2012年。通常形式でも特別形式でも日本語の小型ミサ典礼書が整備される年になってほしい。
2012/01/06

主日ミサの移動又は代替について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は主日ミサに関する質問で、2009年1月6日の記事から(原文はコチラ)。
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質問
 私たちが住むここネパールの状況は非常に変わっています。というのもこの国では日曜日は通常の労働日だからです(多くのアラブ諸国でもそうだと思います)。だから、長年(30年以上)、日曜日のミサは全て土曜日に、この日は人々が完全に参加することのできる唯一の日だからなのですが、移動しています。しかし、このことはいくつか混乱を起こしています。というのは土曜日にミサに与ることで主日の義務を果たしたと感じることが難しいという人々がいるからです。また日曜日にはどのミサをあげるのかという別の問題もあります。同じミサを繰り返すところもあれば、主日に土曜日のミサを奉げているところもあります。このような状況のため、しばしば土曜日に祝う祝日がなくなっています。私は個人的には土曜日のミサが大好きです。というのも両方の日にミサを奉げることに慣れているからです。これらに加えて、この国の暦はグレゴリオ暦と異なっています。月がグレゴリオ暦の月のおよそ半分ぐらいの所から始まります。公式の行事ではすべてこの暦を使わなければならないのですが、ほとんどの人々もまたこの暦を用いています。いくつかのケースで私たちは議論をしてきました。例えば、月の初金はいつになるのか?ネパール暦によるのか、グレゴリオ暦によるのか?(ネパール、カトマンズ、P.P.さん)

 私たちの国では非常に頻繁に小教区の祝日を日曜日に祝います。例えば、聖ユダ教会なら、聖ユダの祝日という具合に。これは正しいのでしょうか?もし主日の聖書朗読箇所が読まれずに、祝日に固有の別の箇所が朗読された場合、それは正しくないと思うのですが。(スリランカ、コロンボ、M.Jさん)

回答
 両方の質問共に主日の典礼に関わることなので、両方を一度に答えようと思います。

 最初のケースですが、キリスト教徒にとって主日は移動できる祝日ではないということを思い出すことが重要です。1世紀から3世紀の間、日曜日が労働を行う通常の日であったにもかかわらず、キリスト教徒は日曜日に集まっていました。キリスト教徒の多くは大きなリスクをとった奴隷たちでした。このことはしばしば早朝に起きだすことや、夕方に忍び出ることを意味しました(もちろん、私たちもキリスト教徒であるというだけで痛みを伴う死につながってしまう可能性のある時代にいます)。古代の殉教者たちのある集団は自分たちに判決をくだした裁判官に「わたしたちは日曜日なしには生きていくことができません」と言ったことは有名です。

 主日のミサはカトリック信者の生活にとってその価値又は重要性をいささかも失っていませんし、最近の出来事が示す通り、自分たちの信仰を守ることで現代のカトリック信者が昔ほど英雄的でなくなっているわけでもありません。ただ同時に、カトリック信者の生活の現在の状況や、できるだけ多くの民の精神的な必要性を手当てしたいという教会の思いがいくつかの革新を生むことができます。

 ではネパールやアラビアにおける主日の状況や同じような別の状況は何なのでしょうか?

 まず主日は常に主日のままですから、その日に固有の典礼が常に祝われるべきです。同じように信者は可能な限り主日又は土曜日の夕方のミサに出席すべきです。必要かつ有用であれば、司祭は通常でない日にミサを自ら進んで奉げるべきです。

 日曜日が通常の労働日であるため金曜日又は土曜日の朝に主日の典礼を行う許可が与えられているケースでは、これが主日を別の日に移動したケースではないということをが大切になります。むしろ、これは土曜日の夕方又は日曜日にミサに与ることが不可能であるカトリック信者が3年サイクルによる聖書朗読と祈りによって与えられる豊かさを失わないようにするための司牧的な配慮です。

 法的に言えば、日曜日のミサに出席することが客観的にできない人々は法の規定の対象から外れますので、実際、金曜日又は土曜日にミサに出席する義務はありません。そういった人々が出席する場合、非常によいことを行ったことになります。そして司牧者が典礼的な最上の食物を与えることで、霊的な必要性に応えるよう行動する場合、主日を他の日に移動しゃいたという印象を避けるように注意深くいることは共通しています。

