2018/06/07

イエスのみ心の祭日の集会祈願

6/8(金)はイエスのみ心の祭日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。

通常形式のミサの集会祈願は2つ用意されているが、ここでは特別形式ミサの集会祈願と同じ祈りをとりあげたい。それではラテン語規範版の祈りを見ていこう。

ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Deus, qui nobis in Corde Filii tui, nostris vulnerato peccatis, infinitos dilectionis thesauros misericorditer largiri dignaris,

concede, quaesumus, ut illi devotum pietatis nostrae praestantes obsequium, dignae quoque satisfactionis exhibeamus officium.
神よ、あなたはわたしたちの罪によって傷つけられた御子の御心のうちに、愛の無限の宝を慈悲深くもお与えくださいます。

切に願います。御子に対する私たちの神への愛の心からの奉献(従属)によって、私たちが適切な贖いの務め(義務)を果たすことができますよう、お許しください。
聖なる父よ、あなたは、人類の罪のために刺しつらぬかれたおん子のみ心のうちに、限りないいつくしみの泉を開いてくださいました。

わたしたちが、心からの奉献によって、キリストの愛にこたえることができますように。


ラテン語規範版では一文であるが、構造上は神に対する二つの祈願で構成されている。前半のqui節は神(Deus)を修飾し、神に関する事実を述べる役割を果たしている。後半は前半を受けた祈願という構造である。

前半部分で語られる神に関する事実とは2つあり、一つ目は私たちの罪のために神の御子イエスの心臓は刺し貫かれたということ、二つ目はその心臓のうちに、父なる神は尽きることのない愛の贈り物を私たちに慈悲深く今も与えてくださっているということである。私たちに罪に対する罰ではなく、犠牲的愛でもって報いられるがゆえに「慈悲深くも」(misericorditer)という言葉が用いられ、その愛が今も与えられているがゆえに「与えてくださいます」(largiri dignaris)と現在形が使用されているのだろう。

後半の祈願の部分に進もう。父なる神への祈願内容はut節に述べられている。その内容とは御子イエスに対して神への愛(pietatis)による供え物(obsequium)を捧げることで、私たちの罪を償う適切な贖いの義務を全うすることである。「obsequium」は「~に従うこと」「~を承認すること」という意味もある。つまり、御子イエスに対して心から同意し従うことがまず私たちがなすべきこととして述べられている。

次に「務め(義務)」(officium)という言葉が使用されていることに注意を向けたい。私たちは洗礼で原罪と自罪を赦されているが、洗礼後も罪の傾きが残るがゆえに罪を犯す。それだけではない。自分自身が犯さなくても、兄弟姉妹である人々が犯した罪に対しても贖いが必要である。その贖いの業とは、隣人愛に基づく行為があげられよう。

この集会祈願の内容をおさらいすると、まず御子イエスの死を通して、私たちの罪を贖う神の愛が先に示されたこと、この愛の結果、私たちは御子に対して神に対する敬神の心からの同意(従属)を示すことで応え、同時に贖いの業として隣人愛に基づく愛徳の業を実行する務めを果たすことができるようになるということが述べられている。内的な神への愛(pietas)と外的な隣人愛(caritas)は分けることができないとするキリスト教倫理の基本がここに示されている。この集会祈願の内容は次の聖書の箇所と呼応する。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪のために、贖いの供え物として、御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たちよ、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合わねばなりません。(フランシスコ会訳『ヨハネの第一の手紙』4章10-11)



さて、最後に日本語公式訳をみてみよう。

前半はよくできた翻訳であるといえるが、その分、後半の訳の不十分さが残念である。どこが不十分かというと、「心からの奉献」の対象が明示されていないこと(ラテン語規範版では「彼に(illi)」と明示)、「適切な贖いの務め」(dignae quoque satisfactionis officium)という具体性のある言葉が、「キリストの愛にこたえる」とより抽象的な言葉に翻訳されていしまっていることである。日本語公式訳の翻訳者が「贖い」や「務め(義務)」といった言葉が嫌いだったとだろうか?


