2017/12/16

菊地大司教の紋章とそのモットーについて

今日(12月16日)に東京カテドラルで菊地大司教の着座式ミサに与った。1時間前に到着したが、すでにパイプ椅子席を含め空席はないほど、早くから多くの人が詰めかけているのに大変驚いた。パイプ椅子に座っていた知人にきくと、ミサ開始の1時間半前の時点で木の椅子席はすべて埋まり、聖堂の端にあるパイプ椅子席しか空いていなかったという。多くの人が新しい大司教に寄せる並々ならぬ期待感を肌で感じることができた。

今日は菊地大司教の紋章とそのモットーを取り上げることで、新しい大司教の考えについてあれこれ想像してい見たいと思う。
まずは紋章から。
これが菊地大司教の紋章である。

IMG_1813.jpg

菊地大司教の紋章の第一印象は伝統回帰である。
それは紋章のモットーがラテン語に戻ったことや、中央のラテン十字と盾の配置が伝統的な形になったことから分かる。
ちなみに菊地大司教の前任者の紋章は以下のとおり。

土井枢機卿
土井枢機卿
白柳枢機卿
白柳枢機卿
岡田大司教
岡田大司教

こうしてみると、岡田大司教の紋章がかなり特殊というべきかもしれない。

さて、紋章につけられたモットー「Varietate Unitas」について。
このラテン語のモットーとその日本語訳には、違和感がある。

Varietateは名詞「Varietas(多様性)」の奪格、Unitasは名詞「Unitas(一致)」の主格である。
奪格の用法は様々だが、一番多い使用例の一つが方法・手段を表し、「~によって」という訳になる。
だから、このモットーを直訳すると、「多様性による一致」となる。

一方で、日本語のモットー「多様性における一致」
「~における」という日本語をラテン語で普通に翻訳すると「Unitas in varietate」となり、前置詞「in」がいる。
前置詞なしの奪格だけでも、「~における」という意味での使用例があるのかもしれないが、ちょっと違和感を感じた。

前置詞「in」のあるなしで、意味は微妙に異なる。
「多様性による一致」という意味であれば、多様性を手段として「一致」の状態を得るという意味なる。。
「多様性における一致」という意味であれば、一見バラバラにみえるけれども、実は「一致」しているという意味になる。
前者は動的、後者は静的とでもいえようか。

だが、カトリック教会という文脈に即していくと、実は「多様性による一致」でも、「多様性における一致」も意味の差は薄くなる。それは、一見バラバラで共通項を見出せないような人々は、キリストにつながること(つまりカトリック教会と結ばれること)で一致を得るだけでなく、その多様性が相互補完的となり、さらに一致を深めると解せるからである。

こう考えると、菊地大司教は「多様性による一致」と「多様性における一致」の二義性をもたせるため、敢えてラテン語モットーに「in」を加えなかったのかもしれない。一度本人に聞いてみたいと思う。

最後に菊地大司教の着座式の記念カードの後ろに引用されている聖書の箇所を紹介し、この日記を終えたいとする。菊地大司教が聖霊に聴き従うことができますことを祈念して。

わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
(ローマ人への手紙12章4・5節)


2017/12/09

待降節第二主日の集会祈願(特別形式ミサ)

明日(12/10)の主日ミサは特別形式ミサに与るので、特別形式ミサの集会祈願について調べてみた。

特別形式のミサの集会祈願は8世紀から待降節第二主日のミサで使用されている。一方、第二ヴァチカン公会議後の典礼改革により、同じ祈りは通常形式の待降節第二週日の木曜日の集会祈願として使用されている。

(特別形式ミサの集会祈願)
Excita, Domine, corda nostra
ad praeparandas Unigeniti tui vias:
ut per ejus adventum,
purificatis tibi mentibus servire mereamu.

(拙訳)
主よ、私たちの心を奮い立たせてください。
あなたの御独子の道を用意するために。
御独子の訪れによって、私たちが清くされた心で
あなたに仕えるに値するものとなれますように。


この集会祈願では、私たちの心を奮い立たせることを願う目的が3つ明示されている。すなわち、
一つ目はイエスキリストに至る道を準備するため(ad praeparandas Unigeniti tui vias)
二つ目は来るべきキリストにより、私たちの心が清くされるため(per ejus adventum, purificatis mentibus)
三つ目は清くされた心で主に仕えるに値するようになるため(tibi servire mereamur)

キリストに至る道を準備するとは具体的には悔い改めであると思う。そう考えるのは、ミサの福音朗読の箇所(マタイ福音書11章2節から10節)で、イエスは集まった群衆に洗者ヨハネについて語っている。洗者ヨハネは預言者以上のものであり、聖書にある、主の前に道を用意するために遣わされる使いであると。ではこの洗者ヨハネが人々に何を求めたのかと言えば、悔い改めであるからである。

この集会祈願を踏まえると、私たちは悔い改めによりキリストに至る道を準備し、その道の先にあるキリストが私たちの心を清くし、私たちはようやく神に仕える身分を取り戻すことができるということだろう。そのために、決心を奮い立たせてくださいと父である神にお願いする。よい待降節を過ごすことができますように。


2017/12/02

待降節第一主日の集会祈願(通常形式)

明日(12/2)は待降節第一主日にあたる。今週は通常形式のミサに与るので、その集会祈願について調べてみたことを記事にしたい。

ラテン語 規範版)
Da, quaesumus, omnipotens Deus,
hanc tuis fidelibus voluntatem,
ut, Christo tuo venienti iustis operibus occurrentes,
eius dexterae sociati, regnum mereantur possidere caelesti.