 質問者が示した通り、このことは土曜日に当たるいくつかの祝日を失うことにつながります。共同祈願や説教で祝日に言及すれば十分な場合もあるでしょうし、日曜日の朗読箇所を使用する代わりに土曜日の朝に祝日を祝うことは司牧的に言ってより役立つ可能性がある場合もあるでしょう。

 地元の暦が異なる場合、従うべき適正な暦が何かというもう一つの質問は難しい問題です。このような場合、地元司教が決定を下す人になるでしょう。必要なら、司教はグレゴリオ暦に結びついたある種の典礼上の祝日、例えば聖心の祭日、の日を変更する許可を聖座に願い出るかもしれません。

 初金又は初土のような慣習は信心によるものであり、公式な典礼の行為ではないので、地元の必要にこの習慣を調整することは何ら困難がないように思います。

 最後にスリランカの質問者に対して答えます。小教区の守護聖人は小教区内では祭日にランクされますので、できるだけ多くの教区民がミサに出席できるようにミサをもっとも近い日曜日に移動することは許されています。

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(感想)
 日本は明治政府がグローバルスタンダードであったグレゴリオ暦を採用したおかげで、日曜日は休みであり、主日のミサを本来の曜日に祝える。日本のキリスト教徒の人口に占める割合を考えると、キリスト信者にとって非常に恵まれている環境にあるのだろう。とはいえ、サービス業に従事する人が増えるにつれ、日曜日だけでなく土曜日も休めない人が増えてきているのではないかと思うが。

 いずれにしろ、主日のミサに与ることができるというのはそれ自体が恵みであるのだから、ミサを奉げる司祭と会衆が主日を大切にし、よく準備することが必要なのであろう。

 マクナマラ神父の記事によれば、初代教会の信者は日曜日が休み出なかったにも関わらず、非常なリスクを冒してでも、日曜日に集会を持ったのだという。この箇所が今回の翻訳の中で一番印象に残った。
2011/10/01

聖体拝領の時に名前を呼ぶことについて

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は聖体拝領に関する質問で、2011年8月30日の記事から(原文はコチラ)。
 なお、訳文中で引用のあるローマ・ミサ典礼書の総則の翻訳には日本語公式版の表現を借りた。

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質問
 私は終身助祭です。聖体を配布する時、拝領者の名前を呼ぶこと、例えば「メアリー、キリストのからだ」という具合なのですが、これは問題があると知らされました。主任司祭はこれを習慣的に行っています。これは適切で合法なものでしょうか?(米国ペンシルバニア州、アレンタウン市、R.Jさん)

回答
 明確な禁止はないと知っていますが、この習慣はローマ・ミサ典礼書の総則に記されているように単純で落ち着きのある、本来の儀式とは調和していません。

161 パンだけの拝領であれば、司祭はパンを取り上げて一人ひとりに示し、「キリストのからだ」と言う。拝領者は「アーメン」と答え、口で、あるいは許可されている場所で拝領者が選択する場合は手で秘跡を受ける。拝領者はパンを受けるとすぐにすべてを拝領する。しかし、両形態の拝領が行われる場合は、後述する規定を守る(284-287参照)。

286 御血の拝領をカリスから飲んで行う場合、拝領者はキリストのからだを受けた後、カリスの奉仕者の前に行って立つ。奉仕者は「キリストの血」と唱え、拝領者は「アーメン」と答える。奉仕者はカリスを拝領者に差し出し、拝領者は自分の手でカリスを口にもっていく。拝領者はカリスから少量を拝領し、カリスを奉仕者に返してから戻る。その後、奉仕者はカリスの縁をプリフィカトリウムでぬぐう。

287 カリスからの拝領が御血にパンを浸して行われる場合、拝領者はパンの小片を入れた容器を持つ司祭に近づき、口の下に拝領用の受け皿を添える。司祭の脇にはカリスを持つ奉仕者が立つ。司祭はパンを取り、その一部をカリスに浸し、それを示しながら、「キリストのからだと血」と言う。拝領者は「アーメン」と答えて、司祭から秘跡を口に受けた後、戻る。