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2018/06/05

教皇フランシスコはドイツ司教団の指針公布を拒絶【プロテスタント配偶者への聖体拝領】

依然として騒ぎを起こしたままになっている、ドイツ司教団によるプロテスタント配偶者への聖体拝領の問題について、イタリアの新聞「L'Espresso」が衝撃的な記事を6月4日付けで発表した。スクープなのでガセネタの可能性も否定できないが、興味深いので紹介したい。

引用記事はコチラ

5月25日付けで教理省長官ラダリア被選枢機卿の名前で以下の内容の手紙が、マルクス枢機卿(ドイツ司教協議会議長で、プロテスタント配偶者への聖体拝領を許す指針の唱道者)宛てに送られた。この手紙はプロテスタント配偶者への聖体拝領を許す指針に反対しているウオルキー枢機卿ら5名にも写しが送られた。原文はドイツ語である。

冒頭、、ラダリア被選枢機卿は教皇フランシスコの間で複数回打ち合わせがもたれた上で、手紙で指摘する内容は教皇から明示の承認が得られていることを述べている。手紙ではドイツ司教団のこれまでのエキュメニズム推進への努力を認めつつ、プロテスタント配偶者への聖体拝領を許すドイツ司教団の指針について、教皇は「公布の準備ができていない」という結論に至ったと書かれている。その理由は次の3つ。

1 異宗婚のプロテスタントへの聖体拝領を許すという問題は教会の信仰にかかわり、全教会にとって重要性をもつため

2 この問題はプロテスタント以外のキリスト教諸団体との宗教間対話に少ないない影響を与えるので

3 教会法844条に抵触しているため。

以下は私の感想。
この手紙が本物だとして、これを受け取っておきながら、プロテスタント配偶者への聖体拝領の指針を推し進めようとしているマルクス枢機卿ら聖職者は教皇の指示を軽視するとんでもない悪者にしか見えない。しかし、そこまで確信犯的な悪者なのか、任免権を有するローマ教皇の意向を無視してまで行おうとする彼らの利益は何か?教会税の制度のおかげで、豊かなドイツのカトリック教会とドイツ政府との間で何か密約があるのではないか(またはドイツ政府の意向を忖度しているのか?)とにかく、ドイツのカトリック教会がウオルキー枢機卿ら誠実な聖職者のもと、正常化することを切に願っている。

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2018/06/02

ケルン大司教ウオルキー枢機卿を支持しよう!

5/31(木)はキリストの聖体の祭日に当たり、ドイツのケルンでは恒例の聖体行列がおこなわれた。儀式の中で、ケルン大司教のウオルキー枢機卿は聖体に関する伝統的な信仰を力強く擁護したと、英語雑誌「カトリック・ヘラルド」が報じている。

Youtubeにはドイツ語による大司教の説教が掲載されているのだが、ドイツ語が分からないので、「カトリック・ヘラルド」に引用された英語訳を紹介する。(引用元はコチラ



(プロテスタントの配偶者への聖体拝領の問題について)
「ここ数週間、聖体に関して多くの議論がなされた。『それが何だ?ばかばかしい』という人もいれば、『パンチアンドジュディーショー(注、イギリスの伝統的な人形劇で、ドタバタ喜劇)だ』という人もいる。だが私は言う。これは死と命の問題である。(中略)根本的な問題である!だから戦う必要があり、正しい道を探す必要がある。それは他でもない、主の道をである。」

「(聖体拝領を希望する人は)カトリックの教義、例えば、死者への祈り、聖人崇敬、『秘蹟としての教会』といったカトリックの教義に対して『然り、アーメン』と言うことができるのかをよく考慮すべきである。というのは、聖体拝領をする人は誰でもキリストと一体となるからである。結果、その人はイエスの体の一員、教皇と司教が代表し構成する、具体的な教会の一員となる。」

(ドイツ司教団の提案がドイツ国内のことだけしか考えていないことに対して)
「もういちど繰り返す。ドイツにいる私たちは、『幸福の島』に住んでいるのではない、私たちは国民教会ではない。私たちは普遍教会の一部であり、ドイツの全司教区は教皇を頂点とする全世界の一部である」



どれも「然り、アーメン」ではないか?ケルン大司教区と関係の深い東京大司教が、聖体の祭日(日本では6月3日)のミサで、ケルン大司教と連帯して何らかのコメントが出されるといいなぁと思う。

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2018/05/31

キリストの聖体の祭日の集会祈願

5/31(木)はキリストの聖体の祭日に当たるので、その日のミサの集会祈願について書きたい。なお、日本では特別な許可の下、聖霊降臨後第二主日にこの祭日を祝うこととなっている。

通常形式のミサの集会祈願は特別形式ミサの集会祈願と同じであり、聖トマス・アキナスが編集したものと言われている。それではラテン語規範版の祈りを見ていこう。

ラテン語規範版 拙訳 日本語公式訳
Deus, qui nobis sub sacramento mirabili passionis tuae memoriam reliquisti,

tribue, quaesumus, ita nos Corporis et Sanguinis tui sacra mysteria venerari, ut redemptionis tuae fructum in nobis iugiter sentiamus.
神よ、あなたは驚くべき秘蹟(神秘)の下、あなたの受難の記念を私たちに残されました。