(拙訳)
全能の神よ、切に願います。
あなたを信じる者たちにこの意思をお与えください。
来るべきあなたの救い主に、正義の業を携えて会おうと走り寄る彼らが、
救い主の右手の側に集まり、天の国を受け継ぐに値するものとなりますように。


二行目の「hanc voluntatem」(この意思を)が訳しづらい。というのは、「voluntatem」(意思を)の内容を示すはずの節や句がないからである。「volutntatem」のすぐ後にある「ut」節の内容は、直前の祈願(この意思をお与えください)の結果又は目的を導く節であり、文法的には直接係らない。実はこの集会祈願は、第二ヴァチカン公会議後の典礼改革の中で、もともと別にあった祈りを改変したものであり、オリジナルでは「voluntatem」の内容が分かるものであったという。

前述のように意味が曖昧な個所があるものの、三行目から四行目の内容は、とてもよい。「occurrentes」(走り寄って出迎える)という単語を使うことで強い期待の気持ちが示され、祈りの内容から再臨のキリスト、最後の審判、そして神の国の到来という終末的なイメージが連想されるからである。さらに「iustis operibus」(正義の業を携えて)という言葉によって、私たち信者が再臨のキリストを迎えるために必要なことが何かまでを簡潔に教えてくれている。

神の受肉は神の人間へのあわれみの行為であり、受肉した神を出迎えるために人が何かを用意する必要はなかった。しかし、再臨のキリストを出迎えるためには、信者は正義の業で用意しなければならない。正義の業がなければ、私たちは神の右の手の側に集うこともできず、従って、神の国を受け継ぐに値しないものとされてしまう。一見冷たい印象もうけるが、はっと気づかされることがあるのではないだろうか?

最後に日本語の公式訳を見てみよう。

(日本語 公式訳)
全能の神である父よ、
救い主を待ち望む心を呼びさましてください。
わたしたちがキリストを日々の生活のうちに迎え、
キリストと結ばれて、 永遠の国を受け継ぐことができますように。


いつものように、冒頭の神様への呼びかけは原文無視
二行目は原文の「voluntatem」の曖昧さを補おうとした形跡が分かる箇所。翻訳者は、ut節にある、「occurentes」に着目し、「voluntatem」の内容を補って、「救い主を待ち望む心」と訳したのであろう。いい訳だと思う。ただ、「呼び覚ましてください」は、「Excita」の訳語なら適切だが、ここでは「Da」なので、「お与えください」が適切。

三行目は原文にある「iustis operibus」を忠実に訳していない点は問題。再臨のキリストに会うために正義の業はいらず、ただ「キリストを日々の生活の中に迎え」ればよいというのは何が言いたいのかよく分からない。また「occurentes」も忠実に訳していないので、キリストを待ち望む心を与えてほしいと願っておきながら、再臨したキリストを前に、信者が静かすぎ、無感動な印象を受ける。
四行目も問題訳。原文の「eius dexterae sociati」(彼の右手の側で集う)という、最後の審判を想起させるイメージを全く訳しておらず、「キリストと結ばれ」という陳腐な訳となっている。

2017/11/25

聖霊降臨後最後の主日の集会祈願(年間第34週日の集会祈願)

明日(11/24)は2017年の典礼暦の最終主日にあたる。明日も特別形式ミサがあるので、その日の集会祈願を見てみたいと思う。
なお、通常形式ミサでは典礼暦の最終主日は「王たるキリストの祭日」となっており、伝統的な暦の「聖霊降臨後最終の主日」の集会祈願は、年間第34週日の集会祈願として使用されている。

ラテン語 規範版)
Excita, quaesumus , Domine,
tuorum fidelium voluntates,
ut, divini operis fructum propensius exsequentes,
pietatis tuae remedia maiora percipiant.