 特別形式のミサでは式文はより洗練されたものですが、拝領者の名前を呼ぶことはありません。

 私たちの主イエズス・キリストの御体があなたの魂を永遠の生命に向かって守りますように(Corpus Domini nostri Iesu Christi custodiat animam tuam in vitam aeternam)

 ですから、拝領者の名前を呼ぶことはローマ典礼の伝統の一部ではありませんし、それ自体は合法な慣習ではありません。それは大変司牧的な行為に見えますが、個人的な要素を不意に挟むことはこの対話の内に内在する信仰宣言を弱めると考える人もいるでしょう。

 聖体を示し、「キリストのからだ」と言う時、司祭、助祭、又は聖体の奉仕者は事実を告げるだけでなく、同意をも求めています。この時、司祭等はキリストの代理人として活動しているので、拝領者は「アーメン」ということで、キリストが真に存在するとう教会の信仰だけでなく、ミサが伴う全てについての教会の信仰も認めるのです。

 個人の名前を呼ぶということで導入された個人的関係の要素は、信仰の対話的宣言をもっと人間的なレベルへと減じるものとして解釈されるでしょう。

 奉仕者は聖体拝領する人すべてを知っているわけではないので、無意識に分裂を惹起することもあるかもしれません。名前を読んでもらわなかった人は気を害するかもしれません。各人の名前を求めることは聖体拝領の儀式の流れを悪くするように思えます。

 同時に、拝領者の名前を呼ぶという伝統を持つ典礼もあることは認めておかなければなりません。ビザンチン典礼では、拝領者は司祭に一人ひとり近づきます。司祭は拝領者に聖体と御血を与えて、こう言います。

 神のしもべ、某は私たちの主、神であり救い主であるイエズスキリストの御体と御血を、あなたの罪のゆるしのため、永遠の命のために拝領する。

 この洗練された式文は、聖体拝領がローマ典礼ほど頻繁でなく、しばしば会衆のうちの数人だけが拝領するというビザンチンの伝統の文脈の中で存在しています。実際、信者が祭壇に近づく前に、司祭が聖体への信仰告白を含む長い準備の祈りを唱えながら、拝領者がいる場合はミサに特別な儀式が追加されます。

 各々の慣習はそれぞれの典礼の中で働いているので、これらの違いに矛盾はありません。

以上
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(感想)
 私がかつて通っていた京都の教会の司祭は、よく私に「アウグスティノ、キリストの体」といって聖体をくれていた。私自身はいい印象をもっていたのだが、確かにマクナマラ神父が指摘するように、個人名を言ってもらえない人はあまりいい気分はしないだろうし、そういう意味では司祭のよかれと思っていることが悪い結果をもたらしかねない慣習なのかなとも思う。

 なお、記事の後半で言及のあったビザンツ式の典礼について、東方帰一教会の助祭からの投稿があったことをマクナマラ神父がフォローしている。それによると、ビザンツ式の典礼では聖体拝領に限らず、秘蹟全般について信徒の名前で呼びかけるそうで、その理由は「あらゆる秘跡は主イエズスとの個人的な出会い」と見なされているからだそうだ。また、聖体拝領の頻度については、ローマ典礼のカトリック信者と変わらないとのこと。
2011/09/19

ミサの中心について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回はミサと祭壇に関する質問で、2011年8月16日の記事から(原文はコチラ)。
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(質問)
 ミサにおいて、中心となるものはどこでしょうか?誰なのでしょうか?何なのでしょうか?祭壇ですか?聖櫃ですか?司式者ですか?私がこう質問するわけは、とりわけ、不和(不満)が生じ、私たちの小教区の一つで深刻な対立が起きているからです。司祭の入れ替わりの激しいことも会衆の混乱を助長しています。というのはそれぞれ自身の信念や確信に基づいて、ある人はこう言い、別の人はああ言うからです。私がこう質問する別の理由は、しばしばサンクチュアリの設えが違うことがよくあるからです。私たちのケースで言うと、聖櫃は祭壇に向かって右手にあるので、香部屋から司式者の椅子、祭壇及び朗読台に達する前に祭壇の前を通り過ぎます。どうか最新の典礼の考えとあなたの見解を教えてください。(リベリア、モンロビア市、V.C.さん)