切に願います。あなたの贖いの実りをわたしたちのうちにたえず感じることができるよう、わたしたちがあなたの御体と御血の尊い神秘を尊ぶことをお許しください。
恵み豊かな父よ、おん子キリストは、その死を記念するとうとい秘跡を教会に残してくださいました。

主の体を受け、救いの力にあずかるわたしたちが、主の死を告げ知らせることができますように。


ラテン語規範版では一文であるが、構造上は神に対する二つの祈願で構成されている。前半のqui節は神(Deus)を修飾し、神に関する事実を述べる役割を果たしている。後半は前半を受けた祈願という構造である。一般にミサの集会祈願は父なる神に対する祈願という形であるが、この集会祈願をについては、子なる神に対する祈願となっている。

前半部分で語られる神に関する事実とは、聖体の秘蹟において、主イエス・キリストの受難の記念を神が残されたということである。記念(memoriam)とは、ただ過去の出来事の記念に留まらず、それが再現されていることを意味する。主イエス・キリストの受難、それは十字架上での死で頂点に達するのだが、それが再現されることは、まさに驚くべき神秘(sacramento mirabili)という形容がふさわしい。

後半の祈願の部分に進もう。まず子なる神に対する祈願が述べられ、次にut節以降は祈願の内容がもたらす結果、またはその目的という構造になっている。祈願の内容は私たちがパンとぶどう酒の形の下、イエス・キリストが真に実在するという尊い神秘(sacra mysteria)を尊ぶことができるようになるということである。これは神からの信仰なくしてはできないことであるので、子なる神に祈願するのである。

そして、私たちが聖体におられるイエスキリストを礼拝できるようになると、私たちは贖いの実(redemptionis fructum)を自分たちのうちに知覚できるようになる、つまり、自らは救われているという実感をえるようになる。このように、集会祈願は祈りを結んでいる。

さて、最後に日本語公式訳をみてみよう。

問題だらけの翻訳であるが、致命的な問題は誰に向かって祈っているかが違う点である。つまり、ラテン語規範版では子なる神に対してであるのに対し、日本語公式訳は父なる神である。祈る相手を変えてしまっているため、日本語公式訳はラテン語規範版を離れた創作を行っている。とくに後半部分がそうである。

日本語公式訳では「主の死を告げ知らせること」が祈願内容となっているが、そのために自分がふさわしい状態かを振り返る必要なことを聖パウロが教えてくれている。祈願するならば、主の死を告げ知らせる目的のために、神との親しい交わりを断つ大罪の状態でないことを祈願すべきでなかろうか?

したがって、ふさわしくない状態で「主のパン」を食べたり、「主の杯」を飲む人がいれば、主の体と血に対して罪を犯した者となるのです。一人ひとり自分がふさわしいものであることを確かめてから、パンを食べ、杯から飲みなさい。
(フランシスコ会訳『コリントの人々への第一の手紙』11章27-28)




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2018/05/27

米国フィラデルフィア大司教による、聖体拝領をめぐるドイツ問題について(後編)

米国フィラデルフィア大司教のチャールズ・チャプット大司教が「ドイツでおきていること」という題で書かれた記事の後編である。急いで翻訳したので、訳の不十分な箇所はご容赦願いたい。

英語の原文はココ

ドイツでおきていること

フィラデルフィア大司教 チャールズ・チャプット

(後編)
3 聖体拝領は共通の信仰と信条を前提としており、それは聖体におけるイエスキリストの実存への超自然的信仰に加え、カトリック教会の古くからの伝統が認める7つの秘蹟への信仰も含まれる。この事実を認めることで、ドイツの提案は事実上、プロテスタントの教会観を採用している。洗礼とキリストへの信仰だけで充分で、カトリックの伝統と数々の公会議が理化している信仰の秘蹟への信仰ではなさそうである。カトリック教会が理解する叙階の秘蹟、それはキリストの肉と血とする、パンとぶどう酒の聖変化への信仰を信じることに論理的なつながりをもつが、プロテスタントとの配偶者はそれを信じる必要があるのだろうか?またドイツの司教たちは叙階の秘蹟は使徒的継承に依存しないとでも示唆しているのだろうか?そのような場合、私たちはより深刻な誤謬に直面することになる。

4 ドイツの提案は聖体と国会の秘蹟との間の重要なつながりを脅かしている。それはプロテスタントの配偶者が聖体拝領に先立ち大罪のために告解にいく義務があることを示していないだろう。しかし、これはカトリック教会、トリエント公会議及び現代のカトリック教会のカテキズムに加え、教師としての司教の役割が示す、古くからの実践及び明白な教義の教えと矛盾している。これは事実上、秘跡に関するカトリックの教義のプロテスタント化を示唆している。