(拙訳)
主よ、切に願います、
あなたの信者の意思を奮い立たせてください。
(信者が)聖務の実りをより熱心に追い求めることで、
あなたのあわれみの癒しを一層多く受けることができますように


冒頭の「Excita(奮い立たせよ!)」は、典礼暦最後の主日のテーマである再臨のキリストを意識した力強い呼びかけである。また「神よ、あなたは~をなされました。~(Deus, qui ~, ut~)」という集会祈願によくみられる文体を用いず、簡潔に「主よ(Domine)」と呼びかけている文体を使用している。この簡潔に神様に呼びかける文体は、待降節の集会祈願の特徴でもある。その意味で、すでに待降節を意識した集会祈願であるともいえる。三行目の「propensius(より熱心に)」と4行目の「majora(より多く、豊かに)」は比較級を使用しることで、祈りにリズムをもたせている。

三行目の訳が難しい。「divini operis」は「神の業(divinum opus)」の複数・属格であるので、「神の業の実りを追い求める」という訳が直訳となるが、拙訳では、「opus Dei」がミサや聖務日課を意味するように、この集会祈願の「divini operis」を「聖なる務め」と捉え、「聖なる務めの実りを追い求める」と訳することも可能であるので、それを採用した。

「聖なる務め」についても、ミサや祈りに限らず、、聖ホセマリア・エスクリバに倣って、opus Deiという概念の外縁を広げ、日々の仕事や学業といった聖化のための手段全般と考え、私たちが仕事や学業をする中で、聖性を求める、つまり聖人になることを求めるという解釈も許されると思うがいかがであろうか?

この集会祈願では最初に、神に緩んだ意思を再び奮い立たせることをお願いし、次に祈りや日常の仕事の中で聖性をより熱心に追い求めることで、直面するであろう困難(外的なものと内的なもの)との闘いを予見し、神のあわれみによる癒しをより一層受けることをお願いしているのであろう。

最後に日本語公式訳を見てみよう。

(日本語 公式訳)
いつくしみ深い神よ、
信じる者の心を呼びさましてください。
あなたの恵みに速やかにこたえ、
救いの実りを豊かに受けることができますように


いつものように冒頭の神様の呼びかけは原文無視
「いつくしみ深い神よ」と、原文よりも冗長な言い回しを敢えて使う理由が分からない。
また原文にある比較級を使用したリズム感の翻訳が難しいのは承知しているが、この翻訳には努力をしようとした痕跡を伺いえない。三行目の「あなたの恵みに速やかにこたえて」って、具体的に何を速やかにすればいいの?「divini operis fructum」の翻訳を忠実に行わないために、原文以上に意味が曖昧となっている。
2017/11/18

御公現後第6主日(年間第7主日)の集会祈願

明日(11/19)は特別形式ミサに与れる大切な日。伝統的な暦では、聖霊降臨後第24主日以降は御公現後の主日の典礼文を使用する。年によって聖霊降臨の祝日が移動するため、聖霊降臨後にある主日の数が変わるが、今年は26主日までなので、明日(11/19)は「御公現後第6主日」の典礼文を使用し、来週(11/26)は「典礼暦最後の主日」の典礼文を使用する。

御公現後第6主日の集会祈願は、通常形式ミサの「年間第7主日」の集会祈願と同じである。

(ラテン語 規範版)
Praesta, quaesmus omnipotens Deus,
ut, semper rationabilia meditantes,
quae tibi sunt placita,
et dictis exsequamur et factis.


(拙訳)
全能の神よ、切に願います。
私たちが理性的に考えをたえずめぐらし、
あなたが良いと思われるものを
ことばと行いの両方で果たすことができますように。


訳が難しいのは2行目の「rationabilia meditantes」の箇所。品詞分解すると、
rationabilis 形容詞rationablilisの複数・中性・対格 「合理的な、理性的な」
meditantes 動詞mediorの現在分詞 男性・複数・主格 「黙想する、考察する」

拙訳では、理性を使って、自分の周りに起こる出来事に対して、それが神様との関係でどのような意味を持つのかを思いめぐらす(反芻する)イメージで捉えた。

さて、日本語公式訳を見てみよう。

(日本語公式訳)
全能永遠の神よ、
わたしたちが、いつも聖霊の光を求め、
ことばと行いをもってみ旨を果たすことが
できるように導いてください。


神様への呼びかけが原文無視なことを除くと、忠実に翻訳されている印象を受ける。
ラテン語規範版の2行目部分を、「いつも聖霊の光を求め」と思い切った意訳しているが、原文にある意味からかけ離れているとまでは言えないと思う。

なお、Fr.Zのサイトによると、英語公式訳では、「always pondering spiritual things」(絶えず霊的なことを考え)となっているが、フランス語のミサ典礼に使用されるラテン語の辞書には、形容詞「rationabilis」の意味として「spirituel(霊的な)」があてられているため、訳としておかしいことはないとのこと。

「semper rationabilia meditantes」の翻訳を考えていると、自分は聖母マリアのことを思い出す。私は以下に引用した聖書箇所に見られる、聖母マリアのとった態度こそ、この集会祈願を理解するためのキーになると思う。

そして、彼らは急いで行き、マリアとヨセフ、そして飼い葉桶に寝ている乳飲み子を捜し当てた。それを見た羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを、人々に知らせた。羊飼いたちが語ったことを聞いた人々はみな不思議に思った。しかし、マリアはこれらのことをことごとく心に届め、思いを巡らしていた。
(ルカによる福音書 2.16-19)

それから、イエスは両親とともにナザレに下って行き、二人に仕えてお暮しになった。母はこれらのことをことごとく心に留めていた。イエスは知恵も増し、背丈も伸び、ますます神と人に愛された。
(ルカによる福音書 2.51-52)

(聖書はフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』より引用)