(回答)
 感謝の祭儀における真の唯一の中心はキリストとその救いの神秘であり、残りすべてはその周りをまわっています。

 キリストが中心であることはミサの中で様々な方法で表現され、それは教会建築の構造においても表現されています。

 建築的観点から言えば、祭壇が中心であるべきです。アメリカ司教協議会は『生きる石で造られた(Built of Living Stone)』という文書の中で祭壇の中心性を説明しています。

§56 聖体において、典礼に集う人々はキリストの生と死と復活を記念し、現存させる儀式的な犠牲の食事を祝い、「主が来られるまでその死を」述べ伝える。祭壇は「聖体が全うされる感謝の中心」であり、その他の儀式がその周りに位置づけられる中心点である。カトリック教会は「祭壇はキリスト」であると教えているため、祭壇の構成は主が体現されていた高貴さ、美しさ、力強さ、単純さを反映すべきである。新しい教会ではただ一つの祭壇だけを設け、「信者に一人のキリストと教会の唯一の聖体を表すようにする」。

§57 祭壇は内陣において自然と焦点となり、「司祭がその周りを歩きやすいよう独立して立っているべきであり、ミサは会衆と向き合って奉げるべき」である。一般的には祭壇は床に固定された土台をもち、生きた石(ペトロの手紙一 2章4節)であるイエズス・キリストを示すために、自然石でつくられた机の部分をもつ。机の脚(支え)は「ふさわしく強固なものである限りはどんな種類の素材で」作っても構わない。アメリカでは固定式祭壇に自然石以外の素材を使っても構わない。ただし、それらの素材が価値のあるもので、強固で、適切に作られおり、地元裁治権者のさらなる判断におかれる限りにおいてである。新しい教会を建立する小教区は祭壇の種類や新しい祭壇に適した素材に関する司教区の指示に従わなければならない。

 §58 祭壇の大きさ又は形に決まったものはないが、それは教会と調和のあるものであるべきである。大きさや形は祭壇の性質を、つまり犠牲を奉げる場所として、キリストが共同体を養うためにその周りに共同体を集めた食卓として、反映されるべきである。祭壇の寸法について考える際に、小教区として内陣ある他の主な造作が祭壇とと調和しているのかを確かにしたいところだろう。祭壇の机の部分は司式司祭、助祭、そこで奉仕する侍者が集まれるだけの大きさがあり、ローマミサ典礼書とホスチア及び葡萄酒が入っている祭器具を支えることができるようにすべきである。効果や中心となる品質は祭壇の位置、大きさ又は形だけが関係しているのではなく、祭壇のデザインとその設計が価値のあることも関係している。祭壇は内陣の中心に、そして教会の中で注意の中心となる所に設置すべきである。

 §59 感謝の祭儀の間、祭壇は教会のあらゆる場所から見えなければならないが、祭壇の位置を高くして典礼に集う人々から視覚的又は象徴的分断を引き起こすほどであってはならない。祭壇をどう高くするかは、車いすが必要な奉仕者又は他の障害を持った奉仕者が祭壇に近づくことができるかのかという点から見出すことができるだろう。

 §60 教会の歴史と伝統の中で、祭壇はしばしば聖人の墓の上に設置されたり、聖人の聖遺物が祭壇の下に安置されてた。祭壇に聖人の聖遺物が存在することは、祭壇の上で祝われる聖体は聖人たちに聖性をもたらした恩寵の源であるという教会の信仰を証言している。殉教者又は他の聖人の小さい聖遺物を祭壇石に置き、それを祭壇の机に安置するという慣習は第2ヴァチカン公会議以降変更された。殉教者や他の聖人の聖遺物は祭壇の下に安置しても構わない。ただし、聖遺物の大きさは人体の一部であると認識できるほどの大きさであり、疑いのない真正なものに限られる。聖遺物は祭壇の上や祭壇の机の上の祭壇石の中に安置されることはもはやない。