5 教会の教えが無視され、または公会議での定義(この場合、トリエント公会議での定義)を受けたある教えさえ再検討されるならば、すべての公会議は歴史的に相対化され再検討することができるのだろうか?多くの現代のリベラルなプロテスタントは二ケア公会議におけるキリストの神性に関する教えを疑問視したり、退けたり、または歴史的遺物として無視している。プロテスタントの配偶者はキリストの神性を信じることは求められないのだろうか?もし彼らが秘蹟におけるキリストの実存を信じる必要があるならば、彼らは叙階又は国会の秘蹟に関するカトリックの信仰を共有する必要がないのはなぜだろうか?もし彼らがすべてを信じるならば、目に見える完全な一致に至る手段として、カトリック信者となることに彼らが招かれないのはなぜなのか?

6 もしプロテスタントがカトリックの聖体拝領に招かれているならば、カトリックがプロテスタントの陪餐に与ることはまだ妨げられているままなのだろうか?もしそうならば、何が障害となっているのだろうか?もしカトリックの信者が妨げられていないならば、カトリック教会の叙階と有効な聖体の聖変化に関するカトリックの教えは事実上うそであることを示唆しているのではないか、またもしそれがうそであれば、プロテスタントの信仰が真実なのか?もし相互聖餐がカトリックとプロテスタントの聖体観が同じであることを示唆する意図がないならば、相互聖餐の習慣が信者を誤解させている。これは「物議をかもす」文書の例ではないだろうか?そして、エキュメニカルな対話の文脈において、受け入れ困難な教えをごまかす又は隠す慇懃な方法として、多くの人に取らえられないだろうか?私たちの相違という真実を系統的に隠すプロセスに基づいて、一致をえることはできない。

ドイツの相互聖餐の提案の要点は、真の教会の一致がないときでさえ聖体拝領をともにすることがあるというものである。これは聖体の秘蹟の真理の最も深いところへの攻撃である。なぜなら、その本性として、聖体はキリストの体であるからだ。「キリストの体」とは、パンとぶどう酒の外観のもとキリストが現実かつ実体的に存在することと、頭であるキリストとつながる信者の一致である教会自身の両方をさす。聖体を拝領することは荘厳にかつ公に神の前で、教会のうちに、拝領者はイエスと、聖体を共に祝う目に見える共同体と一致していることを宣言しているのである。

ある共同体と「一致していること」と、その共同体のうちで「聖体拝領をすること」との間には本質的なつながりが存在する。これらは互いにその実在性を示している。

多くのことがわたしたちとプロテスタントのキリスト信者とを結び付けている。厳しい論争の時代は終わった。私の人生における恵みの中には、偉大なキリスト信者としての特性、博識、福音に対しての献身を備えたプロテス反の友人の存在と実例がある。ここに私が書いたことは彼らの並外れた証言を否定することを一切意味していない。しかし、重要なことがまだ私たちを分けていること、私たちを分けている問題はただ過去の時代の言語的人工物ではないことも重要なことである。私たちが分かれていることはキリスト信者の一致につけられた傷である。それは神の意志によるものではない。しかし、それは私たちが認める必要がある現実なのだ。聖体のうちにイエスと出会う最も荘厳な瞬間に嘘を挟むこと、つまり、その当人が共同体とは明白に一致していないのに、行動によって「私はこの共同体と一致している」と述べることは、嘘であり、それゆえ神のみ前での深刻な違反である。

2003年の回勅『教会に命を与える聖体』の中で、ヨハネパウロ2世はこう書いている。

 聖体祭儀は、(中略)一致のための出発点ではない。それは堅め、完全に至ろうとする一致がすでに存在していることを前提としている。キリストのうちに聖霊の働きを通して私たちを父なる神及び私たち同士のうちに一致させる目に見えない次元と、使徒の教え、秘蹟、教会の聖なる叙階との一致を必然的に含む目に見える次元との両方で、秘跡はこの一致がもつ紐帯の表現である。教会共同体との目に見えない次元と目に見える次元との間の深い関係性は、救いの秘蹟としての教会を構成している。この文脈においてのみ、合法的な聖体祭儀と、それへの真の参加が可能である。結果、聖体は一致のうちに、具体的にいえばとくに完全な一致という様々な紐帯を維持しながら、祝われるべきであるということが、本質的な必要条件となる。



ドイツで起きていることはドイツでとどまることはないだろう。歴史はすでにわたしたちに教訓を教えてくれている。



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