 この文書はアメリカに適用されるものですが、この点に関する教会の普遍的な教えや指針を反映しています。

 ミサの間、中心となる他の場所も祭壇に関連付けらています。御言葉の祭儀では朗読台や感謝の祭儀のために祭壇に登る前後に祈りで共同体を導く場所である司祭席があります。

 聖櫃はミサの間、関心が向けられる中心ではありません。たとえミサ以外の崇拝のために聖櫃は教会建築の中で目立った場所、中心をしめるべきでものであるとしてもです。ミサの間、聖櫃が内陣の中に位置している場合、ローマミサ典礼書総則274項はこう示しています。

 司祭と助祭及び他の奉仕者は祭壇に近づく時と祭壇から離れている時にひざまずく。ただし、ミサの祭儀そのものが行われている間は除く。

 もし聖櫃が内陣にあり、祭壇の後ろにない場合、奉仕者は聖櫃に向かって跪きます。

 司祭はキリストのペルソナを通じて働くのですが、必ずしもミサの中心ではありません。司祭が自分に注意が向くことを避け、キリストの神秘に会衆を導こうとする時、司祭は実際最も印象的に見えます。事実、祭服や聖歌の使用、特別な位置は司祭自身と言うよりむしろ司祭の奉仕職を強調することを意味しています。司祭は神と人とをつなぐ橋(pontifex)であり、橋は遠目からは称賛を受けるものかもしれませんが、役に立つのは私たちが橋を踏みつける時だけなのです。

以上
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(感想)

 ミサで焦点が当たるべきはキリストとその救いの神秘であるが、モノでいえばそれは祭壇である。なぜなら祭壇はキリストの犠牲をつうじた救いが実現される場であるからだというのが上の記事のエッセンスだろう。完全に同意である。第2ヴァチカン公会議後の典礼改革で、ほとんどの教会で祭壇が新造されたが、「主が体現されていた高貴さ、美しさ、力強さ、単純さを反映」したように見える祭壇の少ないこと!この記事を読んだ方が祭壇への関心を持ってくれれば幸いである。
2011/07/31

ミサの前の断食について

 カトリック系のニュース通信社Zenit(ゼニット)英語版の名物コーナー、「典礼質問箱」からの翻訳をUPする。今回は2011年7月5日の記事から(原文はコチラ)。

 なお、翻訳文中で引用したカトリック教会法の邦訳は公式訳でなく、英文からの拙訳である。

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質問
 私の主任司祭はミサが始まる1時間前から断食を行う習慣を送っていますが、信者には聖体拝領が始まる1時間前だけ断食しなさいと教えています。司祭には別の基準があるのでしょうか?主任司祭の同僚の司祭は信徒の規定に従っており、聖体拝領前の1時間だけ断食を行っています。主任司祭は自分の断食の習慣を続ける意向ですが、別の基準があるのか、それはどの文書によっているのかを知ることができると幸いです。教会法を見たのですが、何も見つけられませんでした。(米国インディアナ州、シェルビービル市、L.R.さん)

回答
 聖体拝領前の断食に関する現在の規定は教会法919条にあります。

1、聖体を拝領するものは、少なくとも聖体拝領の前の1時間、水と薬の場合を除く以外はいかなる食物又は飲み物を取ることを控えなければならない。

2、同じ日に2又は3回ミサ聖祭を行う司祭は、1時間の間が空いていなくても、2回目又は3回目のミサの前に食事をとっても構わない。

3、高齢者、病気を患っているもの、その者たちを看病するものは、聖体拝領に先立つ1時間の間に何かを食べていても、聖体を拝領することができる。


 ですから、教会法が司祭と信徒の間に置く唯一の区別は、複数回のミサを行う司祭のための断食を緩和することだけです。

 質問者が述べられたように、断食は聖体拝領の前であって、ミサの前ではありません。しかし、尊敬と崇敬の念から、司祭又は信徒が最低必要とされる時間を超えて断食する期間を延ばす場合、これは称賛に値する慣習です。

 一時間の断食では水以外のあらゆる飲食物について口を通じて食べる又は飲み込むことを控えます。チューインガム自体は断食を破りませんが、噛むことで出てくるジュースや甘いものを飲み込むことは断食を破ってしまいます。

 食物は口から摂取されるべきものなので、管から栄養を取る病人は断食を破りません。薬も同様です。

 聖体拝領前に断食するという決まりは長い歴史をもっていると、教皇ピウス12世は使徒的検証「クリストゥス・ドミヌス」(1953年)で述べられています。

 非常に初期の段階から、断食を行っている信者に聖体を授けるという慣習が守られていました。4世紀の終わりにかけて、多くの宗教会議はミサ聖祭を行おうとする人々に対して断食することを命じています。例えば393年にヒッポの会議はこのような命令を行っています。「祭壇の秘跡は断食を行っている者のみ行うことができる」。すぐ後の397年に、カルタゴの第三回会議ではこれと同じことが、全く同じ言葉を用いて命じられています。5世紀の初めに、この慣習は非常に普及し、歴史が深いものと呼ばれています。それ故、聖アウグスチヌスは聖体は常に断食をしている人々が受けるものであり、その上、この慣習は全世界で守られていると断言しています。

 疑いなく、この断食は非常に重要な理由に基づくものですが、そうした理由の中に、とりわけ異邦人の使徒(訳注:聖パウロ)がキリスト者の兄弟的な愛餐について嘆いた理由をあげることができます。私たちが聖体の覆いの下に隠れたイエズス・キリストを受ける時、私たちは特別な敬意の念から食物や飲み物を断つことをイエズス・キリストの至高の権威に帰さなければなりません。さらに私たちが食物をとる前にイエズスの尊い御体と御血を受けるとき、これこそ私たちの魂が養われ、聖性が増す最初の最も価値のある食物であることを私たちは明確に示すことになります。だから同じ聖アウグスチヌスはこのような警告を与えています。「秘跡に多くの栄光を帰すため、他の食物よりも前に、主の御体がキリスト者の口に入るべきであるということは聖霊を喜ばせてきました。」

 聖体に関する断食は私たちの聖なる贖い主にふさわしい名誉を与えるだけでなく、信心をもまた育てるものです。それゆえ、それは私たちの中に、善の源であり創り主であるキリストが、恩寵によって生み出すために豊かにされた私たちに切に望んだ聖性の最もためになる実りが増えることを手助けすることができます。

 ピウス12世の時代の前、聖体の断食は真夜中から始まり、水を含んでいました。これはまたミサは午前中にしか行われないことを意味していました。

 上述の憲章の中で、教皇様は断食の重要性を強調しつつ、以下のように断言されています。

「それにもかかわらず、私たちが生きている時代とその特有の諸条件は社会の習慣や日常生活の諸活動に多くの変化をもたらしたと述べられるべきでしょう。これらの中には、もし聖体の断食に関する法が過去に守られていたのと同じ方法で今日まで守られた場合、人々が聖なる神秘に加わることを妨げる深刻な困難が生まれているかもしれません。」

 ピウス12世は多くの人々が聖体拝領をすることを妨げる困難さ一部に言及しています。その中には、司祭の数が、特に宣教地において足りないことや夜勤を含む工場や事務所での現代の生活ペースがあります。教皇様はまた多くの人がミサに与れるよう特別な祝日においてミサを夕方に行うという可能性を広げることを望んでいます。

 それ故、まず教皇様は水と薬の服用はもはや断食を破らないということを確立しました。またある種の状況下において断食を緩和しました。1957年に、『サクラム・コミュニオーネム』という文書でもって、教皇様は断食を3時間とするよう法を改正しました。

 教皇パウロ6世は1964年11月に現在の規律を導入し、これが教会法919条の基本となっています。

以上
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(感想)
 ミサ前の断食は実にいい慣習だと思う。特に朝起きてから最初に口にする食べ物が聖体の場合、空腹感も助けて、聖体を肉と魂で味わうことができると自分の経験からも言うことができる。

 断食する時間が長くても、短くても、大切なのは心であることは言うまでもない。暴飲暴食をして前の晩から断食をしても、ミサの前に心を整えることには役に立たないだろう。それよりはミサのある日は食事や飲み物を敢えて少ししかとらないようにして小さな犠牲を奉げる方が私には良いように思える。
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